糸井 |
おおぜいのイチローさんのファンを、
今、目の前にして、
改めて、ぼくは驚いたんです。
「すごい人」という目というか、
「まぶしい!」という目で、
じっと、こちらのことを、
見ているじゃないですか。
会社にいたら、
三〇歳の「スズキくん」ですよね?。
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イチロー |
ぼくも、三〇歳になっちゃいましたからね。
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糸井 |
野球やってなかったら、
「スズキくん、ちょっと頼むわ」
とか言われてる人だよ?
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イチロー |
スズキ「くん」がつけば、
いいほうでしょうね。
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糸井 |
(笑)「スズキ」か……。
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イチロー |
まちがいなく、
「スズキ」でしょうねぇ。
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糸井 |
イチローさんとファンが、
これだけ近づくことはないせいか、
今日は、控室にいるときから、
会場のただならぬ
緊張感を感じてたくらいなんです。
イチローさんがオリックスにいるときも、
首位打者を何回も連続で取っていますが、
正直な話、そのときに
こういう番組があったとしても、
きっと、ここまでの「ただならぬ気配」は、
なかったと思うんですね。
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イチロー |
ええ。
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糸井 |
やっぱり、アメリカに行って、
海外で評価されることで、
「もう一回人生が変わった」
っていうふうに見えるんです。
もちろん、イチローさん自身は、
「すごい人」として
生きてきたっていうことで、
不便もあるし喜びもあるんでしょうけど、
そうやって「すごい人」として
みんなが見ているという生き方は、
実感としては、どういうものなんでしょうか?
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イチロー |
「すごい人」として見てる、
見られているというのは、
完全に第三者を意識した
自分の目ですからね。
たとえば、
「スーパースターである」
とかいう評価があったとしても、
そういうものっていうのは……動くんですよ。
だから、「スーパースター」
だなんて言われても、
何にもぼくはうれしくない。
「すごい野球選手だ」と言われたら、
ものすごく、うれしいんです。
スーパースター、なんていうのは、
人が作りあげたもので、決して、
自分が評価できるものではないんですよね。
ですから、いつも思うのは、
「第三者の評価を意識した
生き方はしたくない。
自分が納得した生き方をしたい」
ということなんです。
自分のしたことに人が評価を下す、
それは自由ですけれども、
それによって、
自分を惑わされたくないんです。
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糸井 |
イチローさんが、周囲の評価に
惑わされそうになったことなんていうのは、
あるんですか?
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イチロー |
ええ、ありますよ。
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糸井 |
あったんですか。
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イチロー |
九四年に、
ぼくがはじめて安打を
二〇〇本打ちましたよね。
ぼくは、その年から
ちゃんと一軍の試合に出だしたんですけど。
当時、まだ合宿にいましたから、
そこの食堂に行くと、
新聞が全紙、並んでいるんですよね。
その新聞の一面に、自分が載っている。
それはうれしいんですよ、やっぱり。
自分の方から、
新聞を取りにいって読むんです。
それでいい気分になる……
あれが、よくなかったですね。
ぼくは、自分のやっていることを、
自分でわかっているはずでした。
ただ、当時の新聞を見ると、
過剰に評価をしているんですよ。
それによって、
自分がちょっと舞いあがってしまう。
その時点で、
自分を見失っているんですよね。
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糸井 |
「舞いあがっている」ということは、
そのとき、自分で意識できるんですか?
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イチロー |
そのときは、できないんですよ。
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糸井 |
舞いあがっている状態は、
どのくらい続くんですか?
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イチロー |
その日の試合がはじまるまで、です。
試合がはじまれば、
昨日のゲームについての新聞は、
関係ないですから。
ゲームに入ったら、ようやく、忘れられる。
でも次の日も同じようになってるんです。
一面に載って、また気分がよくなっちゃう。
で、人から評価される、
チヤホヤされることが、
気持ちよくなってきちゃうんです。
それが続いたのが、九六年まででした。
オリックスが日本一になった年ですね。
九五年に、リーグ優勝しました。
でも日本シリーズで負けた。
翌年の九六年には、日本一になりました。
そのあたりまでは、もう、
フワフワフワフワしていて、とても、
地に足が着いた状態では
なかったと思いますね。
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糸井 |
その状態でも、
成績はずっとよかったわけですよね?
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イチロー |
数字だけ見ればそうですけど、
実際プレイしてる感覚っていうのは、
好調なんていうのとは、
まったく違うんですよね。
ぼくは、チームが日本一になった時期には、
もうすでにスランプに入っていたんです。
スランプのときでも、
数字が出ていたことは、
救いでもあったんですよね。
数字がいいことで、
みなさんの目をダマすことはできた。
もしも、二割五分や二割六分の成績で
過ごしていたとしたら、
当然、みなさんの目は厳しくなるわけです。
もちろん、自分も苦しい、
感覚をつかめない。
カタチができていない。
……おそらく、そうなっていたら、
立ち直れないぐらい、
自分を追いつめてしまうと想像します。
でも、みなさんの目を
ごまかせたことによって、
なんとか表面的には、
うまくできているように
見せられていたんですよ。
でも、実際は違っていた。
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糸井 |
イチローさんが感じていた
「感覚がつかめない」というスランプは、
メジャーに行こうという気持ちと、
重なるものなんですか?
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イチロー |
ぼくがはじめてアメリカに行きたいと
球団に話したのは、
九六年の夏ぐらいだったんですね。
オリックスが日本一になるシーズンです。
そもそも、どうしてアメリカ行きについて
話したのかというと……話すまでにも、
きっかけを見つけたいがために、
ずいぶんいろんなことを試したんです。
でも、光が見えてこなかった。
ぼくにとって、考えられることは、
もう、環境を変えることしか、
なかったんです。
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糸井 |
人がみんな、
イチローはトップを走り抜いていると
見ていた時期に、本人は
「光が見えてこない」
と思っていたんだ……。
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イチロー |
そうです。
もう、どん底の、まっただ中。
九六年前後、あのとき、
特にバッティングは、
カタチがものすごく変わっているんです。
足を開いたり、
もう、いろんなカタチを試していた。
あれは、
自分のカタチが見つからない
不安の証でもあったんです。
それだけカタチが変わる心情を、
人に見すかされると、
やっぱりつらいじゃないですか。
でも、そんなことは考えていられなかった。
とにかく、自分のカタチを見つけたい、
取りもどしたい。
その一心で、もう、
なりふりかまっていなかったんです。
成績は、出ていました。
でももしそこで、成績は出ているから
今の自分でいいんだという評価を
自分でしてしまっていたら、
今の自分は、ないですよね。
その後、
九六年、九七年、九八年、
九九年の四月まで、
スランプは続きました。
まるまる三年間は、スランプなんですよ。
ぼくの中のスランプの定義というのは、
「感覚をつかんでいないこと」です。
結果が出ていないことを、
ぼくはスランプとは言わないですから。
「打てる」という感覚があること。
バッターにとっては、
ピッチャーがボールを放した時点か、
もしくは放して近づいてくるところで、
打てるかどうかが決まるわけです。
バットがボールに当たる瞬間で
打てるかどうかが
決まるわけじゃないんです。
ピッチャーが投げている途中で、
もう打っている。
その感覚が、なかったんですよね。
当時のぼくには……って、
コレ、わけのわかんない話でしょう?
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糸井 |
(笑)いえ、とてもおもしろいですよ。
自分の不調を、
ちゃんと見えていない時期の実感、ですから。
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イチロー |
ぼくは、その、
九四年から九六年までの
自分が見えていない経験からは、
「客観的に自分を見なければいけない」
という結論に達したんですね。
自分は、今、ここにいる。
でも、自分のナナメ上には
もうひとり自分がいて、
その目で、自分がしっかりと
地に足がついているかどうか、
ちゃんと見ていなければいけない。
そう思ったんです。
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糸井 |
それまでは、
客観的な自分は、いなかったんですか?
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イチロー |
いなかったんですよ。
今は、自分のやっていることは、
理由があることでなくてはいけないと
思っているし、自分の行動の意味を、
必ず説明できる自信もあります。
だけど、それができるようになったのは、
九六年までの
苦い経験があるから、なんですよね。
自分が自分でなかったことに、
気づけたということ。
それはつまり、
「自分がやっていること自体よりも、
世の中の人に評価をされることを
望んでいた自分がいた」
ということです。
その経験がなくては、
今の自分は、ないんですよね。
客観的に見られる自分は、
いなかったでしょう。
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糸井 |
どん底が、イチローを見るイチローを、
誕生させてくれたということですね。
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イチロー |
そういうことです。
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(※全三回の総集編は、明日につづきます)
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