<ほぼ日読者の皆様へ>
ほぼにちは。
9月28日で
ニュースの森のキャスターを終えました。
4年間はあっという間でした。
たくさんのメールありがとうございます。
温かいお言葉とても励まされました。
この場を借りてお礼を申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。
さあきょうのコラムです。
カッティヴェリア
この一年ほどなぜかずっと気になっている言葉がある。
『カッティヴェリア』だ。
初めてこの言葉を知ったのは、
去年9月に出た雑誌『ナンバー』の別冊、
ヨーロッパサッカー特集号だった。
フランスの司令塔ジダンと
イタリアの司令塔デル・ピエーロが
並んで座る表紙の写真がただでも目を引くのに、
『塩野七生、サッカーを語る』という記事のタイトルは
さらに僕を惹きつけた。
ローマの物語を書きつづけている塩野七生とサッカーは
一見何の関係もないように見えるが、どうしてどうして、
その記事はここ数年で読んだサッカー記事の中で
最も深く刺激的なもののひとつに仕上がっていた。
塩野七生に男を評価させたら
右に出る人はいない(と僕は思う)。
覚悟の決まった知的な女性ほど、
厳しく的確に男性評をする人種はいないだろう。
そうした女性たちの前に出たら
どんなに取り繕っても簡単に見透かされてしまう。
塩野七生はいま最も魅力的な日本人女性のひとりに
違いないが、同時にまな板の上に乗せられたら
もっとも怖い女性でもあるのだ。
さて記事に戻ろう。
その記事は『ナンバー』の編集長が、
ヨーロッパサッカーをめぐる15の質問を塩野に送り、
彼女がそれに答える形をとっている。
セリエAのあるイタリアに住み
古代ローマ人の物語をライフワークにしている塩野なら、
歴史に照らして深い洞察をするだろうという強い期待が、
編集長の質問には明らかに込められていた
(むろん塩野がサッカーに相当詳しいことを
承知した上での企画だったに違いないが)。
そして編集長の意図は明らかに成功していた。
塩野はサッカーについては
あくまで自分は素人だと断った上でこう述べる。
「イタリアに30年以上も住んでいて、
サッカーを知らないではすまないのですよ」
時に歴史にたとえながら彼女は編集長の質問に
きっぱりとした調子で次々と答えていく。
15問目。最後の質問だった。
「塩野さんが好きな選手とその理由を教えてください」
塩野は3人の選手をあげる。
まずACミランのボバン。
理由は「プレイのエレガントさ。息をのむばかり」
次にラツィオの9番だったマンチーニ。
理由は「抜群の知力」
そしてバティストゥータ。
理由は「セクシー」の一語につきる。
このように彼女は選んだそれぞれの理由をあげたあと、
3人に共通するものを指摘する。
それが『カッティヴェリア』(Cattiveria)だったのだ。
イタリア語の辞書をひいてみた。
1)意地悪、たちの悪さ、悪意
2)悪事、悪行 とある。
塩野が好きな選手に共通するのは、
こうした悪意を持った選手ということになる。
ところがこのカッティヴェリア、日本語の悪意とは
ちょっとニュアンスが異なるようだ。
塩野は語る。
「カッティヴェリアは単なる悪意ではない。
言い換えれば究極の自己中心主義で、
自分のためにプレイしているのだけれど
結果はチームのためになるというやり方。
チームの利益になるか否かには関係なく
自分のためのみを考えるという利己主義とは
まったく違うのです」
チームプレイとは何か。
往々にして
「自分を殺してでも
組織やチームのことを考えて行動すること」
と理解される。
日本ではスポーツだけでなく会社組織も
そうした傾向があるかもしれない。
サラリーマンなら
「組織のためだ。我慢してくれ」
という台詞を一度は聞いたことがあるだろう。
たいていの場合、組織を守るためでなく
幹部たちのポストを守るためなのだが、
日本ではこれがけっこう殺し文句となるのだ。
塩野の分析を読みながら
僕は日本代表選手の言葉を思い出していた。
フランスで開かれたサッカーのワールドカップの後、
スタジオにバックスの井原正巳を
ゲストとして呼んだときのことだ。
敗北の要因について話を聞くなかで、
なぜ日本は得点の決定力がないのかという話になった。
井原は言った。
「日本のフォワードは守備もしてるんです。
全員サッカーですから。
走って守備もして戻って得点を狙う。
もうくたくたになるんですよ」
「バティストゥータはどうですか」
日本とアルゼンチンの試合を思い出しながら僕は訊ねた。
「試合してわかったんですが、
バティストゥータなんてほとんど動かないんですよ。
だけど・・ボールが来たら決めるんだなあ」
守備もするけど得点しないフォワードより、
動かないけれど少ないチャンスには
きちんと決めるフォワードこそ
今の日本には必要なのではないか。
井原の話を聞きながら僕はそう思った。
むろん監督の戦術もあるだろう。
だがそうした自分の役割をきっちり果たす選手が
何人いるかでチームの力が強くなるように思えた。
塩野の言うとおり
バティストゥータこそカッティヴェリアそのものなのだろう。
この言葉に惹かれたのは、自分自身が組織で働く中で、
自分の思いの実現と組織の一員としての務めとの
バランスに迷っていたためだった。
カッティヴェリアという言葉は
僕を大いに勇気づけることになった。
塩野は続ける。
「一流には、これはどの仕事でも同じことですが、
悪意を欠いてはなれないのです。
中田選手が所属していたペルージャの監督
マッツォーネの言葉が思い出されます。
『すべてを持っているナカタだが、
カッティヴェリアだけはまだ会得していない』」
そして塩野はこう締めくくった。
「積極的な意味の『悪意』が人間を神に変えうるのだと、
ヨーロッパ的なヨーロッパ人は思っているのです」
『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円
「言い残したことがあるような気がして
口を開こうとした瞬間、
エレベーターがゆっくりと閉まった」
「勝ち続けている時は、自分の隣を
神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」
余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)
|