ほぼ日 |
保坂さんが作家になるまでの
会社員生活のことについて、
くわしく、聞かせていただけますか? |
保坂 |
最初は、
高校生の時に小説を読んで、
「おもしろい!」と思ったので
「それなら自分も書く」という(笑)、
そういうものだったんだけど・・・。
ただ、
会社員から作家にどうなったかという話だと、
もともと、小説家に限らず、
なりにくい職業っていうのは、
なりたいと思っている人はなれないと思う。
何年か後に、自分はなっていると
思いこめるような人しか、なれない。
「どうしたら、作家になれますか?」
「どうしたら、●●になれますか?」
そういう謙虚な気持ちは要らないんです、きっと。
「謙虚な気持ち」って、
悪く言うと迎合的とも言えますよね。
ノウハウがあるとか、
マニュアル化されてるとか、
何かになれる確固たる道筋があると考えて、
「自分もその道筋を歩いていけばいいんだ」
と思う人は、
小説家にはきっと絶対なれない。
そうじゃなくて、
何年後かには当然なっていると
思いこんでるというか。
もともと、ものを教わることが
嫌いなタイプの人間も、多いんですよ。
高橋源一郎も自動車免許持ってないし、
島田雅彦も免許持ってないらしいし、
ぼくも免許持ってない。
教習所へ行ってもの習うとか、
そういうことが、
もう、できない人なんですよ・・・。
書きたいと思う人なら、
当然、好きな作家はいるわけですよね。
好きな作家がいて、なんかその人の作品を、
ほんとに遠い星を仰ぐように思いながらも、
それでも、そういう偉大な人と
同じ道を歩けるとは思っていないんです。
同じ道ではなくて、ただ、自分で行くという。
それはもう、
誰かさんが歩いた道でもなんでもなく、
自分が、そのまま今の自分を
成長させていく、
それが作家になることなんだと。
ほんとに作家になるという人は、
そういう時に、
「タネを埋めたんだから、
桃栗は3年でなる。柿は8年でなる。
じゃあ自分は何年後になってんのか?」
って、そういう思いこみが、
あったりすると思う。
タネを埋めたら実は自然にできるよ、
ぐらいの楽観的な人だったりするんです。
ぼくが20代の後半に
今の奥さんと知りあった時、
って、奥さんは今も昔も
「今の奥さん」一人なんだけど(笑)、
彼女が最初の頃に思った、ぼくに対する印象は、
「この人は、小説家でもないのに、
小説をひとつも書いてないくせに、
なんで小説家みたいなクチをきくんだろう?」
って(笑)。 |
ほぼ日 |
自分の中では、当時、
もう既に、小説家に「なっていた」んですか。 |
保坂 |
どこかで、なっているんだよね。
いま有名な建築家になってる人たちの
グループがあるんだけど、
彼らが若かったときに
会ったことのある人も
同じことを行ってましたね。
「こいつら、まだ1つも
設計したことがないくせに、
どうしてこんな
いっぱしのクチをきくんだろう」
って思ったって。
そういう人しかなれないんですよ。
ぼくの場合は、高校の卒業をする前から、
自分は何年か後に作家になっている、
と思っていた。
それで、ずっと大学にいて、
4年生になって、単位を取りきっていないから
5年いることは決まっているんだけど、
その時になって、ようやく、
「おかしいな?」
と思いはじめるわけ。
「まだ小説家になっていない」
それが、かなりショックだった。
大学にいる間に、
小説家になっている人生のはずが、
4年いるだの5年いるだの、
卒業だとか就職だとか・・・
そんなことを考えない人生だったはずなのに、
ちょっと、おかしいなぁ、と。
そこではじめて、
「まだ、1つも小説を書いてない!」
ってことに気がついた(笑)。
「書かなきゃ小説家にはなれない」
そんなことにやっと気づいて、
そこからまじめに書くことにして、
2つぐらい、書いた。
ただ、
それを書いたのは1980年なんですけど、
当時は、日本の小説の間口がすごく狭かったんです。
私小説の流れで、人生に対する内面の葛藤だとか、
「悩み」のほうが問題になっててね。
ぼくは、自分の悩みを小説に書くという気持ちは
もともとなかったものだから、
自分が書いた小説をみて、
「これじゃあ、受け入れられない」
と思った。
で、結局、
いちばん就職しやすかった
西武百貨店に入ったんです。
当時の西武の中では、
文化事業部というところが
美術館と、
スタジオ200というスペースと、
コミュニティカレッジというカルチャーセンターの
3つを持っていたんだけど、
「端から見ていて文化事業部がいちばんヒマそう」
と西武に入っているともだちから言われまして。
入社面接の最初から文化事業部一点張りだった。
「西武はもともとデパートなんだよ。
売り場なんだよ。
文化事業部以外ならどうするの?」
と言われると「そのときは辞めます」って(笑)。
それから、当時の西武は、給料がとても安かった。
「時間があって、お金がない」というのが、
当時の自分にとっては、大事だったんだよね。
お金があったら、遊んでしまうから。
それで文化事業部に入ったものの、
最初の3年間ぐらいは、
先輩社員がお酒をおごってくれちゃうから、
結局飲みつづけて、週に5日ぐらい飲んで。
仕事終わるのが夜の7時から9時ぐらいでしたが、
計算してみたら、飲んでる時間の方が
勤務時間よりも長かったりする日々だった。 |
ほぼ日 |
それだと、小説は書けないでしょうね。 |
保坂 |
書いていないどころか、
小説も読まないという日々だったんだけど。
28歳になって、
「ええと、このままでいいのかな?」
と思って。
あのね、28って、だいたいみんなが
突然、将来について
考えちゃう時期なんですよ。
それで、またひとつ、小説を書いた。
入社したのが24歳だから、
たった4年しか経っていないんだけど、
20代ということもあって、もう
10年ぐらいあったような気がしてたんです。
その小説を書いたあとは、しばらく、
また、書かなくなっちゃうんだけど。 |
ほぼ日 |
当時の仕事の内容を、教えてもらえますか? |
保坂 |
入社1年目は、
ほんとに何にもしてなくて、
カルチャーセンターの全体を統括する
仕事をさせられていたんです。
2年目から、カルチャーセンターの
講座を自分で企画する方にいきまして。
3年目になったときに
ニューアカ(ニューアカデミズム)の
ブームがはじまって、
中沢新一さんをはじめ、
新しい哲学・思想系に人が入るようになったんで、
ぼくは、それをずっと
企画担当することになったんです。
自分が読んでおもしろいと思った人を呼ぶことが
うまくいったので、やりながら、
好き勝手できるようになった。
・・・でも、ちょっと脇にそれちゃうんだけど、
「好き勝手」っていうのが、
その後何年か経つと、ほんとうに
誰もがみんな「好き勝手」になっちゃって。
それは・・・あんまり・・・。
自分がしたい企画ばかりを立てると言っても、
ぼくの場合、数学の関数のように、
何かを代入して答えを出すというかたちで
企画を立てているから、
講座の中身がちゃんとできる範囲での
好き勝手ということなんだけど。
みんなが、まるまる、ただ
好き勝手に企画をやる風潮になって、
そうなると、だいたい、ダメになるんだけど・・・。
哲学、思想、オカルトに触れながら
企画を立てていることが、ぼくにとっては、
そのまま、小説を考えることだったんです。
これ、大事なことなんだけど、そこから
小説の題材を探しているわけじゃないし、
ヒントを得るために思想を読むわけでもない。
思想だとか神秘主義について考えたことや、
それを理解しようとしたこと、
考えるというメカニズムが、
ぼくにとっては、
小説を書くというメカニズムと
まったくおなじことなの。
ぼくにとっての小説家の修業期間って、
「書いたこと」じゃなくて、
「考えつづけていたこと」なんですね。
テクニックなんて、どうにかなるんです。
まったく文章に親しんでいない人とか以外なら、
誰でも、書く時間をたくさん使えば、
それなりのものにはなるんで・・・。
時間さえかければ、それなりの文章になる。
そのための基盤だけを考えてたっていう。
そんなことが、
ぼくが20代の頃にしていたことですね。 |
|
(つづきます)
|