谷川 |
自分が言語に目覚めたときのこと、
覚えてます?
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糸井 |
覚えてない、と思います。
でも、そのあたりのことについて
ぼくなりにちょっと思っていたことがあって。
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谷川 |
なんでしょう。
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糸井 |
歌の中で、
わからない言葉が出てきたことって
ありますよね。
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谷川 |
ああ、ありますね。
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糸井 |
それをそのままにしていた自分というのが
くすぐったいような、
気持ち悪いような、いいような。
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谷川 |
なるほどね。
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糸井 |
みんながよく言うのは、たとえば、
「うさぎおいしかのやま」
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谷川 |
はい。
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糸井 |
うさぎがおいしいわけじゃないし、
「かの」という言葉も
よくわかんないまま
歌ったり使ったりしていました。
石井桃子さんの翻訳した
クマのプーさんのシリーズとか、
あのあたりの本にも
おとなの言葉がすごく混じり込んでて、
読んだときのまま、そのままにしちゃって
たのしい自分がいました。
宙ぶらりんで、すごく気持ちいいな、って
思ったおぼえがあります。
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谷川 |
そこに書いてあることを
隅から隅まで理解するってことは
ほんとはありえないんだけど、
教育現場では
隅から隅まで理解しなきゃいけない
みたいなことになっているんだよね。
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糸井 |
そうですね。
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谷川 |
詩はもちろん
隅から隅まで理解できないものなんだけど、
散文は、ちょっと分析しすぎるんです。
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糸井 |
散文にも、
詩の要素は、絶対にありますよね。
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谷川 |
あるんですよ。
言語そのものが、
基本的にあいまいなものであって、
われわれの生きてる現実を
100パーセント表現なんか、
できないものだからね。
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糸井 |
うん。できると思い込んでる人の数が
多い限りは、
ぼくらがいましゃべっているようなことは
理解されにくい。
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谷川 |
まぁ、詩を書いてる人間だからそう言うんだ、
みたいなこと、
言われそうな気がしますけどね。
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糸井 |
そう言われてもねぇ。
だけど、理屈が合っていそうなのに
わけのわかんない言葉も
いっぱいありますね。
詩人の言葉は、文句なく、いい。
だけど、全部が詩になっちゃったら
ひじょうに不都合であります。
例えば、税金の督促状とか。
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谷川 |
(笑)そうね。
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糸井 |
人の心を打つような督促、
というのをされると。
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谷川 |
(笑)
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糸井 |
「ここで靴をぬいでください」
という貼り紙ひとつにしても、
すばらしい表現で、
靴を脱ぐべきだな、という思うように
心に響いちゃうようにして貼られると
まいっちゃいます。
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谷川 |
ま、そんなことするとね。
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糸井 |
それよか、いまのほうが
生きやすいでしょう。
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谷川 |
トルコの詩人で、
数学の教科書を詩で書いてる人、いましたよ。
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糸井 |
(笑)迷惑だね、それは。
すごいですねぇ。
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谷川 |
我々は詩というものを、
ただ「すごくあいまいな言語」だと
思い込みすぎています。
だけど、詩イコール韻文だとすれば、
簡単なんですよ。
つまり五七五七七のこと。
韻文を詩だと言えば、
俳句は詩だし、短歌も詩だし、
子どもが五七五を言えば、それも詩だし、
標語なんか全部詩でしょ?
だから、たぶんトルコでは、
韻文で数学を教えてるんだろうなと思いました。
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糸井 |
ああ、そうかそうか。
日本は、そういうところが
ずいぶんくずれてきたのかも。
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谷川 |
日本語では、韻文の伝統は
短歌と俳句しかありません。
だいたい、現代の日本語では
韻は踏めないんです。
全部が母音で終わるから。
日本語の詩はいま、
韻文性を完全に失いつつあるから、
詩というと、なんだかボワッと
話が中身のほうにいっちゃって、
形のほうに来ない。
ヘンだなと思います。
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糸井 |
それはおもしろいな。
韻文にすれば、
詩に見えてしまうということですね。
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谷川 |
それでもいい、ということです。
だけど現代詩は
みんな、韻文を忘れて、
意味にかたよっちゃった。
日本語にもけっこう豊かな
音楽性があるんだけど、
それを無視して、
意味だ、意味だ、ということで
やってきちゃったわけです。 |
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(つづきます) |