おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson475 「くれ文」から「与え文」へ 気づいてみると私たちは、どこか ものほしそうな「くれ文」を書いている。 「わかってくれ」、「認めてくれ」、 「許してくれ」、「教えてくれ」、 「救ってくれ」、「愛をくれ」、 くれ、くれ、くれのオンパレード。 しかし、「くれ文」が読み手の心を打つことはない。 くれ文は、相手のパワーをほしがり ときに、むさぼり、むしり取るような文章だ。 くれくればかり言っても、もらえないばかりか 相手はうっとうしがって逃げていく。 文章指導の現場で思うことは、 最終的に相手に伝わり、相手の心を打つ文章は、 「与え文」になっている、ということだ。 相手にチカラを与え、相手をふるいたたせるような文章。 どうしたら「くれ文」から「与え文」へと 脱却できるのだろう? 年またぎのテーマ「満たすものと損なうもの」にも関連して きょうはそれを考えてみたい。 大学の授業で、 「一人の相手に通じる文章を書く」 というワークをやったときのことだ。 女子学生のAさんが、 「おばあさんに感謝を伝える手紙を書きたい」 と参加していた。 最初、Aさんが思っていた、 おばあさんに書きたいことは、 「あなたをもっと幸せにしたい。」 だった。 りっぱなメッセージだ。 「ずいぶん、おばあさん孝行な娘さんじゃないか」と 感心する人も多いんじゃないか。 しかし、私自身、なにか違和感があった。 私がおばあさん本人だったとして、 孫に「あなたをもっと幸せにしたい」と言われて、 それは、うれしいは、うれしい。 かわいい孫だもの、 何を言われてもうれしいには違いないが、 「自分は孫に心配をかけているのだろうか」とか、 どっか、なにか、歓びきれないものがある。 私がひねくれているせいだろうか。 案の定、そう言ったAさん自身、しっくりしないと言う。 「私はおばあさんをもっと幸せにしてあげたい」という、 この一見もっともなメッセージの、 いったい、どこがしっくりしないというのだろうか? 言葉というものは、 「何を言うかより、どんな気持ちで言うか?」 つまり、自分という氷山の根っこにある想い、 「根本思想」が大切だ。 Aさんは、自分の氷山の底の底にある、 自分でもまだ自覚しきれていなかった想いに 問いかけてみた。 すると、たいへんなことに気づいた。 「あなたをもっと幸せにしたい」というメッセージの 根底にある想い、それは、なんと 「贖罪」だったのだ。 おばあさんは父方、母方、二人いるが、 もう一人のお祖母さんが亡くなったとき、 Aさんは、自分が力になれなかったことを ひどく後悔していた。 若く心の澄んだ人が抱きがちな自責の念、 「自分がお祖母さんを死なせてしまった」というくらいの、 (そんなことは決してないと思うのだが) Aさんは罪悪感を持っていた。 その罪悪感の投影で、 いま、生きているおばあさんに対して、 「あなたをもっと幸せにしたい」と言っていたのだ。 この文章、このままでは「くれ文」だ。 文面に一言も、何かを「くれ」とは書いていない。 むしろ、「あげる」と言っている。 けれども「根本思想」、心の根っこでは 「許してくれ」と言っている。 人に「ありがとう」を伝えるのは難しい。 無意識の欲がでるのを、 私たちは無意識だけに抑えられない。 たとえば、昔世話になった先輩に感謝の手紙を書く、 こんなとき、 「立派な先輩に、私はずいぶんいろいろ 教えていただきました。 ありがとうございます。 先輩に、あんなにいろいろ教えていただいたのに、 私は、失敗ばかりで、何一つ恩返しができなくて、 自分で自分が情けなくなります。 この先、先輩の仕事を引き継いでやっていけるのかどうか、 その資格がないんじゃないか、とふがいないです…」 と、ついこんな文章を書きがちだ。 私だって、そんなことはしょっちゅうだ。 でも、これは、相手に感謝を言っているようで根底では、 「いま仕事で不安な自分をわかってくれ」 「慰めてくれ」 「優しい言葉のひとつもかけてくれ」 「へこんだ自分に元気をくれ」 と言っている。 もらった人は、「嬉しい気持ち」もそこそこに、 必死で「慰めのための文案」を ひねり出さねばならなくなる。 そこで、もらおうとするか? それでも与えようとするか? 無意識だけに、人間の本性は ときにあさましいものがある。 女子学生のAさんは、 「亡くなったお祖母さんへの罪悪感」が 根底にあったことによく気づいたと思う。 なかなか気づけるものではない。 気づいて、今度は意識して、角度を大きく変え、 自分の気持ちの投影のような文章を書くんじゃなくて、 徹底的に、相手側の立場に立ち、 相手本意で考えていった。 おばあさんの人生をふりかえったり、 これまでで一番印象に残るおばあさんの姿を思い返したり、 そのときのおばあさんの気持ちを想像してみたり。 Aさんがまだ、保育園のころ、 送り迎えをしてくれたおばあさんの姿も蘇ってきた。 保育園の帰り道、 老人と幼児だから、あまり、言葉をかわすわけではない。 でも、だまっていても、一緒にいるだけで なんともいえない至福感に満たされていったことなどが 思い出されてきた。 あくまでおばあさんの立場にたち、 おばあさん本意で考えていった果てに、 最初「あなたをもっと幸せにしたい」と言いつつ、 もうひとつ腑に落ちなかったAさんは、やっと、 ほんとうに言いたいことがとてもはっきりしたと言った。 いま、おばあさんに、 ほんとうに伝えたいこと、 それは、 「あなたといると幸せです。」 きいたとたん、涙がこみあげた。 おばあさん本人の気持ちはおばあさんにしかわからない。 けれど、私が読み手だったら、 孫にこう言われて、なんと、うれしいことだろう。 「生きていてよかった」 「自分でも役に立てる」 「この孫のためにもうひとがんばり!」と、 わたしなら、この手紙をもらって、 勇気をふるいたたされるだろう。 「くれ文」から、「与え文」へ。 わずか2週の授業で、 「許してくれ」から、 相手に「生きる活力を与える」文章へと 大きな転換をしたAさんを思うと、 私は、勇気がわいてくる。 多くを持っていないと、 自分が満たされてからでないと、 「与え文」は書けないのではない。 相手を想い、我欲を無にして相手のことを考え抜けば、 満たされていなくても、ときに、なけなしだって、 「与え文」は書ける! と教えてくれる。 その文章、根底で「くれくれ」言っていないか? ささやかでも何か「与える文章」になっているだろうか? |
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2010-01-20-WED
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