<コロッケ的>
コロッケについては、どれほど考えてきたことだろう。
いや、コロッケについてたくさん考えてきたことなど、
自慢することでもない。
わかっている。
しかし、コロッケについて、
どういう人間が、考えているだろうか。
また、おれは性懲りもなく
『おいしいコロッケありますMAP 』
という企画をはじめた。
こういうときは、ほんとうにGoogle様に感謝する。
現実の世界を図形化したものが地図というやつで、
そこに、ありもしないコロッケの絵を乗っけるだけで、
コロッケと世界がひとつになるのだ。
コロッケだらけの地図を見ていると、
コロッケがこの惑星の支配者であるようにさえ
思えてくる。
コロッケが、火や水や金や土などのように、
この宇宙の元素であるような気さえしてくる。
そうなったらカレンダーだって、
「日・月・火・水・木・コロッケ・金・土」と
並んでいても、少しもおかしくないではないか。
世の中にはね、男と女とコロッケしかいないんだから、
仲良くしなきゃだめだよ、と言われても、
つい首肯いてしまいそうだ。
ああ、コロッケについて、
たったひとつのことを言おうとしていたのに、
余計なことばかり言っているじぶん‥‥ばかばか!
◆コロッケの日本一や、コロッケの世界一はない!
これだけが、言いたかった。
それぞれの地域で、それぞれのコロッケが、
「これが、たぶん日本一おいしい」と思われながら、
今日も揚げられ、今日も食べられている。
どうして、
日本(世界というのはやはり無理がありそうだ)の
あちこちで、「手前味噌」的に、
「これが、たぶん日本一おいしい」と思われているのか?
それは、各地の各店のコロッケの店が、
それぞれの顧客に「揚げたてコロッケ」を、
提供しているからなのである。
コロッケの揚げたては、
だいたい日本一(!)おいしいものなのだ。
そして、その日本一(!)おいしいコロッケは、
遠くに運ばれて、試食なんかされたら、
「揚げたてコロッケ」でなくなってしまうから、
「まぁまぁそれなりにおいしいコロッケ」に
なってしまうというわけだ。
ものすごく乱暴に、日本中のコロッケの
揚げるための調理器具と、材料と、揚げている人を、
1ヶ所に集めて、いっせいに揚げてもらって、
試食して審査することで、
いかにも押しも押されもせぬ日本一のコロッケを、
決定することはできるかもしれない。
しかし、実際に、そのために集うには、
コロッケの売り上げも利益も、小さすぎるのではないか。
コロッケの専門店や、チェーン店なら別かもしれないが、
いま日本中でおいしいと推薦されているコロッケの、
ほとんどが「小さな店」あるいは、「家庭」なのだ。
ほんとうの全国一やら、
公認の日本一なんて看板があっても、
特別にいいことなど、あんまりあるように思えない。
そうなると、コロッケの全国賞味大会があって、
コロッケの優勝だの、コロッケの金メダルだのが、
真剣に決定されても、それは、
テレビやら雑誌やら、
そのニュースを伝える機関がうれしいだけのことだ。
全国各地で、それぞれ勝手にお客さんとお店が、
「これが、たぶん日本一おいしい」と
言ってるコロッケが、何百何千あったとしても、
そこに何の不都合があろうか。
あちこちのコロッケは、いつまでも
「ほんとうの日本一」などという称号を無視して、
それぞれの地域で、揚げたてのおいしさを、
近所の人たちに提供していれば、
「たぶん、日本一」を、みんなで楽しめるではないか。
市町村大会だの県大会だの、全国大会だのという、
敗者を増やしていくことによって、
たったひとりの勝者に価値を付けていくような競争は、
コロッケには似合うものではないのだ。
なんでもかんでも順番を付けるのが、
なんだか当たり前のようになってしまっているけれど、
「みんなよし」という価値観だって、ちゃんとあるんだ。
コロッケのようなものは、いっぱいあるだろう?
コロッケは、揚げたて。
油の海を泳ぎ浮き、
かりっとした衣をまとったじゃがいもは、
吹き出す熱い湯気と共に、
おまえの歯に割られ、
舌に練られ、味見られ、
のどへ、腹へと、
何かを伝えに滑り降りて行く。
では、またね。 |