ガンジーさん。
いつ途切れるかわかりませんが
今後ともよろしく。

216.イエスタディ・ワンス・モア。

このあたりの原稿、前にお会いしたときに、
ぜひ書いてくださいと、ぼくがお願いした。

ただ昔の記憶をたどるだけでもいいんだ。
ぼくらの、いまの生活の「父や母」が、
ガンジーさんの思い出の中に、
顔を見せてくれるかもしれないと思った。

想像していた以上に、いまの生活の父や母が、
あちこちに姿を見せてくれてるよ。
今日も見た、今日も乗ったというクルマの、
先祖は、ついこの間までこんなふうに
東京の鉄板の道路の上を走っていたんだ。

メロディをつけて歌いたいくらいの歌だよ。

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「昭和35、6年前後の事」

うろ覚えの記憶ながら戦後の一時期、
バス(乗合自動車)の制限速度は時速25キロだった。 
やがて32キロになるが
それでも自転車で追いつける速さだったよ。
第2京浜(国道1号)の馬込橋坂道では
自転車で走るときトラックを追いかけていき、
荷台のフックをつかまえて登ったな。

乗用車と自動2輪車(オートバイ)の速度制限は
もっと上だったが憶えてない。 
側車付き自動2輪車(サイドカー)の運転免許は
2輪とは別の免許が必要、3輪免許も別だった。
ちなみにマツダは当時3輪専門のメーカーで、
ホンダは2輪車だけ。
白バイは陸王750cc、ほとんどハーレーのコピー。
クラッチは左足で操作。
このあとメグロになる。 
メグロやキャブトンのフットブレーキは左側。

ガンジーが初めて手に入れた中古のダットサン750は、
セルモーターが付いているものの、
バッテリーの消耗を考え
朝の始動はいつも
クランクハンドルを使い手動でかけていたよ。
時には手にマメをつくって。
タスデ美と不法?な同棲生活を送っていた頃だった。
あの頃はブルーバード全盛期でコロナは一歩遅れていた。

貨物車は3輪が主力で、
4輪貨物車は値段も高く積載量も少なかったね。
ウインカーのことは「方向指示器」といって、
操作するとバッタが羽根を広げたようなヤツ。 
手動で操作してた。 
右左折は手信号でもOKだった時代。
3輪車で初めてセルモータ−を付けたのはマツダ。
それまでは2輪とおなじキックスタート方式。
3輪ながらハンドルを円形にしたのもマツダが最初。

ガンジーお気に入りの3輪車は
「くろがね」というメーカー。
音が静かだったから。
キックスターターは危険でもある。 
踵を切ってしまう事も度々で気合を入れてやったよ。
3輪車の助手席は折りたたみの簡単なヤツで、
友達を乗せてロータリー(交叉点)を曲がった時、
落っことしてしまった事がある。 
でも速度が遅いので怪我なんかしない、
コロコロと道端に転がっていったっけ。 
アイツ誰だったかなぁ。上野池之端での出来事。

車が少なく何処ヘ止めてても良かった時代、
駐車がやかましくなったのは
東京オリンピックの頃からだったと記憶してる。
大手町あたりが地下鉄工事で
昼夜突貫の作業が続いてた頃だった。 
道路は厚い鉄板だらけ、よく滑ったなぁ。

首都高速が最初に開通した時、
銀座ランプからの第1号車は、なにをかくそう
かくいうガンジーのダットサン750だったのだ!
テープカットはしたものの、
見送ってくれたのは首都高速公団の職員だけ。
ガンジーのマスコミ嫌いは
この時のすっぽかされ、が尾を引いているかも。
新聞社のカメラマンたちは
同時に開通した芝浦と日本橋本町ランプ(入り口)へ
集まってしまったためだ。 
後日、1号車たちの(4名)公団職員を含めた
座談会があり、お車代、と称して¥3.500.と
花瓶をもらった。 
終身パスでもくれりゃいいのに。

べつに開通を待ってたわけじゃなかったけど、
上野からの帰り本町で公団職員に、
銀座ランプだとまだ誰もいませんよ、って言われ
銀座へ向かった。 
夜の12時開通。 ほとんど偶然のタイミングだった。

勤め先の車、ルノー、も好きだった。 
蝉の腹のようなリア−ビュー、そこから雨が入り
大雨の時はビニールをかぶせて停めて置いた。
都電のレールで滑り、
ドナルドダック走行をさせられたことは、
しばしばだったよ。

つい、このあいだの事だ。


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あの首都高の、銀座ランプから最初に入ったのは、
みなさん、ガンジーさんだったんですよ。
ひとつ、憶えておきましょう。
走るとき、通りがかるときに、思い出します。

(つづく)

2001-03-29-THU

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