ここは東京・青山にある、
大正紡績の東京営業所。
じつは近藤さんにお目にかかるのに、
スケジュールの調整は、かなりたいへんでした。
なにしろ、机に座っていることがない。
大正紡績の「繊維事業本部長」であり
「東京営業所長」でもある近藤さんですから、
大阪の本社と行ったり来たり、又海外へも。
もともと、エンジニアで、
世界各地に
工場を建設したり管理することを
仕事としてきた近藤健一さん、
「オーガニックコットンの作り手、指導者」
になったいまでも、
世界中の綿花畑や工場を回っているのだそうです。
エンジニアから、作り手へ。
そもそも、近藤さんって、
どんな経緯でその道に進まれたんでしょう。
そんな話から、おききしました。
生まれ育ちは香川県の琴平、
金比羅山の麓です。
香川とか岡山では、小学校の遠足で、
大原美術館へ行くんですね。
その大原美術館をつくったのが、大原孫三郎という人で、
倉敷紡績(クラボウ)の2代目の社長です。
美術館だけじゃなくて、病院とか、福祉施設とか、
労働や植物に関する研究所なんかもつくった人です。
さらに、その界隈で育つ子供たちは、
「大原孫三郎物語」の紙芝居を見てきているし、
工場見学なんかに行くと、
いかにクラボウの工場が、環境がいいかを知る。
工場の中に学校があってね、
お抹茶なんかを飲ませてくれるんです。
しかも、当時、あんまりない、
甘いお菓子なんかふるまわれて。
だからみんな、子供心に
「入りたい、クラボウに」って思うわけなんです。
思えば私も、その時に思ったんです。
人に優しい、従業員をすごく大切にする会社やな、と。
昔、紡績工場といったら、長屋みたいな寮に舎監がいて、
というような厳しい労働環境がふつうの時代です。
でも大原さんの考えで、クラボウは社宅を何軒も作って、
そこに4人とか5人とかのグループで入って、
自主管理をさせていたんですよ。
人権派というのかな、
そういうのってすごいと思ったんですよ。
心を打たれました。感動した。
私がクラボウに入りたいと思った
もう1つの大きい理由があります。
それは小さい時からモノを作るのが好きだったこと。
ラジオなんてあんまり売ってない時代に、
部品を買ってきて、組み立てて作ったりとか、
そういうことが得意でした。
平賀源内という江戸時代の発明家が、
香川県出身なんですが、
ぼくは、昭和の平賀源内になろう!
なんて思っていたんですよ。
でも、そんなふうにみんなが入りたい会社だから、
むずかしかったですよ、当時。
相当な難関だったと思います。
それでもなんとかエンジニアとして
入ることができた。そして思ったのは、
すばらしい人材が集まっているところだな、
ということでした。
繊維産業が勢いのある時代だったこともあって、
先輩はみんなすごい人ばっかりやった。
文武両道でね。スポーツも全日本級、
勉強も全日本級という人たちが自分の上司とか先輩にいて、
いい刺激を受けるんですよ。
環境がいいっていうのは、そういうことなんです。
しかも、いじめがない。
要するに、人を幸せにするための会社なんですね。
会社入って1年目が、衝撃的でした。
会社に入ったら、普通は、教育を受けて、
すぐ「仕事せい!」言うでしょ?
ところがね、クラボウは、
「しばらくは工場の中の学校で勉強して、
それからゆっくり仕事を」
という感じなんですよ。
入社してから初めてフランスに渡った時のことです。
モンマルトルの丘で、
似顔絵を描いてる画家さんに美術館や博物館を
案内してもらいました。
一番に行ったのが、ロンドンの
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館です。
そこで画家は、ぼくに
「ダッカモスリン」に触らせました。
「モスリン」というのは、平織りの薄い織物です。
ぼくはウールでできたもんやと思っていたんだけれど、
もともとはコットンなんですね。
でも、日本には当時、それがなかったから、
薄い毛の織物を指してモスリンと呼んでいたんですね。
「もともとのモスリンというはコットン100%なんだ。
しかも、これだけ薄いんだ。
さあ、触れ」って言うんですよ。
それは、17世紀のムガール王朝時代に、
綿の原産国であるインド、
今はバングラデシュの首都になっている
ダッカでつくられていた、
ごく薄く、やわらかい綿織物でした。
そんなふうに細い糸を紡ぐには湿度が必要なので、
霧の朝にしか紡げなかったそうです。
完成したダッカモスリンは、
ムガール皇帝への献上品であり、
熟練の職人たちは皇帝の庇護を受け、
織物は芸術品のように扱われていたそうです。
それが東インド会社などによって
ヨーロッパにもたらされて、
世界に広まっていきました。
ところが。
18世紀末に産業革命が起こると、
ダッカモスリンは邪魔者扱いされるようになります。
イギリスの資本家たちは、職人たちを皆殺しにした。
それは、マルクスの『資本論』に
史実として書かれているんだけれど、
「赤い土が白い骨でうずまった」というんです。
それを触らせてくれた画家さんが、言うんですよ。
「この薄さを覚えておいてくれ。
そして君が出世したら、
いつか、産業革命の機械で、
これよりも薄い織物をつくってくれ」
それがなによりのお礼になるのだと。
そんなふうに、エンジニアの卵だったぼくは、
青春の1ページでダッカモスリンにふれた。
そして、必ずいつかは産業革命の機械で、
これより薄い織物を作って、
職人たちの霊を慰めようと思ったわけです。
思えば、いま、ものづくりをしている原点は、
そこにあったんですね。
ちなみに、それは、のちに実現し、
「ダッカの霧」というストールになりました。