ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

持続可能な。

「サスティナブル(sustainable)」ということばは、
ま、なんかかっこつけてるような気もするけど、
意味としては、賛成っていうか、いいなと思うなぁ。

サスティーンというと、ギター弾きなんかが、
ずっと続く音という意味で使っていたから、
おそらく「持続する」っていう意味だよね。
そんでもって、「able」がつくんだから可能かい、と。
「持続可能な」ということだよね、つまりは。
とぎれない、ずっと続けられる、そういうことだ。

「ロハス(LOHAS)」の「ス(S)」の字は、
サスティナブルの「s」らしいから、
この、持続可能なっていうことは、流行ってるんだろうね。

これまでのいろんなことが、
いかに「持続可能な」ものでなかったか、
ということが、サスティナブル流行の裏にはあるね。

気張ったり、無理したり、集中しすぎたり、
力量以上のことを狙いすぎると、
持続はできないということになっちゃうんだなぁ。
こりゃぁねー、しょうがないんだよねー。
なにか「いいこと」をしようなんてときには、
たいていは一念発起とか、しちゃうものなんだよな。
一念発起が悪いわけじゃないんだ。
一念発起の翌日も、翌々日も
一念発起しているかといえば、
それはかなりむつかしい。
ましてや、1年後も一念発起しているなんてことは、
むつかしい以上にむつかしいことだ。

たまにはいるよ。
ずっと一念発起のこころのままの人が。
そりゃ立派だということになるよ。
だけど、その立派というのはさ、
他の人にはむつかしいことを
やりとげちゃうんだぁ‥‥という立派さなんだ。
10人とか100人とかが、そろって何かをやりとげる。
そんなことは、とんでもなくむつかしいわけでさ。
挫折したそれぞれの人が反省したりもするんだろうけど、
反省してもしょうがないんだ。
意志が弱いとか、思っちゃったり、
責めちゃったりしちゃいけないんだよね。

一念発起したり、大きな決意をしたりするようなことが、
なかなか長く続けられるものじゃない‥‥
という具合に、人間という生きものは出来ている。
そんなふうに考えるほうが自然でしょう。

人間の可能性を信じるとか言って、
「この100人は、一名の脱落者もなく、
 本懐を遂げるのだ」
なんてことを本気で言っていたら、
逃亡やら裏切りやらリンチやら拷問やら、
という世界に続いてしまうかもしれない。
他人への無理強いと、自分への監視とが無限に続くんだ。
「わたしたちは、できるはずです」とかさ、
信じすぎるのは、ほっんっとに、やめてほしい。

善意が、善意として続けられるはずだ‥‥なんてことは、
絶対にありえない!

あえて強調して言うけど、
「ありえない!」というくらいに表現したほうがいいんだ。
揺らいだり、さぼったり、薄まったり、忘れたり、
そんなことが、当たり前なんだ。
で、その当たり前の人間が、
続けられるようなことでないと、
善意が、危ないことをはじめちゃうんだ。

そう思っているぼくとして、
「サスティナブル(sustainable)」という考えは、
「平であり凡であるような人間」が主語になっているから、
いいんじゃないかなぁと思ったわけだ。

「それ、スタートから厳しすぎるだろう?」
だとか、
「それ、赤字を出さないでできないか?」
とか、
「それ、もっと誰でもできるようなことにならないか?」
だとか、
「それ、痛くない方法はないのか?」
なんていうふうに、ぼくが考えるのは、
一念発起でやるようなことじゃ、
続けられないからなんだよね。

いちばん「サスティナブル(sustainable)」なのは、
「それ、たのしくできないか?」なんだけどねー。
つまり、それが「たのしくなかったら、やめちゃう」
というくらいの決断が重要なんだよな。
「やれるかもしれない」くらいの遠慮がちな態度でも、
もう、危険だとさえ、ぼくは考えてる。
いくらなんでも、
そりゃあまりにも「へっぴり腰」だろう、
と思えるかもしれないけど、
本気の「へっぴり腰」は、あんがい強いんだよー。
やってみたら、わかるって。

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