YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson505   選択権が降りてきた


過酷な状況にいても、
なぜか自由を失わない人と、

恵まれた境遇にも関わらず、
囚われていて、
自分も、人も窮屈にさせている人がいる。

この差はなんだろう?

逆境でも、自由でいるには
どうしたらいいんだろう?

恥ずかしながら、「初恋」の話をしたい。

「痛い」話だ。

好きになった人は、
可能性は限りなくゼロに近い「高嶺の花」だった。

まったく相手にされない。
私のひとりずもう。

さらに、「彼女がいる」らしいとか、
どうやら「私のことは圏外」らしいとか、
耳をすませば、絶望情報だけが入ってくる。

いくらなんでも、自分でも「こりゃ、だめだな」と
どこかでよくわかっていた。

ところが、それを強烈に否定する
めちゃくちゃポジティブな自分がいた。

「絶対! 両思いになる! あきらめない!」

恋は、脳がちょっと「おかしく」なるんだと
聞いたが、生まれて初めてかかった病で、
相当、いかれていたらしい。

「フツウに考えれば、駄目ってわかるじゃん」
という、いつもの自分と、
「そんなのやだー! 絶対ふりむかせる!」
というワケの分からぬ自分が
ぎったんばったん、収拾がつかない矛盾に陥っていた。

結果、私は、悲壮な片思いを続けた。

年数を言うと、バカと思われるから言わないが、
人から見たら楽しい盛りの日々を、
彼氏もつくらず、ひたすら地味に、
ただただ片思いをして過ごした。

告白など到底できない。

駄目と言われたら、そんなの恐すぎる。
自分は生きていられないんじゃないかと
本気で思っていた。

自分からは何も言わない、行動しない。
でも、受け身のままでは、
入ってくるのはマイナス情報ばかり、
にもかかわらず、諦めない。

こんな引き裂けた状態が長く続いたある日、

男子から、容姿をからかわれ、
気がついたら、
男子を、地面に組み伏せていた。

普段なら力ではかなわない男子に
腕力でうったえることなど、臆病な私は決して無い。

でも、衝動的にカッとなり、
信じられないほど攻撃的になった。

せっかく、その片思いの人と
話すチャンスがおとずれても、
妙にイライラしてしようがない自分がいた。

なぜだかわからない。
相手の言い回し、視線、しぐさの、
ほんのちょっとしたことが、いちいち、カンに触る。

せっかく話ができる数少ないチャンスなのに、
仲良くなりたいのに、
かわいく思われたいのに、

カアッ! と腹が立って、
どんどん攻撃的になっていく。

感情の制御がきかない自分がいた。

「なにか、もう、限界じゃないか?」
冷静に言う自分のそばから、それでも、

「絶対、あきらめない! がんばる!」
という、めちゃくちゃポジティブな自分が顔を出した。

絶望的な状況でもがんばる。

それは尊いことだ。
でも、そのときの私のがんばりは、
どこかがおかしかった。

「選択権が降りてきた」

タイトルに使用させてもらった、この言葉は、
ある女性から聞いた言葉だ。
かりにNさんと呼ぼう。

Nさんは、とてもきれいな若い女性で、
耳に補聴器をつけている。

Nさんは、耳に病気があり、
それでもまわりは、
「治る、治る」「ぜったいよくなるから」と
Nさんには、希望の言葉だけをかけ続けた。

高校のとき、
「手術をしたら聞こえるようになるから」と言われ、
まわりの期待を一身に受けて、手術を受けた。

結果は、Nさんいわく「前より聞こえづらい」だった。

にもかかわらず、まわりは、
「気のせいよ」「よくなってるはずだから」
「絶対よくなるから」
とポジティブな言葉だけをかけつづけた。

その期待をひしと背負い、
Nさんも、治ろうとがんばった。
しかしなぜか、それは、
えたいの知れない苦しさに囚われた日々だったと言う。

親御さんは、絶対に、「治る! 治る!」と、
名医と言われるお医者さんすべてあたり、
もう、この先生で治せないなら、本当に治せない
というくらいの名医を見つけた。
その診断結果は、

「よくなりません」

だった。それを聞いたとき、Nさんは、
なぜか、それまでの苦しみから一気に解放され、
ラクになったと言う。その気持ちは、

「選択権が降りてきた」

うまく言えないがそんな感じだったとNさんは言う。

「本来、自分ができないことを、
 周囲から、できるできる、と言われ、
 自分でも、できるできる、と思って、
 その到底できないものに、自分を向かわせようと
 一生懸命がんばって、
 でも、それは、できないことで、
 でも、周囲は、できる、絶対できる、としか言わなくて、
 それに向けてがんばり続けることが、
 ほんとうに苦しかった」

とNさんは言う。

それを聞いて、疼くものがあった。
あの絶望的な片思いでがんばる私に、何が欠けていたか?

「現実認識」だ。

現実認識がズレているものに自由は訪れない。
選択権はない。

私の場合、直接相手に聞くなり、
相手の友人に調べてもらうなり、
現実を確認する方法は、あったはずだ。

しかし、恐くてできない。

そこで、ダイエットしたり、自分を高めようとしたりなど
ヤミクモにがんばる。

けれど、それは、スタートというか、ゴールというか、
とにかく現実とリンクしていない、
ひとりよがりのがんばりだ。

がんばったぶん、見返りを求め、
願望が膨らんで、現実認識をゆがませる。

「こんなにがんばったんだから、
 少しは、きれいになっているはず」

「こんなに思っているんだからいつか届くはず」

だから、男子に容姿をけなされたり、
好きな人に、まったく関心のないそぶりをされたり、
現実のほうを見せつけられると、
現実に怯え、苛立ち、願望とちがう現実のほうを憎んで、
攻撃的になる。

進めない、ひけない、自分をコントロールできない。
現実とリンクの無い努力に自由は無い。

私は、望みがないならあきらめろ、
と言いたいのではない。

どんなに絶望的な状況でも、
希望を捨てず、努力することは美しい。

でもそれは現実を受け入れてこその美しさだ。

私の場合も、
告白して、最悪の結果、
「いいえ、あなたとはつきあえません。
 私には好きな人がいますし、
 なにより、あなたは、全然、私のタイプではない。」
と言われたとしても、
それを受け止めてはじめて、

選択権が降りてくる。

「そうですか、それなら諦めます」も選べるし、
「その現実を受け止めて、それでも、
 好きになってもらえるようにがんばります」でも、
「それなら、ともだちをめざします」でも、
他にも選ぶ道はあったのだ。

選択権が自分に来る。

AKB48の総選挙で、
多感な年頃の女の子が、比べられ、
ファンから人気投票され、順位づけされている。

なんと残酷なことかと思うのに、なぜか、
彼女たちが、いきいきと輝いて見える。

ランキングが明かされず、
でもなんとなく、くらべられ、
「自分のほうが、あの子より上」とか「下」とか、
ふたを開けてみたら全然ちがう現実に向かって、
悩んだり、落ち込んだりしているほうが、
人は、自由になれないんじゃないだろうか?

「ファンの投票では、あなたはこの順位です」
と、つきつけられれば、

「落ち込んでやる気をなくす」こともできるし、
「あきらめないで上を目指す」こともできる。
「才能がない」と辞めて別の道で自分を生かすことも、
自分の順位を受け入れ、その立場で精一杯がんばる
こともできる。

「あくまで、ファン投票というひとつのモノサシ」と捉え、
別のモノサシで見たら、
私のほうが歌がうまい、私のほうが料理ができると、
別の価値基準も見えてくる。

かけっこでさえ、
こどもが傷つくのを恐れ、
順位をつけずに、みんなで手をつないでゴール
しようというような風潮で、

自分の順位をつきつけられても、腐らず、
よりいっそう自分を表現しようとしている彼女たちが、
自由に見える。

現実を受け止めるのはつらいけれど、
現実を受け止めたら、
こんどは、選ぶのは、こっちだ。

「選択権は自分にある」

と言っているような気がする。

これからも、現実を受け止めることは、
気の弱い、プライドの高い自分にとって、
とても恐いし、痛手かもしれないけど、
そのときこそ、自分が自由になれるとき、

「選択権が降りる!」

と、自分に言い聞かせ、勇気をもって臨みたい。
どんな順番をつけられようと、
選ぶのは、こっち、なのだから。

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2010-09-01-WED
YAMADA
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