ガンジーさん。
いつ途切れるかわかりませんが
今後ともよろしく。

126.ビデオテープのように。

思い出が、くっきりと見えているのだそうだ。
ガンジーさんは、まるで過去の日記をつけるように、
昔の思い出を綴りはじめています。

両親のこと。
こどもの頃の思い出。
モノクロームの写真を見ているみたいな、
不思議ななつかしさが、ぼくにはあるのですが、
若い読者の方々は、そんなふうに読むのかなぁ。

___________________________

「苦しまず、に終えたい人生」

あっちこっちにビルが建っちまって、
木枯らしは、いったい何処で吹いてるんだろう?
可哀想な、木枯らし、だ。 
古カラシ、と名前を変えて
貧乏な食卓でひっそりと暮らしてるのかなぁ。 
まだ新年にならないので 「暮れ済まず」 だけど。
ちなみにお坊さんは、「庫裏住まず」なんちゃって。

カラシさん、納豆や、おでん、と
うまくいってるだろうか?、
すれっカラシの、ねえちゃんちで、ため息ついてるかも。 
俺もカラッキシ意気地がなくなったなぁ、なんて。
寒がりやのガンジーだけど同情するよ。
真冬になったら、木枯らし、とは言わない。
短い命なんだ、美人薄命、こんな靴、履くめぇよ、
抗癌剤打っても、吐くめぇぜ。

樹木たちにも、虫たちや、冬ごもりの動物たちにも、
”みんな、冬だぞぅ!” 
”秋は飽きちゃって秋田県にも居ない象!”って
知らせて使命を終える。

母さんが、よなべして手袋を編むのも、
木枯らしの、お知らせを聞いてからだ。
ガンジーの母親は、編物の達人だった。 
戦後の疎開先で、村の娘さんたちに教えて
糊口を凌いだ時期もあった。 
いつの世でも親は大変だね。
その頃、父親は何をしてたと思う?  
木枯らしの吹く中を、中山競馬場へ
せっせと通っていたそうだ。

ガンジーが5,6歳の頃だったと記憶してるが、
夫婦喧嘩のとき腕力を振るう父親の前にたちはだかり、
母親をかばった。 
いつもガンジーの役目だった。
長男の兄は、父親っ子。  
拳骨を食らうのはガンジーだけ。
腹ぺこだったけど、豚骨だってそのままじゃぁ食えねぇぜ。
家に入れてもらえず、木枯らしの中で震えてたとき、
隣のおばさんが,かわりにあやまってくれて
無事、家に入れた事もあった。 
いいおばさんだった。

大森区立馬込国民学校まで約2,5キロぐらい、
木枯らしといっしょに通学してた。
手は、かじかみ、鼻をかみかみ、耳は、しもやけ、
午後は夕焼け、という子ども達ばっかり。 
戦時中の東京山の手は、まだまだ田舎だった。

いつ頃から、木枯らし、にご無沙汰してるんだろう? 
オートバイで公害のない郊外へ
出かければ会えたけど。 
最新の防寒着に身を包んでの,
木枯らしとの出会いは、どうもピンとこないね。 
フルフェイスのヘルメットではなにも感じない。
昭和50年以前は、ノーヘルでジャンバーの下に、
新聞紙を入れて走った。
木枯らしと、”勝負だっ!って気合をいれてね。

カレーとともに(加齢だ!) 
ムカシのことが鮮明に思い出される。
人間の脳って、ビデオテープみたいだね。  
疎開先で虐められた事なんか
よく憶えてるもんなぁ。
今度、同窓会に出て、リベンジしてやろうか?
今年の当たり番号で、実は去年の宝くじを、あげたりして。 

あっさり心臓麻痺、脳梗塞だったなら、
こんな事書いていられなかった。
死刑宣告もわるくないぜ。  
ガンジーメールで、 「この人ほんとに癌患者なの?」
って言われたけど、正真正銘の
ガム噛んじゃってるガン患者だよーん。

___________________________

木枯らしをキイワードに、短編映画みたいな。


(つづく)

2000-12-29-FRI

BACK
戻る