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ダーリンコラム

エビちゃんは、キャッシュだ>

「へっへっへ、世の中銭や、ジェニなんや!」
と聞くと、なんかすごい。
こんなふうに言い切られたら、
反論できるほどの信念を
自分が持ち合わせてないことに気付いて
だいたいの人が、たじろいでしまうにちがいない。

これを絵で想像するとしたら、そこには「銭」が
「現金=キャッシュ」として
描かれているのではないだろうか。
札束がひらひら飛んでいるようなシーンだ。

ちょっと昔の映画などでも、よくあった。
部屋中に敷きつめられた紙幣の海に、
裸の女性が泳いでいるような場面。
そこに笑い転げながら、悪い男が飛び込んでいく。

ギャング映画などでも、銀行から強奪した札束が、
トランクからこぼれて
ひらひら道路に舞うような場面は、お約束だ。

あれが、貯金通帳に並んでいる数字だったら、
迫力はまったくないだろうなぁと思う。
最近のなんとかファンドとかの経済事件とかで、
100億円だとか1000億円だとかいう数字が
よく登場するけれど、
その数字について感情的に怒っている人はいなそうだ。
顔を真っ赤にして「けしからん!」と、
言ってるおやじが少ない理由は、
現金という絵が見えないからなのだろう。

昭和43年に起こった有名な「3億円事件」では、
その現金がジュラルミンのケース3箱で、
運ばれたということだ。
この犯人を英雄視する者もいたし、
憎む者もいたけれど、
その感情の根本にあるエネルギーは、
ジュラルミンの箱3つ分の現金というかたちで見える。
そのものさしで、1000億円をビジュアライズしたら、
ジュラルミンの箱1000個分ってことになって‥‥あらま、
また現実的な絵が見えなくなっちゃった!

いや、こういうことを言い出した理由がある。
「現金=キャッシュという概念」がおもしろい
と、思ったのだ。

人間は‥‥っていうか、ぼくらは、
目に見える手持ちの10000円と、
数字というかたちで権利として持っている10000円が、
同じものだという理屈を知っている。
「同じです」というルールの下で生きている。

しかし、同じだというルールはルールなのだけれど、
ほんとうは同じじゃないのだと、思ったのである。

バッタ屋という商売の人たちは、
「キャッシュ」を持って、
仕入れに出かけて行くらしい。
不良在庫になっているような商品を、
安く安く買いたたいて、値段が決まったら
さらにもう一度押す。
「キャッシュや、これだけにしときぃ」
というような感じで、有無を言わさず
仕上げの値引きをさせる。
「キャッシュ」も、数字も、
おなじ金額なら同じ価値、
ということになっているのに、
これが効くのだ。
(いや、ぼくは見たわけじゃないんですけどね。
テレビのドキュメンタリーで知ってるだけっす)

知ったようなことを言って申しわけない。
でも、そういうものだ、ということは言えるだろう。

「あんな男とデートするくらいなら、
 死んだほうがいい」
みたいなセリフを言う人は、いくらでもいる。
大げさな言い方をする人たちだ。
デートするとかしないとかで、
死ぬことはないだろう。
さらに、その「あんな男」というやつが、
「キャッシュ」を持ってきて口説いたら、
どうなる?
むろん、「そんなの関係ない」
という人の方が多いだろう。
「何千億兆まん円」積まれたって、
人の心は動かない。
それはそれで、正しい判断だと思うし、
その言葉を疑うつもりはない。
でも、快か不快かは別として、
目の前に、誠心誠意を告げられながら、
札束が積まれていったら、
誰でも、相当にドキドキすると思うのだ。

「キャッシュ」を前にして、
「うん」という言うかもしれない自分について、
一度や二度は想像してみたほうがいいと思う。
世界文学に描かれているような、
人間と取引する悪魔は、
現実の世界では、
そんなふうに「キャッシュ」を媒体にして
現れるのではあるまいか。

「キャッシュ」というものは、たぶん数字でもなく、
価値そのものですらなく、
もっと暴力に近いようなスゴミを持ったパワーなのだ。

「キャッシュ」は、ほんとうの価値とは別の輝きであり、
匂いであり、魔力というものである。
そして、しかも、とても魅力的なのだ。

こんな「キャッシュ」
というコンセプトを考えついたのは、
『SMAP X SMAP』という
テレビ番組を観ている時だった。
ゲストが、蛯原友里と押切もえというモデルの二人、
「エビちゃん」と「もえちゃん」なのだ。
白い大きなウエディングドレスみたいなものを着て、
ゲスト席にいるのだった。
このエビちゃんたちがいるということについて、
SMAPのメンバーズの、もう、うれしそうなこと!
どんな大物と言われる人たちが来た時よりも、
全員が弾んでいるのだ。
会話の内容だけを取り出すと、
まったく逆に、エビちゃんたちのほうが、
「中学生のころから憧れだった
 SMAPに会えてうれしい」
ということになってしまうのだけれど、
画面から伝わってくるのは、そうじゃない。
SMAPの男のコたちは、イソイソしている、弾んでいる、
気を引こうとしている、
狩人になっているように見えた。

このときに、
「キャッシュ」という概念が生れたのだった。
SMAPのメンバーズの芸能界での価値は、
いわば、スイス銀行に口座を持っているようなものだ。
財産家であり、
憧れられたり尊敬されたりしているような
価値のかたまりのような人たちだということになる。
しかし、エビちゃんは、
総資産ではSMAPに及ばないけれど、
「キャッシュ」としてそこにいるのだ。

人気にも、「キャッシュ」と、
「キャッシュでない数字」とがあると思いついたのだ。

いま、エビちゃんとは、最大の「キャッシュ」なのだ。
そのコンセプトの発見には、
自分でも感心してしまった。

先日まで「レイザーラモンHG」は、
かなりの「キャッシュ」だった。
「テツ&トモ」も、かつて「キャッシュ」だった。
小泉チルドレンの「杉村太蔵」議員も、
金額はわからないけれど、
「キャッシュ」として流通する。
「娘十八、番茶も出花」ということばは、
「十八歳くらいの女性は、
 キャッシュだぞ」という意味だ。

名前を人に知られた誰や彼は、ほとんどが、
「キャッシュ」である時期を経過していると思う。
「キャッシュ」として流通している間に、
少しずつ貯金をしたり、投資をしたり、
事業を起したりして
「財産」を形成していくのが一般的なやり方だ。
SMAPなんかの場合は、大きな財産を持ちながら、
「キャッシュ」として機能し続けているからスゴイ。

「キャッシュ」は、生々しくて、下品で、と
蔑まれつつ眩しく光る暴力である。
大きな「財産」を持ちながら
「キャッシュ」を持ち合わせてないというような人も、
かなりいるような気がする。
そういう生き方もあるし、
それを目指している人もいる。
借金してでも手元の「キャッシュ」を見せたくて、
自転車操業をしている人もいると思う。
それはそれで、物語としておもしろそうだ。
「キャッシュ」に群がって、
そこでメシを食う人々もいる。

「キャッシュ」は、
金額の多寡とはあんまり関係ない。
1億円の定期預金より、5億円の国債より、
多くの利益を生み出すのは
たった100万円の「キャッシュ」かもしれない。
そんなふうにも思える。
これは、経済の教科書には書いてなさそうだけれど、
「芸能」や「宗教」の秘伝書には、
大原則として記されているような気がする。

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2006-07-10-MON

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