おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson406 いきやすい関係 「生きづらい」と感じる人が多い世の中で、 もうちょっと、「息のしやすい」「生きやすい」環境に、 自分のまわりをできないものか。 そんな問題意識をこめて、きょうは、 「いきやすい」居場所について考えてみたい。 「行くも仁義。一次会だけでも顔をだしなさい」 社会人になりたてのころ、 よく母から注意をうけた。 人見知りなのだ、私は。 よその人がうちにくると、ぷっ、とふてくされて 2階の自分の部屋に行ってしまうような子どもだった。 ちいさい子どもにとって、 あまりよく知らないおばさんと話すのは、 おもしろくない、をとおりこして苦痛だ。 はやく、この知らないおばちゃんが帰って、 母と姉と私だけのいつもの楽しい時間になればいいのに といつも思っていた。 姉は正反対で、 いつ、どんな人がきても、嫌な顔ひとつせず、 わけへだてなく社交した。 だから、なにかの集まりにいっても、 姉は、「ちーちゃん」「ちーちゃん」と行く先々で 好かれていた。 そんな私だから、 好きな人とだけ濃くつきあいたい、 それ以外はどうでもいいようなことをすると、 母はお見通しだったのだろう。 会社人になってからも大人数の飲み会やつきあいに 顔を出したがらない私に、 母は、これだけはよく言った。 「行くも仁義じゃ。 一次会だけでも顔を出しいよ。 一次会だけ顔を出して、ぱっ、と帰えりゃぁええが」 母曰く、一次会だけ顔を出して、 おいしく飲んで、食べて、にこにこして。 いやならそこでさっと帰ればいい、それでも 一次会だけは行けというのである。 正直、なんでそんなことをしなければいけないのか リクツでは飲み込めなかった。 でも、会社で宴会の出欠表がまわってくるたび、 「行くも仁義」の母のひと言がふっ、とよぎり、 なぜかいつも、まるをしていた。 いま、大学生でも、 大学に「行きづら」かったり、 休みがちになったり、ついには大学にこなくなったり する人が多くて、教員も対応に追われている、 という話を、よく耳にする。 ある先生は、 ゼミの学生の1人が大学にこなくなったので、 「ねえ、○○さんを最近見ないんだけど、 どうしたの?」 とゼミの学生たちにたずねた。 そのゼミの学生は全部で11人。 春から11人のチームでスタートして、 もう10月も過ぎようとしていた。 ところが、 だれひとり、その学生の近況を知らず、 その学生がどこに住んでいるのかも知らず、 電話番号も知らず、 それどころか、ただの一人も、 その学生の下の名前を知らなかった というのである。 これには、 日ごろつきあいのわるい私も驚いた。 なんとなくは知っていた。 私たちが学生のころも、 つきあいの狭い人も、ひろい人もいた。 だけれども、 なんとなくは知っていた。 同じチームで半年もたてば、 だれかしら、 あいつはどのへんのアパートに住んでるとか、 どこでバイトをしているとか。 名前ぐらいは、だれかが。 それが、「1回話したことがある」とか、 「1度だけ、先輩の飲み会に来ていて 飲んだことがある」とか、 どんなに希薄なものだとしても。 白か黒か。 いまどきの人間関係は 日々そうなりつつあるのではないか。 つまり、 とっても仲がいいか、まったく知らないか。 好きか、赤の他人か。 そこには「グレーゾーン」がない。 濃いつきあいではないけど、そこそこ知ってるとか、 友だちまでは言えないけど、まあ接点はあるとか、 グレーゾーンの住人が、ズドーンと抜け落ちている。 家族にしても、友人にしても、 2、3人のごく少数の限られた好きなもの同士が、 堅く身をよせあい。 それ以外には、 なぜか関心さえもてない、そういう感じになりつつある。 ちょうど、その話を聞いた日、 行きの電車の中で、 『友だち地獄』という新書を読んでいて、 衝撃を受けたのは、 今やクラスのまとまりが希薄になって、 昔のようないじめさえ成立できない、ということだった。 昔のいじめは、「いじめっ子」と「いじめられっ子」 それをとりまく「傍観者」に、クラスが大きく三分した。 いじめ自体はよくないが、そういう構造になるのは、 「ひとクラス」というまとまりを前提とした話だ。 いまのこどもは、仲良しグループをはる範囲が、 どんどんどんどんせまくなっていて、 せいぜい2、3人の小さな仲良しグループ、 ピタッとくっついていつも一緒に行動して、 それ以外には関心すら払えなくなってきている。 だから、その小さな仲良しグループ内で 仲間はずれにされたり、無視したり、 そういうとても小さな単位でいじめが起こっている。 というのだ。 ひとクラス40人でさえ関心が結べないのなら、 ましてや、国や社会はどうなるんだろう? 日本「列島」でなく、 2、3人のごく小さな人間関係のグループが、 いくつもいくつもびっしり集まった日本「諸島」だ。 みんな自分の小さな島の少人数の住人には、 好きで、濃く関心を払うけど、その外は「無」。 ブラックゾーンだ。 グレーゾーンの人間関係がまったくない環境とは、 「顔をあげれば、赤の他人」。 気がつけば四方八方、黒だらけ。 顔のそばまで他人が迫って…。 これでは、呼吸しづらい、息づらいのもあたりまえだ。 私がこどものころ、ふてくされて2階へ逃げた、 そんな失礼なことをしたおばちゃんが、 進学だ、成人式だ、出版だと、 なにかといえばお祝いをくれた。 母が病気で、父は仕事で赴任しており、 姉と私でおろおろしているようなときも、 おばちゃんが、おかずをつくってかけつけてくれたり、 心強かった。 学校で仲のよかった友だちとケンカしたときも、 クラスでそんなに仲のよくなかった子が、 媒介のような役目をはたしてくれて、仲直りできた。 いやいや出たような会社の飲み会で、 やっぱり大人数はニガテだと、出てから後悔したようなときも、 たまたまとなりに座った、話したことがない人と話をして、 次の朝、会社で会って、 「ああ、きのうはどうも!」なんてあいさつしたあと、 なんか、いい。 それで、特別、その人と友だちになるとか そんなのではない。 でも、その人一人分、 会社という自分の居場所で、 呼吸がラクになったような気がする。 グレーゾーンの住人に思えば救われてきた。 中学生や高校生、大学生を教えていて思うのは、 やっぱり彼らも、 仲良しどうしのごく少人数で行動しているので、 それを引き離して、グループをつくり、 ワークをさせたりすると、 はじめは、よく知らない同士だから、 とても身をこわばらせて緊張している。 ところが、その日一緒にワークをやり、 次の回で教室に行ってみると、 同じ教室かと目を疑うくらい、彼らの表情や体が柔らかい。 「一回話したことがある」 「一回いっしょに作業をしたことがある」 そんな人間が、自分の空間にいてくれること、 増えていくことは、 ほんとうに呼吸のしやすいことなのだなあと、 彼らを見ていて驚かされる。 白か黒か。 つきあいたい人とだけつきあう。 それ以外とはつきあわない。 用事で接する人とは、用件だけで接する。 それ以外の無駄話はいっさいしなくていい。 メールとか、いまの世の中は、 そんな人間関係を結ぶのに、 まことに都合よく出てきている。 私もふつうにしていたら、 グレーゾーンの住人がどんどん減ってきているように思う。 でもそれは、 「顔をあげれば、まったく他人がすぐそこまで」 という状況に自分を追い込んでいることでもある。 だからといって、 グレーゾーンの人間を意識して増やそうというのもなあ。 なにより、その人に対して失礼だし、 そこだけを追い求めると、 どうもうまくいかない気がする。 大人数の飲み会なんていまどき流行らないし。 なにより自分がしんどいし。 グレーゾーンの住人は、 あなたにとって、どんな人たちだろうか? グレーゾーンの住人はどうすれば増えるのだろうか? |
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2008-07-30-WED
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