『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆さんへ>

ほぼにちは。
多忙につき締め切りに遅れて
更新が一日送れたことをお詫びします。
待っていてくれた人たちがいたとしたらごめんなさい

きょうは、テレビで働く人間に突きつけられた
問いかけです。



マイク

映像関係に就職を希望する学生など
およそ100人と対峙する機会があった。
そこでテレビに向けられた厳しい目を
強く感じることになった。
あるセミナーに日本テレビ、テレビ朝日など民放6局から、
キャスターと呼ばれる仕事をしている人たち6人が
パネリストとして参加した。うち女性が5人。
私は慣れない司会という役をおおせつかった。

セミナーに集まった学生たちに、
パネリストへの質問や意見を用紙に書いてもらった。
アナウンサー志望の学生も多かったため
面接のコツといった質問もあったが、
目立ったのはテレビの報道姿勢への厳しい見方だった。
なかでも象徴的だったのは、
大阪で8人の小学生が刺殺された事件についてだった。

「いま報道する側の姿勢が
 問われているのではと思います。
 皆さんはVTRで流れている現場の様子を見て、
 人間としてこれはどうかと
 疑問を抱くことはありませんか。
 例えば、最近では大阪の事件で、
 教室で惨事を目の当たりにした小学生に
 マイクを向けた映像を見て、
 ひどく嫌な気分になりました」
すでに社会人である参加者の女性から
こうした問いが投げかけられた。
惨劇を目の前で見た子供たちの心のケアが
深刻な問題となっているなか、
実際、テレビの記者が子供たちに
マイクを向ける場面が批判を浴びてもいた。

私はパネリスト全員に聞くことにした。
あなたが現場に居たらマイクを向けるだろうかと。
皆それぞれの考えを述べたが、
結論から言えば「向けると思う」という答だった。
パネリストたちの言葉を聞きながら、
私は自分がかつて取材した遺族を思い出していた。  

社会部記者になって2年目の夏だった。
日航ジャンボ機が墜落し520人が死亡した。
その日は私の誕生日でもあった。
すぐに現場に向かった。1ヶ月、家に帰ることはなかった。
その後、遺族担当を命じられる。
遺族会発足の動きが出ていたのだ。

記者は招かれざる客であることはよくわかっていた。
だが仕事は仕事だ。
私は遺族のまとめ役になりそうな人たちの
自宅の呼び鈴を鳴らした。社名と名前を名乗る。
玄関の向こうから
「そっとしておいてください」という声がする。
謝って立ち去る。訪ねては断られ、
メッセージをポストに残す日々が続いた。

気が重かった。
なんでこんな仕事をしなければ
ならないのだろうと座りこんだ。
ある日、玄関を開けてくれた人がいた。
玄関先で話をし、次の日は家に入れてくれた。
事故で息子を失った女性だった。
悲しみに打ちひしがれている上に、
初めて一人旅をさせた自分を責めていた。
事故から3日後、御巣鷹の尾根の急斜面、
しかも道なき道を登りきって、
いまだくすぶる凄惨な山頂に立った女性でもあった。
その後、彼女は遺族会の事務局長になり、
私の重要な取材対象になった。
彼女の思いを電波で伝え
墜落現場に一緒に登る日々が続いた。

自著『勝者もなく、敗者もなく』で詳しく書いたのだが
取材の過程で彼女を裏切ったような思いに
さいなまれたことがあった。
一言でいうと私の記者として人間としての
力量のなさがまねいたものだった。
彼女は私に失望し、私も自分に失望した。

その後遺族担当を外れても、彼女との交流は続いた。
事故から5年。彼女から一通の手紙が届いた。
私が送った花束の返礼だった。
5年間の思いが綴られていた。
息子の遺体を探し回った思い出。
私が初めて会ったマスコミの人間だったこと。
メディアの怖さも知ったが、時に支えにもなったこと。
そして御巣鷹の取材は、される方にもする方にとっても、
人の心の深いところで生を感じる原点だと感じている、
と締めくくられていた。
彼女とは今でもときおり連絡をとっている。

ふと思う。もしあのとき、彼女の家を訪ねていなかったら、
彼女との関係は生まれなかった。
招かれざる客だと近づくことをやめていれば、
彼女の思いをテレビにのせて伝えることもできなかったし、
後の信頼関係は出来なかったに違いない。

私の中にささやかなひとつの規範が出来た。
とにかく頭を下げてお願いしてみる。
それでダメだったら引く。
もし何か話したいこと、訴えたいことがあるようだったら
話してもらう。最初から引くことだけはやめようと。
ごくシンプルな、規範とも言えないような代物だ。
日航機事故の遺族との例は、
時間をかけて関係を築いたケースであり、
現場でマイクを向けるのとは異なると言う人も居るだろう。
しかし私は同じだと思う。

6人のパネリストがそれぞれの考え方を話したあと、
私も自分の思いを話した。
8人の児童が殺害された現場で、
自分だったら子供にマイクを向けるだろうか。
子供たちに恐怖の瞬間を思い起こさせていいものか。
迷ったかもしれない。
だが、私はおそらく向けただろう。
目撃者のほとんどが子供だったのだ。
相手が子供でも、シンプルな規範に従うと私は思う。
まず頭を下げて頼んでみる。相手が話せる状態で、
しかも話す意志があれば、
私は子供でも話を聞いたと思う。
ただメディアに頼まれた圧迫感で
断れないといった状況である可能性も、
子供の場合は考えなければならないのは当然だろう。

問題提起をした会場の女性にもう一度発言してもらった。
彼女は言った。そうはいっても
子供たちは大勢の記者に周りを囲まれ、
記者たちは子供たちの思いに配慮している風ではなかった。
少なくとも映像はそう語っていたと。
私自身は、東京のスタジオで
3時間の特別番組を進行しながら、
むしろカメラの前で語る子供たちの「気丈さ」を
強く感じていた。
これはあくまで私の感じ方であるし、
しかも私はメディアの中にいる人間だ。

もろん視聴者の中でも感じ方は様々だろう。
だが会場からの彼女の指摘には重要な問題が含まれている。 
もう一度、日航ジャンボ機の例に戻りたい。
事故の直後、遺族たちは
いったん羽田空港にある日本航空の
オペレーションセンターに集まった。
バスを降りてくる遺族を
撮影していたテレビのカメラマンが、
遺族に殴られた光景を今でもはっきりと覚えている。
悲しみと混乱のなかでの出来事だったが、
何よりもライトをこうこうと当てたことが
無神経だと怒りをかったようだった。

カメラマンは夜の撮影にはライトが必要だからと
単なる習慣としてライトをつけたのかもしれない。
他の遺族であれば殴られるほどの事態には
ならなかったかもしれない。あるいはもし、
ライトはつけるが遺族にあてずに、
他の方向を向けたり、壁などに反射させて
柔らかいぼんやりとした光にしていたらどうだろう。
ちょっとしたことだが
だいぶ状況は異なっていたかもしれない。
もし建物やバスからの灯りがもれていれば
ライトをつけないという選択肢もあったように思う。
相手の気持ちに立つ想像力を現場で持てるかどうか。
大阪の事件でも同じことが言えるだろう。

問題提起をした会場の女性は、
パネリストや私の考えをじっと聞いていた。
セミナーでは他の参加者からの質問も
取り上げなければならないため、
やむなく別のテーマに移った。
女性は釈然としない思いを抱いたまま
席に座ったように見えた。

セミナーが終わっても
私は彼女の指摘が頭から離れないでいた。
「子供たちは大勢の記者に周りを囲まれ、
記者たちは子供たちの思いに配慮している風ではなかった」
実際の現場がどうだったのかわからない。
ただもし誰かが子供に聞いていれば
どっとカメラと記者が集まってくるのが現場だ。
ニュースもワイドショーも様々な活字媒体も入り乱れ、
ヒステリックなまでに混乱しがちな現場で、
ひとりひとりが自分の判断で行ったり
踏みとどまる人間でいられるかどうか。

競争と集団心理の中で起こりうるメディアの暴力に対して、
残念ながら我々はまだ答えを出せてはいない。







『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-06-27-WED

TANUKI
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