『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

カッティヴェリアに会いに行く(1)

以前このコラムで
『カッティヴェリア』という言葉について記した。
塩野七生がサッカーを語った際に紹介した言葉で、
彼女が一流と認める選手には共通して
このカッティヴェリア(Cattiveria)が
備わっているという。
イタリア語の『悪意』という意味なのだが、
日本語の悪意とはだいぶニュアンスが異なる。

カッティヴェリアとは、いわば『究極の自己中心主義』。
「自分のためにプレイしているのだけれど
 結果はチームのためになる」というやり方で、
チームの利益になるか否かには関係なく
自分のためのみを考える利己主義とは全く違うという。
塩野は言う。
「一流には、これはどの仕事でも同じことですが、
 悪意を欠いてはなれないのです。
 中田選手が所属していたペルージャの
 監督マッツォーネの言葉が思い出されます。
 『すべてを持っているナカタだが、
 カッティヴェリアだけはまだ会得していない』」
さらに話は広がる。
「積極的な意味の『悪意』が人間を神に変えうるのだと、
ヨーロッパ的なヨーロッパ人は思っているのです」

僕はこのカッティヴェリアという言葉に強く惹かれた。
ヨーロッパの思想の奥行きというだけではない。
「組織のために自分を殺すことが得意」
とされてきた日本人に最も備わりにくい要素であり、
だからこそ新しい日本人のヒントになる「日本人論」に
なりうるように思えたのだ。

サッカーで言えば、
指摘され続けている日本代表の得点力不足とも
あながち無関係ではないだろう。
日本人でカッティヴェリアを持つ選手が
居るとしたら誰だろう。
サッカー元日本代表選手ふたりと話をしている時に
たまたまこうした問いをぶつけてみた。
「居るとしたらあの人しか居ない」
ふたりが挙げた名前は同じだった。
かくして僕は、のこのこ会いに行くことにした。
日本のカッティヴェリアに。

約束は大阪で午後1時だった。
土曜の朝の新幹線のぞみは比較的すいていた。
集めた資料を読みながら
日本のカッティヴェリアに訊ねることに思いを馳せる。

インタビューとは不思議なものだ。
事前の準備は出来る限りしたほうがいい。
資料を読んだり、過去のビデオを見たり。
何を訊きたいのかという幹の部分が定まることが
最も大事だが、
具体的な質問内容を想定する作業もするに
越したことはない。

さあ準備万端だ(と思ったことは実際にはほとんどないが)
という段階で相手と向かい合う。
そして大事なのは、
その瞬間に準備したすべてを忘れ去ること。
集中してその場に身を委ねるのだ。
僕はいつもそうしようと思ってきた。
思いもよらぬ言葉を引き出せるのは
そうした時が多かったからだ。

訊きたいことをノートにラフに書き並べてみる。
だがどうもピント来ない。どう訊けばいいんだろう。
相手のサッカースタイルから
組織と個人の関係について紐解いていき、
結果的に日本人というものが
透けて見えればいいなあと漠然と思うのだが、
どう入ってどう展開すれば
そこにたどり着けるのか見当もつかない。
僕はイタリアセリエAの試合を見ては寝不足になり、
スペインリーグのレアル・マドリッドの
試合を見ては熱狂してジダンに惚れ惚れする程度の
素人サッカーファンでしかないし、
しかも約束のインタビュー時間はわずか1時間だ。

さてどうしたものか。
呆然と車窓を眺めているうちに
不覚にも寝込んでしまった。
その週に関西に行くのは2度目だった。
2日前に阪神大震災から7年の中継で
日帰りで神戸に行ったばかりということもあって、
知らずに疲れがたまっていたのだろう。

「お客さん、お客さん」
車掌さんに肩を揺すられて起こされる。
「終点ですよ。降りてください」
はっと目が覚めて飛び起きた。他に乗客はひとりも居ない。
ああ、博多まで来てしまった!
普段ならうとうとしても、列車内に音楽が流れ
「この列車はまもなく大阪です」というアナウンスで
目が覚めるはずだ。
それに降りる人たちの気配にも気づかないほど
ぐっすりと寝てしまっていたのか。
終電で眠り込み終点まで行ってしまった
酔っぱらいになった気分だった。

そう思ったときに、窓からホームに掛かった文字が見えた。
『新大阪』。
僕は力が抜けて座り込んだ。
冷静に考えるとこの新幹線は新大阪止まりだった。
やれやれ。
僕は資料をカバンに入れコートを羽織りホームに出た。
まぬけな最後の客の退場を待ってくれていた
掃除のおばさんたちが、急ぎ足で車内に入っていった。

                   <続く>






『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2002-01-29-TUE

TANUKI
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