使い回しとか、ありあわせ。
2009-08-17
「ありあわせ」とか「使い回し」って、
あんまりいい意味で使われてないけれど、
なんかさ、ものすごく好きだなぁ。
「新しいなにか」が生まれるときって、
「その新しいなにか」の部品や環境が、
すべてそろっているはずがないんだよね。
自動車がはじめて走ったとき、
その車体は、おそらく馬車のものを
そうとう流用したと思わない?
よく語られるけれど、
ホンダの最初の原動機付き自転車って、
ガソリンタンクが「湯たんぽ」だったっていう話。
伝説なのか、事実なのか知らないけれど、
わざわざどこにもないガソリンタンクをつくるより、
そこにある「湯たんぽ」を有効に利用するほうが、
先に進めるに決まってるもんね。
子どもが熱を出した、氷のうはないか、
ポリ袋ならある、じゃそれでいい氷を入れて‥‥。
これも「ありあわせ」の発想だ。
氷のうを買いに行くのもいいだろうし、
未来の氷のうとは、どういうものか考えるのもいい。
だけど、「ありあわせ」が使えるんだったら、
熱を出して苦しんでいる子どもには、
「ありあわせ」でいいだろう。
日本のプロレスがはじまった当時、
柔道の出身者、空手の出身者、相撲の出身者が集められた。
プロレスがなかったのだから、選手もいなかったはずだ。
もう若い人には通じないかもしれないけれど、
力道山とは相撲の四股名だ。
おそらく、あたらしい競技スポーツが輸入されるたびに、
似たような動きをする選手を、
「やってみないか」と誘ったんだろうと思う。
「ありあわせ」だろう、こういうのは。
陸上競技の選手が、サッカー部に「使い回し」されるとか、
いくらでもある話だよね。
古い話のついでに、笑われるくらい古い芸能ばなしを。
歌謡曲の大御所、三橋美智也は民謡の歌い手だった。
三波春夫、村田英雄は、浪曲師だった。
歌謡曲という新しいジャンルができるときに、
すべて「使い回し」されたとも言える。
組織だとか、チームだとかにしても、
おそらく、
「あれをしたチームにこれをしてもらおう」
という「使い回し」で進化していくんだと思う。
「これができるなら、こういうのも得意じゃないか」
みたいなことで、「新しいなにか」がはじまる。
ぼくは、いちばん長い間やってきたのが、
コピーライターという仕事だったのだけれど、
これは、「使い回し」の連続なんだよね。
どんなに新しいものに見えても、
「これと、これは、あのときのあの視点で考えたら、
こんなふうになるんじゃないか」
と、なにかしら新しくないものに似るんだ。
そしたら、そこからはじめれば
まったく手のつけられない問題って、
あんまりないものなんだよね。
ほら、インターネットでなにかはじめるというときでも、
まず「新聞」という古いものの名前をつけたでしょ。
やっていくうちに、
新聞と似ても似つかないということがでてきても、
そこから、新しく考えればいいことだからね。
新聞というイメージを「使い回し」することから、
出発したというわけだ。
どんどん「使い回し」されたり、
みんなから「ありあわせ」だと思われるような
モノやヒトや、コトが、
実はいちばん可能性に満ちているってことさ。
水だの、空気だの、緑だの、土だの、
そういうものが、いっちばん、
「使い回し」されているよねー。
そういう人間になりたいもんだ。
おまけみたいなダジャレだけど、
「ありがたきしあわせ」の頭とお尻をつなげたら、
「ありあわせ」になるんだよね。