富士宮の住宅街にポツンと一軒たたずむ
機織り工房「影山工房」です。
富士宮が、織物の産地というわけではありません。
富士市に生まれた利雄さんは、
恩師だった染色工芸家の芹沢銈介さんのすすめで
浜松で修業、昭和28年にみや子さんと結婚します。
そして地元にもどって開いたのが、この工房でした。
外から見ると、ごくふつうの一軒家です。
でも中に入ってみると、そこには、
もう、あまり見ることができなくなってしまった
古い、木製の道具たちが並んでいます。
なかには利雄さんが工房をつくった当時からのものも
あるそうです。
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影山工房は、創業当初は木綿の唐桟を織り、
知人の紹介で鎌倉での販売をしていました。
当時「鎌倉文士」とよばれたそうそうたる作家や
名だたる画家たちが、影山工房の織物を
好んで買ってくれていたそうです。
昭和30年代に入ると、絹の紬を織るようになります。
昭和50年代までは需要も多く、
忙しい毎日がつづいたといいます。
しかし手織りものを着るという習慣がすたれていき、
そのなかで、跡継ぎの秀雄さんは、絹以外の素材を
織物に活かしたいという夢を
実現させていくことになります。
藍染めの木綿や麻、羊毛やカシミヤ、そして、
今回紹介する蓮の糸も、そのひとつでした。
そう、蓮の糸、蓮の織物。
今回はそれが目的です。あ、もしかしたら、
いま織っているのは──。
工房を案内してくれた秀雄さんが言います。
「そう、今、織り機にかかっているのが、
蓮の糸ですよ」
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やっぱり、これが蓮でしたか。
太さがランダムで、でこぼこしていて、
いかにも手で縒って紡がれているのがわかります。
蓮の糸というのは、蓮の茎を手折ったときに出てくる
肉眼で見えるか見えないかというくらい細い繊維を
板の上で重ね、縒っていくのだそうです。
織る前の蓮の糸を触ると、かさかさしていて、
和紙のこよりを、さらに頼りなくした感じがします。
とても弱々しい。
じっさい、引っぱるとプツッとすぐに切れてしまいます。
だから影山さんの工房では、
この蓮の糸の織物に強度を持たせるため、
経糸(たていと)も緯糸(よこいと)も
蓮の糸と絹糸を
一本ごと交互に織り込んでいます。
そうしてできた織物は、
最初はすこし硬さが残っても、
使っていくうちにやわらかくなり、
たとえようもない手触りになっていくんだそうです。
触れるとたしかに今まで触ったことのないような、
まるで水分を含んでいるようななめらかさと
しっとり感がありました。
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「この蓮の糸、
現在はミャンマーでしか生産していないんですよ」
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はい、どうやらミャンマーでは
高僧がまとう法衣や袈裟として
お寺に奉納するために織られるものがほとんどという、
たいそう珍しいものなのだそうですね。
蓮と言えば、お釈迦さまの台座が蓮ですし、
古い古い時代には、曼荼羅図の織物などにも
蓮の糸が用いられていたそうです。
その糸を、影山さんは、どうやって
入手なさったんでしょう?
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影山秀雄さんが、そのわけをおしえてくださいました。
「私が織物を学んでいた奈良の短大時代の
同級生のご主人が、
たまたまミャンマーでこの糸を扱う人と取引があり、
珍しい素材だからって、
僕に送ってきてくれたんです。
それに触れたとたん、
これを織ったらいい布になると直感しました。
それで早速、1キロ分の糸を注文して、
さらに、送ってもらったんですね。
けっして、安いものではなかったのですけれど」
この蓮の糸の産地は、
蓮が群生しているミャンマー中部の
インレー湖近辺の地域です。
この湖は、南北に22キロメートル、
東西に12キロメートルにもおよぶ広大な湖で、
この湖上に、蓮の花が咲き、
このハスの葉の茎を刈り取って、
半年かけて糸にします。
今も、現地には、そうして蓮の糸をつくって
日々の生活を営んでいる村のひとたちが
いるのだと言います。
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蓮の糸はとても繊細なため、
「手織り」ではないと織れない素材です。
影山さんが、蓮の糸に出会ったのも、
影山工房が手織り専門の機屋さんで、
彼が、「手織り」でしかできない素材に対して
並々ならぬアンテナを張り、
目を光らせて素材探しをしてきたからなのでしょう。
影山さんが、この蓮の糸を使って織っているのは
(もちろん袈裟でも法衣でもなく)、
現代の生活にすっと馴染むストールです。
最終回は、そのストールができるまでを
追ってみることにいたしましょう。
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2010-08-30-MON |
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