YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson599
  恐れを伝染させない言葉



親切心から、
「気をつけてー」と言われると、
よけい恐くなってしまうことがある。

たとえば、この夏の炎天下、
野外イベントに出かけるなどと、
言おうものなら、

会う人、会う人、ことごとくに、

「熱中症、コワいよぉー」
「気をつけてー」
「屋内でも死んでるからねぇー」
「くれぐれも気をつけてぇー」

と心配の集中砲火をあびてしまう。
自分のことを大事に思って言ってくれてるのだ、
ありがたく言葉をいただくよりない。

でも、いただいているうちに、
だんだんだんだん、こっちもコワくなってきて、

楽しみだった気持ちが萎縮していき、
なんだか、悲壮な覚悟で、
危険地に赴くような気分になっている。

「恐れ」は伝染する。

まず「気をつけて」と言っている本人が恐いのだ。

言っているほうに、
なにかバクゼンとした不安や恐怖心があり、
それをそのまま言葉にのっけて送ってしまう。

言われたほうに伝染する。

すると、その場にいあわせていた人の、
記憶の底にあった恐怖心のふたをこじあけ、
「恐れ」が、「恐れ」を呼んで、
皆が、恐れに委縮していく。

恐れを伝染させない言葉をかけたい。

というと、実際にすぐさま反論が返ってくる。

「若者や、こどもには、
 恐がらせるくらい言わないとわからないのだ。
 若い人は、経験がないぶん、
 ナメてかかっているんだから、
 大人が恐怖心をうえつけるくらいに何度も、
 なんども」と。

でも、もう十分、恐がっているのではないか?

若い人のみならず、大人でさえも、
文章表現の根底に、根深く「恐れ」が巣食っているのを
目の当たりにすることがよくある。

いま日本人の根底に「恐れ」がある、
と言っても言い過ぎではないように思う。

それは、何か危険なことをやってしまって、
失敗からくる恐れではない。

危険な目にあわないようにと、
親が過干渉に先回りして保護したり、
本人もそれに同調して縮こまったり、

踏み出したことがないから、
踏み出すことがなんとなく恐い、
それが積もり積もった恐怖なのだ。

やって失敗した現実の恐れには、
具体性や限度がある。

でも、やったことがないゆえに想像からくる恐れは、
現実とズレがあったり、際限がなかったりする。

この正体のない恐れが、根にあって、
磁石のように行動半径を縮めている。

必要なのは、恐怖心を煽ることではなく、
注意力を喚起することだ。

恐怖心を煽られると、
人は恐れにとらわれてしまい、
まわりの物事を正視できなくなったり、
耳をふさぎたくなったり、

外とのコミュニケーションが縮こまる。

一方、注意力の喚起というのは、
目をカッと、見開いて、周囲の状況をよく見たり、
聞き耳を立てたり、

外とのコミュニケーションを活性化させる行為だ。

私がこどものころ、
姉と2人で、留守番することが多かった。

父は船乗りで、ほとんど家におらず、
共働きで、母も働きに出ていた。

幼い女の子を、
たった二人で家にいさせることに、

いまから考えれば、母には不安があったと思う。

こどもはずっと家にいるわけでもなく、
遊びに出たり、買い物にいったり、
その間、家は、不在になるから、
さらに心配だ。

けれども、母は、私と姉に、

「気をつけてー」と、やたら、
恐怖を煽るような物言いを、決してしなかった。

こどもを残して出かけるとき、
母は、まず自分自身がどっかりと落ち着いた面持ちで、
それから、きっぱりと一言、これだけを言った。

「火だけは用心しい。」

出かけるときに、火の元だけは必ず確認しろ、
ガスの元栓をしめろ、
という意味だ。

母は、こどもを残して働きに行く不安を、
あれも、これも、と押し付けることはなかった。
自分なりに優先順位をつけ、
ただ1つだけに絞って、こどもたちに伝えた。

いまと違ってのどかな時代の田舎だったせいもあるが、
とじまりを忘れて物を盗られても、
ほかに少々、なにがあっても、
それは、自分の家だけで済む問題。
しかし、家事を出してしまったら、よそさまに迷惑がかかる。
だから、火だけを用心すれば大丈夫だ、とは、
母の経験からくる知恵だった。

「火だけは用心しい。」

母の出がけの、この言葉を聞くと、
ピリッと背筋が伸びると同時に、心が落ち着いた。

最低限、これだけやれば大丈夫! が伝わってきた。

恐怖を煽って、
若い人が動くかというと、
そんなに単純ではなくて、

新しい知識を増やしたり、技術を身につけさせたり、
つまり、生かしたり、伸ばしたり、ということをしないと、
人は変わらないし、動かない。

母がやったのは大人の知恵を授けるという行為だった。

「熱中症、コワいよぉー、気をつけてー」
と、つい言いたくなる気持ちわかるけど、
「水分をしっかりとっていれば大丈夫だから」とか、

「室内でも危険だよー、気をつけてー」
というよりも、
「何度以上になったら、ムリせず冷房を入れよう」
というような、恐怖を伝染させない言葉を
工夫すると、自分も相手ものびやかだ。

それにしても、
日本人は、なぜ、「気をつけて、気をつけて」を
頻発するのだろうか?

日本人は挨拶がわりに「心配」をする。

ちょっと連絡がないと「体を壊していたのではないか」、
元気な人にも「お体に気をつけて」、
病気がちでそれを言われたくない人にも「お元気で」‥‥。

たぶん日本人である私たちは、
それに相当する言葉がないだけで、
こう言いたいのだと思う。

I LOVE YOU!

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2012-08-08-WED
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