<ぼくの思う、価値ある人間像‥‥ってやつ?>
小学校のときに、なんとなく思った。
どうして、そんなに競争させるのだろうと。
いや、それほど整理されていたわけではないのだけれど、
とにかくなんでもかんでも「よーいどん」で、
なんでもかんでも順番をつけられていたような気がしてた。
もちろん、ぼくは特別に勝ち気でもないガキだったから、
そういう風潮に反抗してやろうというつもりもなく、
あんまり努力もしないで勝てるものなら勝ちたい、
程度の調子のいい考えでいたように思う。
ただ、知ってしまったのはこういうことだった。
クラスで一番だの、学校で一番だのといっても、
クラスの数だけクラスで一番の人間がいるし、
学校の数だけ学校で一番のやつがいる。
ひとつの市のなかだけでも、学校なんか山ほどあるのだ。
学校で一番のやつは、山ほどいる。
だとしたら、日本中に、
学校の数だけ学校で一番のやつがいると考えると、
学校で一番の人間ばかり集めた場所での、ビリのやつは、
とんでもなくビリっぽいよなぁ。
学校で一番なんていばってるやつが、
1万人くらい集まってるところを想像したら、
ずいぶん馬鹿馬鹿しい絵になると思うのだ。
そんな場面で、7000番になろうが、2000番になろうが、
どうでもいいと思わないか?
集まったやつらが、どっちが上だの下だのと、
懸命になっているのだとしたら、それはあまりにも虚しい。
そこにいる1万人まとめて「たいしたことないぞ!」と、
言ってやりたいくらいのものだ。
いやいや、小学校のときに、
そんなふうに整理できていたわけじゃないとは思うけれど。
勝ちにも、一番にも、上があり下があって、
勝っても一番になっても、自慢にはなりそうもないな、
ということには、気がついてしまったのだった。
その後、高校に行ってから、
気立てがよくてたのしいやつなのに、しかも
おまけのように勉強もできるともだちに出会ったりして、
一番がいけないことではない、ということについても、
ちゃんと理解しているつもりなんだけどね。
しかし、ぼくの考える人間の価値のなかでは、
順番を争うような種類の何かは、
あんまり重きを置かれてないように思う。
これは、もう何度も言っていることなのだけれど、
ぼくは、なぜだかわからないけれど
「あいつを呼ぼうぜ」と言われる人がいいと思っている。
結果はわからないけれど、自分のこどもにも
そんなふうに育って欲しいと願ってきたし、
知り合いの若い人たちにも、言う機会があれば、
そう言ってきている。
勉強ができるからといって、
「あいつ呼ぼうぜ」と言われるわけじゃない。
ケンカが強いから、「呼ぼうぜ」ということでもない。
たんまり金を持っているから、「呼ぼう」でもなければ、
地位があるから「呼ばなくちゃ」ということもない。
笑わせるのが得意だから「呼ぼうぜ」とも言い切れない。
いや、時と場合によっては、便利だからとか、
役に立ちそうだという理由で、
そういう「力」を必要とする場合もあるのかもしれないが、
それは、ちがうのだ。
もっと、親しい関係性なのだ。
なんだか知らないけれど「いたほうがいいやつ」、
「あいつがいたら楽しいだろうな」と思わせるやつ、
そういうやつこそが、ぼくの考える人間の理想なのだ。
取り柄で、みんなに大事にされるとしたら、
みんなは自分でなくて、その取り柄のほうを愛している。
それは、さみしいことなのだと思うのだ。
そんなんじゃなくて、なんの取り柄もいらなくて、
ただ「おまえが来ないから、さみしかったよ」と
言われるような、そんな関係をつくれるやつ。
これまでにも、何度か言ったり書いたりしてきたんだけど、
スチャダラパーのアルバムに
『WILD FANCY ALLIANCE』というのがあって、
そのなかに『彼方からの手紙』という曲があるのだ。
この歌で描かれている「ああ、あいつも来てればなぁ」
という言葉、これこそが、ぼくの憧れの価値なのだ。
このすばらしいアルバムが、いま手に入らないことには、
ぼくは珍しく義憤のようなものを感じたりしている。
ほんとうに!すごいアルバムなのだ。
一番になることにくらべて、
「あいつ呼ぼうぜ」がいいのは、そういう存在に、
誰でもなれることだ。
そういうやつが、何人いてもかまわない。
それどころか、
【世界中の人間が「あいつ呼ぼうぜ」になりますように】
って、看板立てたくなっちゃうくらいのものだ。
こんなことを書いていると、はたして、いま、
自分が「あいつ呼ぼうぜ」と言われる人間であるか?
疑問を感じてしまうのだけれど‥‥危ないね。
いい意味で、余裕とかヒマとかを所持してないやつは、
「あいつ呼ぼうぜ」って言ってもらえないんだよなぁ。
つまり、いまの自分は、自分の価値観からいうと、
あんまりいいやつじゃないかもしれない、な。
残念だなぁ。顔洗ってこよう。
|