糸井 |
「Web2.0」のときに語られていたバラ色の世界と、
実際の炎上や無理解もあるネットの世界と、
佐々木さんのなかで折り合いがついてきたのは、
いつぐらいからなんですか。
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佐々木 |
やはり、ここ数年のことですね。
変化の理由のひとつは、
2007年からいままでのあいだに、
自分自身で、相当、考えたということ。
と同時に、インターネットの世界が
ものすごく進化したというのがあるんですね。
進化したっていうのは、
べつに人間が進化したわけじゃなくて
アーキテクチャーですよね。
技術とサービスがものすごく進化した。
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糸井 |
あー、なるほど。
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佐々木 |
そのネットの進化によって、
いろんなことが可視化した
というのが大きいんじゃないかなと。
たとえば、ブログの時代っていうのは
ブログを書いて、それが批判されるとすると
よくわかんない批判をされてたわけですよ。
まず、誰から批判されてるのかわかんない。
コメント欄に、だーっと何十個も批判が並ぶ。
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糸井 |
匿名の人たちから。
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佐々木 |
それが誰なのかよくわからない。
トラックバックみたいなかたちで
他のブログからの批判もくる。
それを書いてる人たちは、
いちおうはブロガーとして存在するんだけど、
なんとなく、顔が見えない。
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糸井 |
わかります。
架空の人格である場合が多いんですよね。
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佐々木 |
そうなんです。
匿名だからっていうだけの話じゃなくて、
なんとなく、キャラクターが
はっきりしていない感じっていうのがあって、
すごくとらえにくかったんです。
というなかで、やっぱりいちばん大きかったのは
2009年ぐらいにツイッターが出てきたことで。
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糸井 |
はい。
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佐々木 |
ツイッターって、ものすごく、
あるひとりの発信者が、
はっきりするメディアなんですね。
実名なのか匿名なのかとは関係なしに
その人がどんな人で、どんな雰囲気で‥‥。
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糸井 |
なに言ってきたかが、わかる。
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佐々木 |
そう、過去に何を言ってきたかが
すごくクリアに見える。
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糸井 |
ブログだってさかのぼって読めるんですけど、
にじみ出る人格のようなものが
ツイッターには
ものすごくはっきりとあるんですよね。
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佐々木 |
そうなんです。
だから、いまは批判されても、
批判してる人がどんな人なのかっていうのが
ある程度はわかるようになった。
これがひとつ大きなことです。
あと、ブログでの炎上というのは、
ひとたび批判が集まると、
それに対する反対意見というのは
すごく言いづらかったんですね。
つまり、うわーっと批判しているときの
空気の圧力のようなものがものすごいわけです。
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糸井 |
ああーー。
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佐々木 |
もう、全員が批判しているように見えるので、
そうでもないんじゃないかなって思う人がいても
それは、その場には、やっぱり書き込めない。
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糸井 |
そうか、つまり、
酔っぱらいだらけの飲み屋に入っていく、
みたいになっちゃうんですね。
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佐々木 |
そうそうそう(笑)。
でも、じつは、その飲み屋の外側には、
ふつうのしらふの人たちがたくさんいる。
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一同 |
(笑)
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糸井 |
よくわかる、よくわかる(笑)。
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佐々木 |
でも、しょうがないんですよ、怖いから。
店のなかに入った瞬間に、
もう、わーっとかなってるから
じゃあとりあえず俺もビール1杯飲んで(笑)。
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糸井 |
ねぇ(笑)。
黙って飲んで酔っぱらって、
静かな客として帰ろうみたいな。
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佐々木 |
でも、サイレントマジョリティーって、
その外側にいるわけです。
そこでの言論というのは、
いわば円環を成しているんですね。
中心に批判されている人がいて、
それを批判している人たちが取り囲んでいて、
彼らは自分たちこそが
一般の声だと思っているけど、
さらにその外側をたくさんの
サイレントマジョリティーが取り囲んでいる。
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糸井 |
そうですね。
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佐々木 |
インターネットって、
どんなに冷静に語り続けても、
自分が第三者にはなれないんです。
なにか言った瞬間に批判の対象になるわけだから、
巻き込まれるんですよ。
だから、いくら絶対的な正義を
語ってるつもりになってもムリなんです。
‥‥ということを、ブログの時代に、
多くの批判に対して言ってみても
まぁ、ほとんど焼け石に水というか、
蟷螂の斧だったんですよね。
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糸井 |
うん、うん、うん。
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佐々木 |
ところが、この状況が、
ツイッターが出てきてすごく変わった。
もちろん批判は相変わらずあるんですけど、
それと同時に「いや、私は賛同します」
っていう声もバーッと現れるんですね。
そうするとね、発信している側としては、
孤立無援みたいな感じがなくなる。
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糸井 |
自分はあなたに賛同してますよ、
っていうことを表現する方法が
けっこう複層的にあるんですね。
たとえば「あなたの意見に賛成です」
なんて書かなくても、リツイートするだけで
その姿勢が表せたりする。
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佐々木 |
ああ、なるほど、そうですね。
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糸井 |
ぼくは、震災のあとに
佐々木さんが情報のキュレーションをしてるときに
とんとん、といくつかリツイートしたんですけど、
まずはそれで賛同だっていうことですよね。
ひとつひとつの論争に「そうだそうだ」って
言うこともできるんですけど、
けっきょく、そこに時間を取られるのがいやなので、
リツイートひとつで
全体的な賛同として表してしまう。
あるいは、その人のフォロワーとして、
ずっと見ているってことだって賛同の表現ですよね。
佐々木さんが言ったことについて
さらにうまく展開している人のことを
またリツイートすることだってできるし、
もう、こう、なんていうんだろう、
乱反射させて表現する、みたいな。
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佐々木 |
わかります。
個別の議論に入りこんじゃうと、
どんどんどんどん狭いとこに行ってしまうから。
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糸井 |
もう、それだけで仕事になっちゃうからね。
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佐々木 |
そうなんですよね(笑)。
だから、おっしゃるように、
とりあえず見てますよってことが、
賛同のステータスとしてできるっていうのは、
やっぱり大きな違いだと思うんですよ。 |
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(つづきます) |