ダーリンコラム |
<ストリッパー> 青少年のころの男は、みんなストリッパーが大好きだ。 いや、みんなじゃないかもしれないけれど、 ま、おおむね、ね。 いや、大胸って意味じゃなく、概ねのほうね。 ぼくも、おおむねのほうの、平凡な青少年だったし、 ストリッパーは大好きだった。 このことについては 『古事記』などを持ちだして言い訳するまでもない。 しかし、それはそうと、 自分は、どうも、他の健康な性欲の青少年以上に、 ストリッパーを好きなのではあるまいか、と、 前々から思っていた。 だいたい、ぼくくらいの年齢になると、 恥もだいたいかき終わったようなところもあるし、 自分のなかのヘンタイ成分についても、 おおよその目処がついているので、 格別な『仮面の告白』もできなくてもうしわけないけれど、 ストリッパーへのシンパシーについては、 どうやら、ただの青少年の性欲的なうれしさを 超えた何かがあると確信していた。 なんでこんなテーマで書き始めようと思ったかというと、 日曜のテレビでの、 明石家さんまさんの「自分まるごと芸」に、 すっかりやられてしまったからだ。 さんまさんという人は、 最後のバタフライパンツくらいは 付けていそうだけれど、ほとんどまる裸になっている。 『クイズミリオネア』の特別版で、 回答者席に座った彼は、とうとう、 元妻である大竹しのぶさんに公開で電話して、 クイズに参加させてしまった。 プライバシーの切り売りと批判する人もいるだろうけれど、 そこまで売る「必要」もなかったはずで、 さんまさんは、番組がおもしろくなるように、 いつもより余計に「ひと肌脱いだ」だけなのである。 そういう無言の要求があったら応えてしまう芸人だ。 そんな明石家さんまを見ているうちに、 ストリッパーを思い出したのである。 自分ももちろんそうなのだけれど、 表現に関わる仕事をしている人たちは、 どこかしら露出願望のある人が多いと思う。 隠している部分が、それを見せることによって たくさんの人々に喜ばれるならば、 できるだけサービスしたいと思っているだろう。 どんなに控え目な生き方をしていても、 何かを表現する職業にあって、 自分の隠している部分を露出せずに済むことはない。 それが、性に関わる身体であれば、 ストリッパーになるわけだ。 演じる表現をしている俳優にしても、 演じさせる表現をしている演出家にしても、 どこか、自分の内緒の部分を「表現」にして露出している。 その露出への覚悟だか決意だかの程度が、 ストリッパーというかたちをとると見えやすいのだと思う。 だから、おそらく、健康な青少年以上に ぼくはストリッパーにシンパシーを感じてしまうのだ。 で、ここまでで書くのをやめてしまうと、 よくあるエッセイみたいなものとして終わるのだけれど、 もうちょっとだけ続けてみたい。 この、ぼくの持っている ストリッパーへの共感みたいなものが、 おそらくこれからの時代は、 もっとみんなのものに、 大衆全体の感性になっていくのではないかと思うのだ。 カラオケを歌うことだって、ある意味で表現だし、 その表現のなかには、 社会生活をふつうに送っていたら隠すべき心情や、 特定の人にしか見せないはずのしぐさや声などが、 自然に混じりこんでしまうはずだ。 そうでないカラオケもあるだろうけれど、 元歌の歌手のモノマネでない歌を歌おうとしたら、 必ず「表現」の世界に入り込んでしまう。 表現というものは、 当然のように「露出」(裸になること)を含むから、 シロウトだったはずの山田くんやらヨシコちゃんは、 軽いストリッパーになることになる。 プロの表現者たちが国会議員に立候補だとしたら、 カラオケやら、シロウト演劇やらに関わる人たちも、 市会議員や村会議員や、 団地の自治会や学級委員くらいの立候補は しているということになる。 立候補したら、批評や批判の対象になってしまうのだ。 カラオケの例で言うと、 案外ピンとこないかもしれないけれど、 インターネットで考えたら、もっとリアルだろう。 自分のホームページを作った途端に、 よほど厳重に自己抑制している人は別として、 誰でもが、自己露出をスタートさせてしまう。 その脱ぎ方の程度はあるだろうけれど、 ほとんどのホームページの管理人が、 世間に対して、自分の社会的に隠していた部分を 裸にして見せることになる。 よほどの自己抑制している人にしたって、 どこをどう抑制するかという「隠し所」の存在は、 そこをていねいによけている限り、 「裏返しの露出」ということになっているはずだ。 いままでの「無名の大衆」というだけのあり方に比べたら、 かなりコワイことをしているということになる。 裸になった分だけ、リスクも大きくなるから、 肌は露出しても顔を隠すというかたちをとる。 つまり、現実に対応した名前や存在を隠して、 なおかつ「露出」をしていくわけだ。 そして、露出した分のリスクを回避する方法を 誰もが持っているわけではないから、 「現実の誰かさん」であることを、 より周到に隠すようになっていく。 そして、いずれどういう方向に行くかという予測を 不完全なりに立ててみた。 1.『見てあげる』ことのほうが、価値を持つ。 見てあげる力のほうが、ビジネスになる。 2.『見せる場』が、もっと必要になる。 その場をつくるビジネスが盛んになる。 3.みんなが匿名の露出を加速させるので、 世の中全体が、『薄着』になっていく。 こんなふうに世の中がなっていったときに、 ぼくは果たして、これまでのように ストリッパーを好きでいるだろうか、と考える。 たぶん、ストリッパーへの共感は、 他の人がやりたがらないサービスを、 リスクを負いながらやっていたところに あったのだと思うのである。 誰もが、顔を隠して裸になるような時代には、 ストリッパーへの需要がなくなってしまうから、 ぼくの共感も、そこで消えるんだろうなぁ。 ストリッパーのことを書いていたはずなのに、 私小説論みたいになってきちゃった。失敗失敗。 もっと、ちがうことを書き始めたつもりだったんだけど。 しょうがないなぁ、こういうこともあるか。 では、最後に、こんなお言葉を。 『自分で脱ぐのはいいけれど、 脱げと言われて脱ぐのはイヤよ。 着ている時に覗かれるのは、もっとイヤ』 |
2001-07-23-MON
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