(これまでの「はじめての中沢新一」連載はこちらです)




第38回 論理が人間を分離する

(中沢新一さんの、イベントでの
 ひとり語りをおとどけしています)

「カイエ・ソバージュ」の
第三巻目の主題は経済です。

物事を分離するという考え方は
合理的な思考方法を作りますが、
物事をつなげていくというのは
非合理的な思考方法を作ってしまいます。

論理というのは
常に分離させないといけないんですね。

母親と子供を分離しないといけないし、
死と生を分離しなければいけない。
分離機能というのが論理を作っていく。

ところが底のところで
つながっている部分を考えてみると、
「生と死」を分離できませんから
これは矛盾=パラドックスという状態を
作ってしまうわけです。

しかしこの
矛盾的なパラドックスという
考え方を作るものは
神話的なものの考え方の基本ということを
一巻、二巻で明らかにしました。
同じことが経済でも言えるのではないか、
と考えたわけですね。

わたしたちの社会の経済活動というのは
貨幣を使った交換と、それから
より原始的な伝統的な贈与という
二つのやり方で経済活動が行われています。

贈与の方は、今の社会では周辺的な部分に
押しやられて
お中元とかクリスマスプレゼントとか
バレンタインデーとか
そういうところでしか、
あるいは政治的な収賄というかたちで
行われています。

しかしこの贈与は
わたしたちが
人間と人間とのあいだに
心の交流を作りあげるには
最重要なものです。

ところが、貨幣を使ってやる
交換というのは、人間と人間のあいだに
人格的なつながりを
作りだす必要がない経済行為です。

実際、
コンビニエンスストアに行って、
わたしたちは
お金を払ってものを買いますが、
そのときお店の人とも、
商品を作った人とのあいだにも
人格的な関係は発生しません。

ところが贈与だと
人格のつながりが発生するんですね。

バレンタインデーに
チョコレートを贈ると
その女の子の思いという人格の一部が
チョコレートと一緒に男の子に渡りますから、
男の子はよろこびに思ったり、
負担に感じたりするわけです。
「あぁ、彼女の人格が入ってきた」
ということですね。

近代の経済では、
人間の経済行為の中に
人格の交流ということがありません。

贈り物ならば、
ものがこちらの世界にやってきた時、
人格も一緒にやってくるわけです。
何かの贈り物を交換しあうと
わたしとその人という
分離されてあるべきものの間に
人格のつながりが発生してきてしまうわけです。

つまり贈り物を通して、
彼女の人格が
わたしの中に入ってくるわけです。
それをわたしは受け入れなければならないし、
お返しをしなければいけないということになる。

そういうふうにして
人間と人間のあいだのつながりを
つくりあげてきたわけです。
ですからこの贈与という経済システムは、
人類の経済システムの中で
いちばん基本的で重要なものでした。

数万年のあいだ、人間は
この贈与のやり方によって
経済活動を行い、
同時に経済活動が
人格と人格のつながりを
作りだしていたわけです。
ところが、論理的な思考方法と
経済的という考え方がここに入ってくると、
これはいちいち人格というものが
一緒に動いているという状態は非合理的です。

そんなふうにして
合理化するという働きが、
都市で発生しています。まずこれは、
ものと人とを分離しなければいけません。
ものを作った人、
何か美しい宝石を作った人、
職人との間には
何の関係もないものとして
商人がそれを商店に置かなければ
いけないということになりますね。

(明日に、つづきます)

2006-01-26-THU


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