いしはら・としひさ

1973年生まれ
1996年 武蔵野美術大学彫刻科卒
1998年 茨城県笠間窯業指導所終了
2000年 福岡県宮若市にて薪窯築窯
2010年 「ほぼ日」の「Love+LOVET」で
「石原稔久さんのやきもの人形」販売



前回の「ほ+」のあと、
敷地内で工房をつくりかえて、
2011年1月にちいさな引っ越しをしました。
引っ越しって、リフレッシュしますよね、気持ちが。

そして3月に1冊目の絵本が完成しました。
絵本をつくるきっかけになったのは、
北九州の到津(いとうづ)の森公園
動物園でひらいた
「どうぶつのかみさま」という個展でした。
うつわではなく、人形の個展で、
やきものでつくったどうぶつの人形が、
絵本の1シーンごとに展開するような、
物語性のあるものでした。



その開催日が3月19日で、
その前に会場をすごく作りこむんですね。
壁から、何から作りこんで。
で、もういよいよ搬入です、という時に
震災が起きました。

直接的な被害はすくない土地でしたけれども、
九州新幹線のオープンも
ぜんぜんお祝いしなくなっちゃったし、
動物園も第三セクターなので、
市の行事ってもう軒並みキャンセルだったんですよ。
で、もちろんぼくの個展も
やっぱりキャンセルの話が出たんですが、
動物園の園長さんがとても熱心な人で、
「いま、こういうことをやらなくて、いつやるんだ」
って言ってくださって。
「こういうのを、見せなきゃだめなんだ」って。



その個展では、はじめて物語の展示をしたという以上に、
いままでとはちがう、
うつわでは出会えない人たちに出会えたことが
とても大きかったです。
おじいちゃんが孫に、
読み聞かせしながらいてくれるとか、
そんなお客さんがいたりして。
その体験を通じて、
絵本づくりをライフワークみたいにしたいなぁ、
と思っていたら、
その絵本を被災地に送りたいってかたが
けっこう、いらっしゃって。
そんなつもりでつくったんじゃないんですけど、
思わぬことになって、とても、うれしかったです。
それが昨年春のできごとです。

ものをつくることに、
近道と遠まわりって、ないのかもしれないけれど、
人といろんなことを話しあってつくっていくのって、
ぼくには、たぶん、近道だと思うんですよ。
もちろん、遠まわりしたっておもしろいに違いない。
その自分だけの世界で、わたしはこれですって言って
誰の意見も取り入れずに、
こんこんとやる道もぼくはすごい好きです。
でも、いろんな人とやって、
おもしろいものどんどん作っていくっていう、
ぼくは、そういうタイプなんだと思います。



そんなふうに、ちょっと違う分野に
ふれる機会があったのが、
おもしろかったなと思っています。
というのは、逆にそっち側をやると
今度はもううつわを作りたくてしかたがなくなるんですよ。
人形をたくさん作ってるともう、
ああ、うつわが作りたいー! ってなって、
うつわをずーっと作っていると、
人形作りたいな、ってなるので、
ちょうど、バランスが取れてる。

そしてうつわにも変化がありました。
「わたしが」っていうことに
こだわらなくなれた、っていうか。
前は、うつわに自分の個性をどうやってこめるか、
まず人に手に取ってもらうこととか
どうやって自分のうつわであるってことを
認識してもらうかみたいなことを、
すごく考えていたんだと思います。
とにかく作家がたくさんいるので、
まず、手に取ってもらえないと、
次の仕事がこないんですよね。
だからまず、
「石原さんってこういう仕事なんだな」
っていうのをわかってもらえるように、
特徴的な仕事をやってたんですけど、
ここ1、2年、
自分が何かやったらそこには、
ぼくなりの何かがあるんじゃないか、
というふうに思うようになりました。
あんまりインパクトみたいなことに
こだわらなくなったかもしれないですね。



2011年になってから、磁器も始めました。
今回は間に合いませんでしたが、
もし来年も、「ほ+」から
声がかかれば出したいなと思っています。
あるいは少しベージュっぽい、白土のものとか。
ぼく、ほとんど黒土しか使わなくて。
基本的には鉄分が入ってる土がほとんどなんですけど、
最近わりと鉄分のない土でたのしみ始めています。

最近、ろくろも使うようになりました。
以前はろくろ恐怖症っていうか。
「ろくろ使ったら、ぼくじゃなくなる。
 手びねりじゃなきゃ」みたいな気持ちが
あったんですけれども、いまは、別にかまわない。
多少、まだろくろに関する距離感は残ってるけど、
手びねりがそこそこやれるようになってるんで、
ろくろもいいかなぁと思っています。



いま、30代の後半で、
作家に、“乗る時期”っていうものがあるとしたら、
たぶん自分がだんだんそういう時期に向かって、
もう気持ちの準備ができてきてて、
からだも、技術的にも、
いろんなことが整い始めてる時だと思うんです。
いままでの先輩たちが作ってくれた世界で
ぼくたち、やってるじゃないですか。
安藤(雅信)さんだったり、福森(雅武)さんだったり、
いろんな人がこのやきものの世界を作ってくれて、
ぼくらはわりとその、かきわけられた道、
開拓者というよりもかきわけられた道を歩いてる。
ほんとに歩きやすいんですよ。
ギャラリーも揃ってるし、
買い手もそういうものがいくらかわかってる。
けれども、よく聞くんですけど、
彼らが始めたときって、
作家もので日常づかいのうつわって、
あんまりなかったらしいんですよね。
一枚5千円のうつわってどういうこと?
っていう時代があった。
だから、いまでこそ、例えば
湯のみは3千円ですって言っても、
ああ、3千円ぐらいですよね、
みたいに受け取ってもらえる。
そんなふうに歩いてきたので、
今度、ぼくらの世代が
ちゃんと、いい表現をしていって
次の世界をつくってみたいな、
っていう気が出てきています。



次の1年は、個展もやりつつ、新しいことをやりたい。
最近ギャラリーを少しもう離れ始めてて、
動物園だったり、演劇の人とやったりするみたいに、
お花屋さんや、飲み屋さんでやったり、
いろんなとこでやれたらいいかなっていう。
そうだ、フランスの
陶器市にも出してみたいと思ってます。
パリに、フランス中のおもしろい陶芸家たちが、
一同に集まる催しがあるらしいんです。
そんなふうに動き始めています。

2012-03-09-FRI



大学は武蔵美の彫刻です。
デザイン科と違い、彫刻科って、
大学を卒業したあと、つぶしが効かなくて、
ただでさえ行くあてがないんですが、
しかも僕、すごいアトピーだったんで、
会社は勤められないなあと思っていました。
どうしようかなあと考えていたとき、
うちの父が勧めたのがやきものでした。
父は脱サラ組で、
36歳までデザイン会社に勤めていて、
そこから急にやきものの道に入った人なんです。
僕が小学生の頃です。
その父からのアドバイスで、
技術さえあれば、
やきもので食っていくことはできるぞと。
もし自分の作品をつくりたいのなら、
バイト代わりに賃引き(湯のみ1個幾らで請け負う)で
生計を立てればいいじゃないかと。


▲石原稔久さんのご自宅のギャラリーで。

なるほどと思ったものの、
自分には基礎がなかった。
子どもの頃は父の仕事場に入るのは禁止でした。
大学終わって、初めて父の仕事場に入ったとき、
あ、こうなってるんだみたいなぐらい、知らなかった。
大学時代にテラコッタっていう、
ちょっと素焼きみたいな粘土を扱ったんですが、
「石原はやきもの屋だからよく知ってるよなあ」
って言われるんですけど、全く知らなかったです。
少ししか触ったことがなかった。

それで、茨城県の笠間っていうところに
父の知り合いの作家さんがいらっしゃって、
そこで修業をはじめました。
1年間、草むしりとか土練りなどをして、
紹介状を書いてもらい、
茨城県立窯業指導所に入りました。
そこでは1年間、
湯のみから急須までっていう
カリキュラムが組まれているんです。
先生が、ひいたのを見て、合格すると飯碗にいく。
で、合格するとマグカップ‥‥というふうに、
早い人はどんどん終わっていくんですね。
で、僕は半年で最後の急須までいっちゃったんです。
すごく楽しかったせいもあって。
残りの半年は、学校に時々行くかたわら、
笠間の産地の作家さんの窯炊きとか、
窯作りとかを体験でもうどんどん回り始めました。
そこで窯の築(つ)き方も教わりました。

どこの窯炊きもローテーションが組まれてて、
3交代か4交代で回ってくんですけど、
そのローテーションに入るのがすごく大事なことで、
そうすると全部吸収できる。
で、入るために必死で薪とか割って、
お金とかも全然貰わずに、とにかく勉強です。
そうして学校での1年間が終わりました。



学校を卒業する頃に、
ちょうど父が窯を引っ越すということで、
いっしょにやらないかということで、
福岡に帰り、父の仕事場を借りるかたちで
自分の仕事をはじめました。
戻ってきたとき、24歳です。
結婚をし、近くのアパートから
親父の仕事場に通いました。

いっしょにといっても、
うちの父は全然、これをしなさいとか、
これを手伝ってくれとか全く言わなくて、
もう勝手にやっていいけど、自分で全部責任は取れ、
というスタイルでした。
経済的な責任も当然、個別ですし、
作風も全く違います。
それでも父には助けられました。
最初に窯開きっていうのがあって、
父のお客さんに来ていただいたんです。
その隅っこの方で僕も少し売って、
その収入だったり、あとはバイトっぽく、
親父の薪割りとか手伝って、
お金を貰ってるような感じでしたから。

その頃、作ったものを近くの、
岩田圭介さんっていう作家さんに
できるたんびに、何回も見せに行ってたんですよ。
こんなのできましたと。
あるとき、岩田さんが、
「お、これ、いいね」
とかって。それがちょうど
いま、つくっているような表現だったんです。
これを千葉のクラフトフェアに出してみればと
教えていただいて、出してみたら、受かって、
そこからだんだんと声がかかるようになりました。


▲石原さんの窯場。

1年に何本かの仕事がだんだん増えてきて、
そこからまた次が広がっていきました。
個展をしながら、
声をかけていただいた全国のギャラリーに出す、
というかたちです。
最近はギャラリーだけじゃなくて、
動物園で個展をやるというような話もいただいたり。
「到津の森公園」ていう動物園が、
北九州にあるんですけど、
一角がギャラリースペースみたいになってるんですよ。
僕らもよく行く動物園なんですよ、子どもたち連れて。
それで、じゃあっていうことで受けたりとか。
3、4年前から立体のやきものでつくった人形を
頼まれるようになって、
最近、器と半々ぐらいになってきているんです。
人形の仕事と器が。
そんなふうにいろいろ広がってきたことが
とても楽しいです。


▲やきもののおにんぎょう。


▲石原さんは、やきもののおにんぎょうを主人公にした、
童話もつくっています。


最初の頃は、
ずっと手びねりばっかりで仕事をしてきたんです。
ろくろを避けてたわけじゃないんだけど、
やり初めの頃ってやっぱり何かこう、
その人ならではの何かがないと
まず見てもらえないんですよね。
手びねりは自由な感じが好きだし。


▲手びねりでうつわをつくってもらうことに。


▲彫刻をつくっているかのようです。

だからわりと手びねりを中心に
ずーっと作り続けていたんですけど、
最近、あんまりそこだけにこだわらなくなり、
1年半ぐらい前からろくろの仕事を
少しずつやり始めたんですよ。
で、この「ほ+」のお話がきたんで、
手びねりに加えて、ろくろのものでいこうと思いました。
といっても、僕は、
ろくろをひいたあとに、全部、表面を削って
もう1回、形を整えるんで、
表面がちょっとろくろ目じゃないんですけど。


▲天井までうつわやおにんぎょうがぎっしり。

飯わんって、難易度が高いんですよ。
僕には難しい分野で、
すごく普段使いのものなので、
使い勝手がかなり左右するというか、
だからわりと最初から自分がどうかしたいっていうよりは
みんなが入り込みやすいところから
やってみたいなと思います。

湯のみは、そうですね、
自分がお酒よりお茶が好きなせいもあって、
たとえば中国茶やってる友達と一緒にやるときは
ちっちゃい中国茶のカップから、
喫茶店でやるときはコーヒーカップなど、
わりとお茶まわりのものが好きです。

お客さんには、わりと、持ちごたえだとか、
いろいろ、主張があるんですよね。
厚すぎるわ、持てないわとか、
ちょっとちっちゃい方がいいんだよねとか、
うちはカフェオレ、ガブガブ飲むんで大きく、とか。
だからいろんなものをほんとによく作って、
出させてもらってますね。
でも最近はわりともう、平均して
今回ぐらいの大きさで作ることが多いかな、湯のみは。

湯のみって、いろいろ変わっていくんですけど、
僕の中で変わらないかたちっていうのが
幾つか生まれてきてるんですね。
それは一般に多分定番と呼ばれてるものだと
思うんですけど、何回やっても、
そのかたちに戻っていくようなかたちがある。
そういうものはやっぱり作ってても飽きないし、
自分で使ってても飽きないので、
これは何かあるんだろうなあと思って。
そんなふうに思っているものを、
出させていただきました。


▲石原さん(左)と福森道歩さん(右)。
石原さんの登り窯の前で。


僕ももともと、1個1個を変えてくような
タイプの作家ではなくて、
ある程度、形を決めたら、
それを作り込んで微調整をします。
微調整の方法は、いろいろあるんですが、たとえば、
土器っぽい仕上げのものは、
素焼きを1回して、石分と土分が入った化粧土を
表面にもう1回塗る。
それをペーパーでちょっとはぎ落としてから、
薪窯で本焼きします。
それで焼いて、たとえば水色のカップは、
その上にもう1回、水色の上絵具、
無鉛の上絵具を付けてもう1回、
800度で焼成するっていう焼き方ですね。
上に釉薬をかけずに仕上げるものもあります。

釉薬は筆で全部塗ります。
筆ならではの、むら感みたいなのが
好きなのかもしれないですね。



こういう、わりと土器っぽい仕事が始まってから
7年ぐらい経ちますが、
始めた当初の、こうじゃなきゃ、みたいなのから、
ちょっとずつ、ツヤっとした釉薬でもいいなあとか、
変わってきてる時期だと思うんですね。
黒いものは、使っていくうちに、
手づれみたいなものが出て、
最初はマットだったのが、ツヤが出てきます。
そんなふうに育てていただいたらうれしいです。


▲お昼ご飯をいただきました。
石原家で日常使っている、なじんだうつわたちです。


料理ですか。僕、好きですね。
もう、結婚してすぐはずっと僕が全部作ってて。
うちの奥さんは、
いい加減にしてほしかったらしいですけど。
今は、奥さんが忙しいときは僕がつくる程度です。
でも子どもたちはけっこう、
ちょっとジャンクな味付けの
僕の料理好きだったりとかするんですよ。


2011-02-18-FRI

写真:大江弘之 + ほぼ日刊イトイ新聞 

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