糸井重里が紹介する 吉本隆明『最後の親鸞』

吉本隆明著『最後の親鸞』

僕は、学生の頃、いちど
ある一定期間、田舎に帰ったんです。

若いうちに田舎に帰ることは、
じつは、ちょっと
ロクなことじゃないんです。

「便りのないのがいい返事」と言いますが、
若者は、田舎のことを忘れている状態のときに、
いちばん元気に暮らしているものなんです。
ロクでもないことがあったり、
何かをやり直したくなったり、
休み時間のようなものを作りたくなったときに
「ただ居られる場所」を求めることがある。
それが田舎という場所なんです。

そのときの僕も、何か理由をつけて、
帰りたくもない田舎に帰っていました。
そこで、まぁ、しょうもない
夏を過ごしていたんです(笑)。
暇だったし、
大きな本屋に行ってぶらぶらしてたら、
吉本さんの『最後の親鸞』という本を
見つけたんです。

吉本さんの本は、僕ら学生のあいだで
必ずベストセラーになりますから、
いちおう読んだりしていたんですけど、
『最後の親鸞』という本は、
いわゆる「評判になったもの」じゃなかった。
政治でも経済でも何でもない、
社会でもないところで、ポンと存在する本です。
その本屋さんで、ああ、吉本隆明って人は、
こんな本も出してるんだ、と
まずは思いました。

当時から、僕はあまり立ち読みはしないほうでした。
買うかどうか決めて、すぐに買うんですが
心に弱みのあるときは、のろいんですよね(笑)。
その本屋で、なぜか読みはじめちゃったんです。
ものすごくおもしろくて、
わかんないなりに、しみ込むように、
体に落ちてきた。
そんなこと誰からも聞いたことなかった!
ということが、ずいぶん書いてあったんです。
お金もあまりなかったんですが、
それはもうその日のうちに買って、
読みはじめました。

学生たちをはじめ、
ものを考えている人たちは、
知と無縁な人々のことを
勘定に入れないんです。
生まれて、生きて、
どんどん知的になることを
義務だというふうに学校では教える。
ものを知っていくことの絶えざる切磋琢磨と、
よい人間になっていくという道が
イコールになって結ばれて、
世の中は動いていると思い込んでいるわけです。

けれども、それはごく一部の人たちの、
一種のドグマにしかすぎない。

それぞれの人の「自分」の中には
「大衆」と「知識人」が、
多かれ少なかれ、いると思います。
自分の中の知識人が持つ弱さにくたびれて
僕はそのとき、田舎にいたと思うんです。
知識人じゃない人々の
圧倒的な、その大事な人生について、
考えている人がいたということがわかって、
すごくショックでした。

もう、その日から人生が違ったくらいに、
僕は変えさせられた気持ちになりました。

吉本さんの著作の商品価値としては、
左手側で書いた部分のような本ですが、
それが綿々と続いて、
僕みたいな人たちの落ち込んだ日に
触られたりしながら文庫本になって、
いま、こうやってあるというのは、
すごいと思います。