『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
ほぼにちは。
お元気ですか。
きょうは『飲んだくれ』たちの物語です。


ドリンキング・ライフ

人はなぜ酒を飲むのか。
エリック・クラプトンは一日に
ボトル2本を飲んでいたと告白している。
コップ2杯ではない。ボトル2本だ。
しかもバーボンやジンといった強い酒をだ。
おかげで常に酩酊状態。天才的なギターの腕を
ステージで披露するときでさえひどく酔っ払っていた。
そう、ほとんどアル中だったのだ。

何度も酒を絶とうとしたがダメだった。
しかし、ある日釣りに行くがまるで釣れない。
酔っ払ってだらしない自分に嫌気がさした。
このままでは自分がダメになる。
そう思って突然、酒をやめた。
体は禁断症状を示した。
しらふでセックスをするのも初めて。
戸惑って役に立たなかったと彼は振り返る。

ドリンキング・ライフから生還した彼は、
音楽活動に集中し名曲を次々と生み出すかたわら、
私財を投じてアルコール中毒患者のための
施設をつくった。酒は2度と口にしなかった。
いつもしらふでいることが何より楽しいと彼は言う。 

コラムニストで小説家のピート・ハミルも、
やはり大酒飲みだった。
その時代は誰もが飲んでいたと彼は弁明する。
新聞記者だった彼は、日勤の時は仕事が終えて夜から飲み、
夜勤の時は徹夜あけの昼から飲んだ。
酒が抜けず酔っ払ったまま仕事に行くことも
しょっちゅうだった。ベトナムに取材に行けば、
戦争が本質的に持つエロチックな渇きを癒すために
酒をあおった。陽気で男気のあるハミルは人気者だった。
酒がそれを後押しした。
ハミルはお高く止まっている男ではない。
気さくで馬鹿話もできる酔っ払いとして
大勢の仲間たちに囲まれた。
50年代から60年代というアメリカにとって
ダイナミック時代を、ハミルは酒と過ごした。

なぜハミルはそれほどまでに酒を飲んだのか。
後に彼は振り返る。
新しい世界で多くの人と知り合い、
自分が主役でない関係に慣れようとすることから
生じる緊張を多少なりとも和らげるためだった。
さらに友人に対する気まずさを埋め、
友人との距離を縮めるためだったと。

年から年中酒を飲むうち、ハミルはだんだん
自分が自分から遊離しているような感覚を覚え始めた。
それは彼にとって奇妙な体験だった。
まぎれもなく自分はそこにいる。
と同時にそこにいる自分を眺めてもいるのだ。
普段の自分は本当の自分なのか、
役割を演じているだけなのか、わからなくなった。
ぼんやりとした感覚が彼を覆った。  

37歳の大晦日の日。
バーでドンちゃん騒ぎをしていたハミルをその感覚が襲った。
彼はグラスを覗き込んで、
氷とウオッカのしみたライムを見つめた。
そしてグラスの酒を飲みほした。
それが彼の飲んだ最後の酒だった。

少年時代からほとんど一生続けてきた習慣を変えるのは
簡単ではなかった。
ハミルは
「これからは本当に生きるのだ。演技しないぞ」
と何度も口に出して唱えた。
完全に覚醒した状態で生きるのだと自分を励ました。
一週間、また一週間と酒を抜いた時間が過ぎていった。
彼は小説を書くことにのめりこんでいった。
気がつくと酒は必要なくなっていた。彼は言う。
以前は酒に費やした時間、二日酔いから回復するのに
費やした時間を自由に使えるようになった。
実に豊富な時間を持てるようになったと。
ハミルもまたドリンキング・ライフから生還したのだ。

ここまで読んで、飲んだくれの読者の中には
2人のドリンキング・ライフを他人事とは思えない
という人もいるだろう。
だがあまり飲まない、
あるいはいっさい飲まないスマートな読者は
こう思うかもしれない。
どうして浴びるほど飲まずに、
ほどほどに飲むことができないの?

それには答えようがない。
それができるなら、クラプトンもハミルも
何の苦労もいらなかったはずだ。
世の中にはそういう人種がいるのだ。

酒と戦って勝った人間は歴史上ひとりもいない。
ひとつのエピソードを思い出す。
あれはもう7年ほど前のことだ。
私は当時『報道特集』という番組の
ディレクターをしていた。
2月の寒い日だったと思う。
番組の後のスタッフルームでの出来事だった。
その日私は、半年前から取材し膨大な時間を
注ぎ込んだ企画を放送し高揚感に包まれていた。

それを知ってか、
当時キャスターをつとめていた料治直矢が
私の傍に座って、
まあどうだと言って酒を注いでくれた。
紙コップにストレートのウィスキーだった。
お礼を言って口をつけた。
というより舐めたと言うほうが正確だろう。
酒飲みの私もストレートは強くてとても飲めなかった。

料治は取材の苦労話を聞いてくれたうえに、
ときおり自らの体験談も語ってくれた。
30分も話しただろうか。
気がつくとウイスキーはなくなっていた。
私についでくれた時には
ボトルはまだ開けたばかりだった。
わずか半時間の間に
料治はウィスキーを一本飲んでしまったのだ。
まるで麦茶を飲んでいるようだった。
このままでは体を壊すと誰もが思った。
それからほどなく料治は病に倒れ亡くなった。

飲みっぷりがそのまま人生を示していた。
正義感に溢れ、きわどい取材では
カメラの前で見事に殴られた。
鬼瓦のような顔つきが時おりシャイな笑顔に変わった。
バレンタインデーには
TBSで一番たくさんチョコレートが届いた。
選ばれし人しか持ちえない『色気』と『本気』が
料治にはあった。余計なことは話さず、
決して知ったかぶりをしなかった。
それどころか、
僕は取材もしなければ新聞も読まないとうそぶいた。
あさましさや卑しさを嫌い、
自分の美学を貫こうとしていた。
気の利いたことを言おうなどと思わなくとも、
「これはおかしい」と料治が言えば
本当におかしいんだと皆が納得した。
そんなキャスターだった。

アマゾンの奥地に取材に行った時のことだ。
小船同士がぶつかり、料治の小指が間に挟まった。
見ると小指が半分とれかけてぶらぶらしている。
急いで病院に行くと、
医師からふたつの方法がありますと言われた。
手術をしてつなぐか、切断するかですと。
料治は顔色ひとつ変えることなく、
「切ってください」とすぐさま言ったという。
いまでもTBS報道局で伝説となっている話だ。
なにしろ小指だ。
その後テレビでそのことに気付いた視聴者が、
「まさかこの人・・」と思ったのは想像に難くない。

ときに思う。
料治が生きていたらどんな仕事をしていただろうか。
今の日本を彼はどう見て、どんなふうに伝えただろうかと。
酒が病に直接結びついたのかはわからない。
ただあれほど飲まなければ、という思いは拭えない。
「歳をとってからは、疲れるために
 酒を飲んでいたようなもんだよ」と
料治が笑いながら言ったのをなつかしく思い出す。
なぜあれほどの酒を体に流し込んだのだろう。
いまとなってはわからない。
でも、と私は思う。いいではないか。
60年以上生きて充分な仕事をした。
そしてこれほど多くの人の記憶に残っているのだ。

大先輩の酒豪たちに比べると、
私のドリンキング・ライフなどささやかなものだ。
デビューは中学1年生。
父親がなぜか私をスナックに連れて行った。
私はジュースを飲んでいたのだが、
一杯だけ飲んでみればと
勧められるままにコップに口をつけた。
おいしくはなかったが、
ママさんが「いい飲みっぷりね」「将来は大物ね」などと
おだてるものだから、
飲めることがいいことと早合点したのだろう。
お代わりを繰り返しビールを大瓶で2本も飲んだのだ。
調子に乗った私も私だが、面白がっていた父も父だ。
結局吐いて翌日の夕方まで起き上がれなかった。

高校時代には運動会や文化祭にかこつけて飲み
(自由な校風で教師も見てみぬふりをしてくれた)、
大学時代はコンパや飲み会でそれなりに飲み、
社会人になった。
ピート・ハミルが使った弁明を私も使おうと思う。
当時は誰もが飲んでいたのだ。

見習期間が終わり晴れて社会部記者になった初日には、
もう赤坂の焼き鳥屋に連れて行かれたことを覚えている。
皆ひどく酔っ払った席で「おまえは記者に向いてない」と
中堅の先輩に罵倒された。ちょっと待ってくれよ。
いくらなんでも記者になった初日だ。
向いてないはないだろう。
半分は覚めた頭でその人を睨み付けた。
次の日彼はすべてを忘れていた。

泊まり勤務をしていると、
酔っ払いがあがってくるのが常だった。
夜中に大先輩が千鳥足で報道の大部屋に戻って来ては
くだを巻くのだ。
からまれないよう若手はさかんに逃げ回った。

20代のころはいくらでも飲めそうな気がした。
徹夜で飲んで、そのまま仕事に行っても
なんとか使い物になった。
それからまた遅くまで仕事をした。
帰ったかと思うとまたポケットベルで
呼び戻されるのもしょっちゅうだった。
ひどく不規則な生活に慣らされていた。

誰かと飲んでいても
決して自分から帰ろうとは言わなかった。
相手が酒豪だと大変だった。
どちらも帰ろうと言わないのだ。
根競べの様相を呈して朝まで飲みつづけることになった。
それに対して相手があまり飲まない人だと、どうなるのか。
相手が帰ろうと言いそうになると、
すかさずもう一杯をオーダーする。
なんともいじましいやり方だが、
そんなことを繰り返した。酒飲みの常だが、
要はだらだら飲むのが好きだったのだ。
何をするでもない。とりとめもない話をしたり、
笑ったり、議論をふっかけたりふっかけられたり。
ほどよい酒でストレスから解放されることも多かったが、
飲みすぎてそれがストレスになったことも少なくなかった。

30代も仕事と酒の日々だった。
カメラマンや編集マンと番組を作ることが
楽しくてしょうがなかった。
一仕事を終えては飲みに行き、また仕事をした。
いろいろなことがあった。
婚約寸前までいった女性との別れは一時的に酒量を増やした。

人はなぜ酒を飲むのか。
酒は内気なものに自信を、孤独な者に癒しを、
迷えるものに方向を与える。
夢をもてあましてグラスの氷を見つめるうち、
何か重要な啓示を受けた気になることもある。
だがほとんどの場合、錯覚だ。
翌日起きても何も変わっていない。
すべては繰り返しだった。

酒を飲んで過ごしたあの膨大な時間を
他のことに振り分けていたら、
僕ももう少しましな人間になったのではないか。
取り返しのつかないほど無為な時間を
過ごしてしまったのではないか。
ふとそう考えることがある。
その一方でこうも思う。
酒を通じて多くの友人と出会ったし、
女性とも仲良くなれたし、
飲みながらの議論で大いに鍛えられた(と思う)。
なによりかけがえのない楽しい時を
たくさん送ることができたではないか。

だが40歳になって、
残された時間はどれ程あるだろうと考えるようになった。
体力のあるうちに手をつけておきたい仕事もある。
今はさすがに20代のころのようには飲んではいないが、
我がドリンキング・ライフも
軌道修正すべきときが来ているように思う。

作家の浅田次郎は言う。
「書くことに一番不要なものは何か。酒でしょう。
 飲んだら最後読み書きはできない。
 女よりも博打よりもたちが悪いよ。
 だから僕は大酒飲の家系だけど一滴も飲まない」
ゲーテは数え切れないほどの恋をした。
72歳の時、17歳の少女に恋をして結婚を考えたほどだ。
そして「もっと光を」という有名な言葉を残して
82歳で死ぬまで、ワインをこよなく愛した。
ボトル一本どころかかなりの量を飲んだという。
驚くべきことだ。芸術と恋だけではなく、
死ぬまでドリンキング・ライフを楽しんだのだ。
ふたりはまったく違う選択をしている。
ただ共通するのはドリンキング・ライフを
自分でコントロールしていることかもしれない。

今私はこのコラムをどうやって終えようかと考えている。
決意表明でもするのがふさわしいのかもしれない。
でも、正直に白状しよう。
さっきから思っているのは冷たいビールのことだ。
書き上げたあとの一杯で、
すでに頭の中は一杯になっているのだ。

やれやれ。
飲んでから考えるか・・・。






『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-07-24-TUE

TANUKI
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