信頼の時代を語る。
山岸俊男さんの研究を学ぼう。

第1回 正直は最大の戦略である?!


(※とっかかりを丁寧に話したいので、
  第1回は少し長くなっちゃったけど、
  どうか、よろしくおつきあいください)

こんにちは。
今日からしばらくの間、ほぼ日のわたくし木村が、
「かっこよかったなあ・・・」
と、対談終了後の数日間はひたり続けていた、
そんな対談を、毎日連載でお届けしてまいります。

おすすめしてお送りできる内容だと思うので、
よかったら、読みつづけてみてくださいませっ。

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(7月4日の、「今日のダーリン」より抜粋)

まだ一度もお会いしたことはないのだけれど、
山岸俊男さんという人は、「ほぼ日」に
大きな影響を与えている。
最近では、『社会的ジレンマ』(PHP新書)で、
またまた「画期的と言える当然のこと」を
ていねいに語ってくれている。
この最新刊は、息をのむね。
こういう、肯定のエネルギーに満ちた社会学の本、
そうそうあるもんじゃないですよ。
心と社会の関係についてずっと研究している方だけど、
仰天するくらいおもしろいんですよ。
ともすれば、世の中が複雑になっていくことで、
いやな意味で大人になって行かざるを得ないと、
あきらめちゃうものですが、
その悲観的な状況に逆転ホームラン!みたいな研究だ。

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今日からの対談は、ここで書かれている、
社会心理学の山岸俊男さんとdarlingの対談になります。

「人は利己的な存在だけど、
 しかし人々がみな、自分だけの利益だけを考えて
 行動をすると、社会的に望ましくない状態になる」

これを、社会的ジレンマと呼ぶようです。
例えば、火災が発生した時に、狭い出口なのに
誰もが人を押しのけて脱出しようとしたら、
いつまで経っても、数人しか出られないままで
ビルが崩れ落ちてしまうかもしれないでしょう?

おなじ時間をかけるなら、淡々と
一人ずつ、先をあらさわずに脱出していたほうが、
効率よく、より大勢の人が助かったかもしれない。
でも、自分がその「大勢の助かった人」に
入れるかわからないので、みんながみんな、
一番先に出ようとしたりするわけで・・・。

そんなジレンマは、日常生活の中に、
火災とかではなくても、いくらでもありますよね。

そんな中で、人は人と、どう協力をするの?
人は人を、どう信頼するの?
つまり、どういう動機を持って、人は行動するの?
・・・こういう方向が、
山岸さんが研究を通して考えている内容です。

「科学の進歩がすばらしい未来を
 もたらしてくれるというシナリオを
 私たちが全面的には信じられないのは、
 科学をコントロールするかしこさを
 私たちが持ち合わせていないと
 直感的に感じているからです。
 そのようなかしこさを私たちが本当に
 持ち合わせているのかいないのかは、
 私にはわかりません。
 しかし、次のことだけはわかっています。
 それは、私たちは私たちが作り出している社会を
 コントロールするために十分なかしこさを、
 まだ持ち合わせていないということです」

「科学がいくら進歩し自然界をコントロールするのに
 成功しても、社会をコントロールするための科学を
 私たちはまだ手にしていません」

「社会的ジレンマの研究とは、私たちの社会を
 自分たちでコントロールするための
 科学を作り出すための研究なのです」

(※PHP新書・山岸さんの『社会的ジレンマ』から抜粋)



科学に対して「捨てちゃえ」と懐疑を述べるだけの
ポストモダンな動きは、簡単にいくらでも起こるけど、
「どこまで何を、科学的に分かることができるのか?」
山岸さんは、そんな立場にいたいみたいなんです。

実験と研究の日々の中で、ひとまず暫定的に辿り着いた
「正直は最大の戦略である」という山岸さんの考えに、
まずはdarlingが感想を述べて、対談は、はじまりました。

お。まえふり長すぎちゃったぜ。
まずは、対談冒頭部を、どうぞっ。


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糸井 最近の「ほぼ日刊イトイ新聞」では、
考えたことを、まずはナマで全部出して、
「まあ、あとは、何とかなるだろう?!」
というような作り方をしているもので、
自分でも、良いのか悪いのか分からなくって。
裸で毎日暮らしているようなものですが・・・。

ただ、山岸さんの著書は、
そういう今のぼくの仕事に対して、
「やっぱり、そうだよなあ・・・。
 そういう結論になって欲しいなあ」
と、勇気を持てる源になっているんです。
山岸 私の特徴は、
「原理からしかものを考えない」
という所でして・・・だから実は、
トレンドからものを見るのが、すごく苦手です。

だから、私が原理を突き詰めて
実験をしながら出した結論に関して、
糸井さんのように現代のことを見通す方が
評価してくださるというのは、すごく嬉しかった。
糸井 まあ、ぼくのやってることは、
トレンドにも見えますが、基本的には
「騙されないぞ」というスタンスでいます。
・・・というのは、ぼくは、
「テストを配られて、書かされて、
 本当には思っていないことでさえも、
 書かないと点をもらえないから、書く」
という時代に広告屋をやってきたので、
「違和感を持ちながら何かさせられる」ことが
ほんとうに、嫌で嫌でたまらなかったんですよ。

だから、トレンドのようなものに流されながらも、
「わからないことは言わないようにする」
「考え途中のことは、途中だと思うようにする」
といったことだけを唯一の原則のようなにして、
何とか、喋ったり考えたりしてきたと思います。
でも、それを続けるのは、
けっこう辛いことでもあった。

そこで山岸さんの本を読んで
ありがたかったのは、正直がいいということが、
きちんと実験で実証されていたところなんですよ。
「実験をしても、そうなるんだ!」と思えたから。

著書を読んでいて、山岸さんが、
どうしてこのような研究をしてるのかを、
とても知りたくなったんです。
散々裏切られて来たからこういう研究なのか、
それとも失敗をした経験があるからなのか・・・
その辺り、山岸さんの研究の動機を伺えますか?
山岸 一番の動機は、ですね・・・。
アメリカで10年くらい研究をした後に、
日本に戻って、北海道大学で教えはじめましたが、
おそらく、その時のカルチャーショックでしょう。
まったく「理が通らない」んですよ!

いくら正しいことを言っても、まったく通らない。
そのシステムが嫌で嫌でたまらなかった・・・。
そんな中で、3〜4年教えまして、辞めました。
その後、アメリカにまた4〜5年行きましたが、
ともかく、理の通らない仕組みが、嫌だった。

そこで戦略的に、変なことを言う人になった。
普通の日本の学者がやらないようなことを、
徹底的にやったり言ったりするようにしましたが、
その私の言動については、もう、
「私が悪いのではなくて、
 私はアメリカに長く居過ぎてそうなっちゃった」
という「せい」に、意識的にしていました。
糸井 「しょうがないな、あの人は」
と言われる感じね(笑)。
山岸 それで、まわりもだんだん
そういう私の言動に、慣れてきた(笑)。

だけどやっぱり、日本のシステムが嫌で嫌で。
だからどうして嫌なのかを、
自分で考えてみることにしました。

例えば、日本的な賢さとして、
「人間関係に長けている」とされるのが
全然納得できないのですが、それならば、
私の欲している「そうではない世界」とは
一体どのようなものであって、どうしたら
それを作り出すことができるのか・・・?
そんなように、考えはじめました。
それが、動機の一つだと思いますね。

もう一つとしては、社会学の人が
実験をすごく馬鹿にすることへの嫌悪感です。
ところが、実験は嘘をつきません。
だから私にとっては、ものすごく大切なのです。
いくら賢いことを頭で考えていたとしても、
実験したらデータがうまくいかないことなんて
いくらでもありますから。
・・・でも、実験を通す時には、
どうしても細部まで考えざるをえなくなる。
それがとても良いと思っています。

つまり、日本のシステムが嫌だというのと、
実験を大事にしたいという二つの動機が、
いつのまにか、つながっていたというか・・・。
糸井 なるほど。最初の動機は、ご自分の抱えている、
とても大きな不自由感からだったんですね・・・。
山岸 そうですね、それはすごくありました。
「お前の考え方にはバイアス(偏見)がある」
と、だから、実際にも言われるんですよ。
そしてそれは、まあ、そうだと思います。
だって、嫌いなものは嫌いなわけですから。
しかし、だからと言って、
実験データは私の主観ではないのです。

バイアスを持って、
自分なりの視点からものを見ていながらも、
なおかつそこで自己満足しないで実験をする、
そういう研究がうまく行けばいいと思います。
糸井 山岸さんの本を読んでいると、
相当な情熱のようなものを感じました。

「俺のやっている方法以外の方法でも、
 もしも、解決できるなら全然いいよ?
 でも、ほとんどの人が、
 絶対に何も解決できない方法で、
 延々と研究し続けているじゃないか!」

という叫びさえも聞こえるような、
まあ、冷静にお書きになってはいますけれども
その根っこにある気持ちは相当なものだぞ、
と、ぼくは思っていたんですよ・・・。
そのあたりを、お伺いしたいんです。

山岸さんのお生まれは、確か1948年。
ぼくも同じ年の生まれなんです。
そこには、性格の差だとかはあったとしても、
いくつか共通点のようなものがあると思います。
ちょうど「正しいこととは何か」を探そうとする
若者の世代に、一度は当たっていますよね。
そこで、ぼくとしては、自分が18歳の頃から、
騙す側にまわった気がしていたんですよ。

自分がその騙す側からこぼれ落ちることは、
一人でいくらでもできるのですが、
でも、その時の騙すロジックというか戦略は、
ぼくが外れようが外れまいがずっと残っていく。
政治的に右であろうが左であろうが、
その戦略で、人はコロっとだまされる・・・。

その仕組みに対して、ぼくはもう、
体が縛られてしまうような嫌さを感じていて、
その嫌な仕組みへの疑いが、ずーっと、
ぼくを冷めさせ続けてきたような気がします。

今言われているロジックに疑いを持った場合、
そのロジックとはまったく違ったものを見たくて
オカルトに行く場合もあると思いますし、
また、一方では、生活の論理と言うか、
「生きていくことが仕方がない」と、
昔に中野重治の書いていたような方向に行くか、
あとは、まったく何も考えないでいるか・・・。

不完全なロジックから離れる方法は
たくさんありそうなのですが、結局はどれも、
「ポスト**」とでも言える形になったりする。
だけども、それをいくら体系づけたところで、
最初に疑いを持ったあとの、頭がさまよう状態は、
一向に拭い去ることができていないわけです。

その時に一番負けてしまいがちな論理は、
「勝てば官軍」のロジックだと思います。
「結局、負けたら何も言えないじゃないか」
というところで息を止めて勝ちに行くのですが、
そこにもやはり体を縛るような不自由さがあって、
勝たなければいけない拘束衣を着るようなのは、
ぼくには、どうしても価値だとは思えない。

山岸さんのお書きになったものは、
「人はこう動くから、こうすればいい」と
政治にフィードバックするわけでもなくて、
「正直は最大の戦略である」と言っていますから、
読んだ時のぼくのショックは、すごかったですよ。

ちょうど、今までの考え方が
ぜんぶ壊れていくような時期に読んだので、
ぼくが漠然と考えていた憧れのようなものと、
社会の仕組みを重ねて、何かをできるのかなあ?
・・・そう思って、だから山岸さんの考え方には、
かなりわくわくしながら、本を読んでいましたよ。
「正直は最高の戦略である」は、ちょうど
今の時代にフィットするなあ、とも思ったし。

自分ではじめた「ほぼ日刊イトイ新聞」も、
「青くさいことだけど」と注釈をつけなければ
なかなか言えないことでも、一生懸命になって、
「違うかもしれないけど、ぼくはこう思う」
と言っていると、それに対する読者からの反応が、
予想していたよりもずっとビビッドに感じられて、
その進行の度合いがとても早いんです。
山岸 そうでしょうね。
糸井 そこは、正直にやっていて
ほんとうに嬉しかった。
(明日掲載ぶんに、つづきます)

2000-11-23-THU

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