「元気でいよう。」 ──これから、うたができること。── 宮沢和史さん×糸井重里対談
 
その2 90年代に、出せなかった力。
宮沢 糸井さんには、70年代の終わりに、
「これから80年代が幕開けするんだ!」
っていう期待は、ありましたか。
糸井 ありましたね。
80年が始まるときって
やっぱり、日本中が期待してた気がする。

みんながニュースで知ってる
大学闘争が激しかったのが、70年代なんですよ。
ぼくも大学には行かなくなり、中退をした。
コピーライターになったのも、
「こういうのになりたい!」と思ったというより、
「それは食えそうだな」という発想だった。
行き場がなくて始めた仕事なんですよ。
80年代っていうのは、ぼくもふくめて、
そういう奴らがやっていけた時代なんですよね。
場所が空いていた。
宮沢 そうですか。
糸井 「状況劇場」の唐十郎さんが
新宿の花園神社の境内にテントを張って、
芝居をしましたよね。

神社って、メインカルチャーだから、
そのメインからの
“どうぞ”っていうご好意か、“無視”か
わからないけれど、
そういうものの上にテントっていう
モバイルを立ち上げて、演劇空間を作った。
あの頃「サブカル」って呼ばれはじめたことって、
いま思えば、「場所が空いていた」からできたんだと思う。

80年代は、みんながそういうやり方だったと思えば、
ぼくがやったことっていうのも、
分かりやすいかもしれないですね。
ぼくが広告の世界に入ったのも、
広告というのが花園神社で、
そこに紅いテントを張ろうとしたら、
「いいよ」って言われた、っていう、
そんなことだったのかもしれない。

お芝居がうまくいけば
お客さんも「良かった」って思うし、
神社にもたくさん人が集まるようになる。
みんながうれしい。
「もっとやり方次第では
 うまく稼げるかもしれないよ」
なんていう知恵を出す人も出てくる。

そうやってだんだんと居場所をひろげて
みんなが「いいよ」って言ってた時代が、
80年代だったと思うんです。
それが終わって、90年代、
ちょっと息が苦しくなった。
宮沢 はい。
糸井 90年代が始まった頃、
ふだんはカジュアルなものしか着ないこのぼくが、
スーツを着てプレゼンテーションに出席していたんですよ。
会議には小さい教室一杯ぐらいの人が出席していて、
そこでも入れない人が本社で待っていた。
すごくたくさんの人が、その仕事で食べていくんだ、
と考えると、厭でも自分がしっかりしなくちゃって思った。
「俺がちょっとした失言したら?」とも思うし、
服装が気に入らないぐらいのことで
減点されたら困るよな、とも考える。
だから我慢してスーツを着ていったんです。

ところが、力が出ないんですよ。
自分としてはちゃんとみんなのお手伝いをして、
責任を持ってるみたいな気持ちでいるのにもかかわらず。
宮沢 力が出ない?
糸井 そう、その会議で、まったく力がでない。
だから、例えばの話、
THE BOOM のみんなが学生服を着て‥‥
たとえがおかしいかな?(笑)
宮沢 ふふふ(笑)。
糸井 昔のスタンドマイクみたいなので歌ったら、
たぶんいつものようには歌えないと思うよ。
宮沢くんは、おそらく、
それでもきっとできる、って思うよね。
宮沢 はい、思いますよね。
糸井 思うよね。
それは、生ギター1本で、
普段着だったらできるんです。
でも、学生服じゃパロディになっちゃう。
ぼくのスーツ姿も、それと同じだったんです。
本来の自分じゃないんですよね。
都合だとか事情だとかを
おもんぱかっての仕事だから。
宮沢 その、「出せなかった力」って
なんなんでしょう?
糸井 なんていうんだろう、
どんな仕事にも、芸術性がありますよね。
やむにやまれぬ芸術性の部分が。
それは絶対にどんな仕事でもあると思うんです。
もちろんセールスマンにもあると思う。
それは、本来の自分じゃないと出てこないもので、
スーツ姿のぼくには、出せなかったんだと思う。
宮沢 ふうむ‥‥。
糸井 矢沢永吉さんのステージって見たことありますか。
宮沢 生ではないんです。
糸井 一回見るといいですよ。
面白いのはね、オープニングで、
舞台そでから登場して
舞台の真ん中に出るのに、
ガードマンと話しながら歩いて来るんです。
まったくお客さんのほうを見ない。
そうするとお客さんは
「永ちゃんこっち向かないかな?」
って思うんです。
お金を払って見に来ているコンサートだから
お客さんには「こっち向いてよ」って言う
権利があるはずだ、と思っても、
その短い登場のすがたを見ているうちに、
お客さんはこんなふうに思うんです。
「永ちゃんちに呼んでくれてありがとう!」って。
つまり永ちゃんの表現は、
「俺んちで歌うから、これから」
っていう感じなんですね。
そして舞台中央に立ち、
お客さんに背中を向けて、水を飲んで、
“バーン!”て手を広げて振り返る。
すると、見ているお客さんはこう思う、
「ありがとうございます!」って。
宮沢 なるほど‥‥。
糸井 THE BOOMもやってますよね、そういうことは。
つまり「ここは俺んちなんだから、
俺が好きなようにやるぞ」っていう表現を。
あれができなかったら、
やっぱり芸術性、神通力が出ないんです。
どんな人もそうなんだよ。
ぼくらの仕事でもやっぱりそうで。
「ここじゃ力が出せないかも」と思ったら、
そのぶん、計算づくで戦略を立てるみたいにして、
相手を説得する必要がある。

90年代に広告を辞めた、というのはね、
そんなことが増えてきたことで、
「これはもう、俺の仕事じゃないな」と思ったんです。
自分のファンとしての自分が、
「もっと“自分”はいいのにな」
って思うわけですよ。
で、そのファン(自分)の期待に応えて、
「じゃぼくはそっから逃げます」と、
「ほぼ日」を立ち上げた。
自分をのびのびさせてあげたかった。
宮沢 震災後、東北での活動を始めたのも
基本は同じ考えかたですか?
糸井 同じです。
自分も程度はどうあれ
地震を経験しているわけだし、
震災があったらめげるわけですよ。
そのなかで、何をしたら、自分が生き生きできるか。
それは自分で考えなきゃならない。
すると「手伝う自分」が一番自然だったんです。
「俺はこれをやるからついて来い!」
なんていうのは、ぼくにとって、
全然自然じゃないわけです。
主役はあっち(被災地のみんな)。
ぼくは、いろいろと自分なりにやってきたことのなかから
これは手伝えるなと思ったことで
「手伝ってもいい?」って訊いて、
「ぜひ、糸井さん、頼みます!」って言われたら、
うれしいし、意気投合になるじゃないですか。
そうしたら、それをやってる自分が
自分を生き生きさせてくれる。
ある意味“ワガママ”でなければ、
お手伝いも、やっぱり嘘になると思うんですよ。
(つづきます)
2012-05-22-TUE
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