カッティヴェリアに会いに行く(3)
「自分勝手ヴェリアということだろう?」
インタビューを申し込んだ理由を改めて説明していた僕に、
日本のカッティヴェリアはおどけた調子で言った。
2階にあるカフェの窓際の席に座り、
彼はコーヒーを僕はカフェオレを注文した。
釜本邦茂。改めて説明する必要もないだろう。
大学在学中から日本代表フォワードとして活躍、
日本リーグの得点が202点、
国際Aマッチの得点69点はむろん歴代一位。
メキシコオリンピックでは得点王に輝き、
日本銅メダルの立て役者になった。
日本サッカー史上最高のストライカーと
多くの人が口を揃える。
その釜本を前に、僕は出だしから
自分の方がたくさんしゃべっていることに気づいた。
そうしたときはろくなことはない。
頭が整理されていない証拠だからだ。
インタビューは
最小限の言葉で最大の言葉を引き出すのが理想だが、
最初から逆の様相を呈していた。
何が訊きたいんだと言わんばかりに
釜本がこちらを見据える。
漂い出る言葉を呑み込んで
日本の得点力不足から始めてみることにした。
「日本にいいフォワードが生まれにくいとすると、
それはなぜでしょう」
僕の長い前口上をじっと聞いていただけに、
今度は釜本が一気に話し始めた。
「指導の仕方でしょうね。
サッカーをする環境はずっとよくなっています。
子供の頃から始めて
小・中・高・プロの世界と整っている。
その中で選手たちが
『考える』ということがなくなっているんです。
チームプレーをと言いながら、
自分に何ができるのか考えていないんですね」
釜本は続けた。
「一人のために周りが何をするかが、ない。
皆で一緒にではなくて、
ひとりのために周りは何をするかを
考えなくてはいけないのに、それがないんです」
「つまり」と僕は訊ねた。
「得点を入れる人のためにということですか」
「そうです」釜本は当然と言わんばかりに答えた。
「チームのためになるのがいいプレーです。
でも同時にみな自分のためにやってる。
その中でどう自己満足を得られるか。
点を入れるにも周りの協力がなければできない。
それをどこまで繰り返せるかなんですよ」
「どういうことですか」
「誰に点を入れさせるかということです。
それをいかにチームの中で
確立して徹底させるかが大事なんです。
それでこそ選手の個性が生かせるんです。」
釜本はコーヒーをひとくち飲んだ。
「花道を歩いていく人は、ずっと花道を行くんですよ。
役者もそうでしょう。主役がいて脇役がいる。
水戸黄門のドラマでも黄門さまが居て、
助さん格さんがいる。
花道を行く人はずっと花道を行くし、脇役はずっと脇役。
何でもそうでしょう」
彼は同意を求めるように僕の顔を見た。
「自分は花道を歩く人間だと思ったのはいつですか」
「東京オリンピックの後かな」あっさりと釜本は答えた。
自分が花道を歩く人間だと思っていることを
隠そうともしなかった。
「入れる人が入れてこそ試合は盛り上がる。
だって脇役が目立つと主役はおもしろくないじゃない。
後ろにいる人があがってきて
点を入れても前の人は面白くない。
主役が活躍すれば、脇役の人もうれしいんですよ」
釜本は憮然とした表情で言い放って続けた。
「ただね、主役たる人間は
主役たる存在を示さなければならないんです」
「存在を示す?」
「何よりも結果を残すこと。
主役である存在を示し続けなければ
誰も自分を引き立てくれませんからね」
「今はなかなか主役たる重荷を背負いたがらない?」
と僕は訊ねた。
「ペナルティーエリア内でパスしちゃう」
釜本は信じられないという口調で言った。
「典型が柳沢だった。彼がよく言うのに
『チームの一員として動く中で、
他の人が点を入れてくれればいい』。
そうじゃない。柳沢はうって外れてもいいんだ。
それがストライカーなんだ。
1回打って入るくらいだったら、
僕なんか10万点入れてるよ。」
釜本はかすかに声を荒げて言った。
「僕はゴール前に走り込むとき、
『ここに来るだろう』と思って走ったことはないね。
『ここに来る』と思って走る。
違う人のところにパスが行くと、
何で俺のところに出さないんだって怒鳴ってたよ」
そこまで言ってから釜本はつぶやくように付け加えた。
「まあ最近は柳沢も少し変わってきたけどね」
僕は井原の言葉をぶつけてみることにした。
フランスで開かれた4年前のワールドカップの後、
スタジオにバックスの井原正巳を
ゲストとして呼んだときのことだ。
敗北の要因について話を聞くなかで、なぜ日本は
得点の決定力が不足しているのかという話になった。
予選3試合で日本はかろうじて1点を入れただけだった。
井原は言った。
「日本のフォワードは守備もしてるんです。
全員サッカーですから。
走って守備もして戻って得点を狙う。
もうくたくたになるんですよ」
「バティストュータはどうですか」
日本とアルゼンチンの試合を思い出しながら井原に訊ねた。
「試合してわかったんですが、
バティストュータなんてほとんど動かないんですよ。
だけど、ボールが来たら決めるんだなあ」
塩野七生がカッティヴェリアそのものだという
バティストュータはアルゼンチン代表のストライカー。
中田の居たセリエAのチーム『ローマ』でプレイしている。
このエピソードを日本のカッティヴェリアはどうとらえるのか。
釜本はあきれたように言った。
「フォワードが下がって守備して、
前に戻ったとき疲れ果ててたら意味がない。
フォワードの守備は、存在感なんですよ」
「存在感?」
「そう存在感です」
釜本はテーブルを右手でトントンと叩きながら
強い口調で続けた。
「バティストュータが下がらずに残れば
相手選手もつかなくちゃいけないでしょう。
それがバティストュータが
守備をしているということなんです。
何もしないようにみえて、やってるんですよ。
バティストュータが怖ければ
一人じゃなくて二人彼につかなければいけない。
フォワードの存在感があればそうなるんです。
僕も守備をしないと言われたこともありました。
実際、守備はハーフラインまでで
それ以上は下がらなかった。
でも、それでいいんですよ」
目の前に座る釜本邦茂は大きく見えた。
179センチと僕より3センチ高いのだが、
もっと大柄な印象を与えた。
眼はぎょろっとして威圧感があった。
釜本の傍若無人とも取られがちな言動は
時に波紋も引き起こしてきた。
サッカー協会の副会長の職にある釜本が、
トルシエ監督を辞めさせると言ったと
報道されるなど一般には強面の印象も強いだろう。
話を聞いていても、
確かにふつうなら思っても口にしないようなことを
遠慮なく言葉にする。
たとえば
「花道を歩く人はずっと花道、脇役はずっと脇役」。
特に「脇役はずっと脇役」と断ずる物言いは
なかなかできるものではない。
「なぜ釜本さんは釜本さんになったんでしょう」
と僕は訊ねた。
それを言い出すと
子供の頃からのこと全部話さなくてはいけなくなるが、
と笑って釜本は振り返った。
「僕は兄弟5人だけど、兄はガキ大将だった。
ガキ大将は自分のテリトリーは
自分で守らなければならない。
20人居たら20人を守る強さを
持たなければならないんです。
兄たちのそうした姿をずっと見ていると
普段の生活のなかで訓練を積めるわけですよ。
そして次の兄もガキ大将。僕もガキ大将。
『あそこはずっと釜本だ』と言われていたんですよ。
今はガキ大将って居ないでしょう。
だからリーダーが出にくいんですよ」
釜本がサッカーを選んだのは偶然だった。
中学に入ったとき先生が言った。
「野球はアメリカと日本だけだ。
サッカーは世界中の人がやっている。
サッカーをやれば外国に行けるし、
オリンピックにも出られる」
この言葉がなければ野球を
やっていたかもしれないと釜本は言う。
初めから釜本はセンターフォワードだった。
高校時代のサッカー部の監督は
「おまえの仕事は点をとることだ」と明言し、
チームでの分担をはっきりさせた。
目標はオリンピックだった。
ほかのことは下手でも点は入れようと考え
シュート練習を繰り返した。
大学生2年生にして日本代表入り。
東京オリンピックに出場した。
「目標のオリンピックに出ていかがでしたか」
「わかったのは自分が世界では2流の下だということだね。
東京オリンピックで入れたのはわずか1点。
それも7、8位決定戦で人がシュート打って
はじいたボールを蹴って入れたんですよ」
釜本は情けないと言わんばかりの口調で続けた。
「中学、高校、大学2年までと
8年目でオリンピックという夢は実現した。
しかし2流の下だ。
世界で一流の選手になることが、
そのときから目標になったんです」
「自分が世界で一流の選手になった思った瞬間は」
と僕は訊ねた。
「4年後のメキシコオリンピックに行って、
1点を入れたとき、世界に通用すると思ったね。
初戦、左から来たセンタリングを入れたんですよ。
開始18分、19分で一点入れたんですよ。
東京オリンピックは全部で1点。
だからこの瞬間から自分はできると思った。
そしたらおかしなもので、
『日本が勝てるかは
釜本の得点にかかっていると言われていた』
プレッシャーがその一点でなくなった。
その後は蹴ればすべて入ると思いました」
日本は銅メダル。
釜本は6試合で7点入れて得点王に輝く。
釜本をめぐる状況は一変した。
世界が釜本に注目したのだ。
まことしやかな伝説がある。
大勢のファンに囲まれてサイン攻めにあっているとき、
ひとりから差し出された小さな紙に
釜本が気軽にサインをしようとしたら、
それがヨーロッパのプロサッカーチームの契約書だった、
というものだ。
「ほんとですか」
釜本は小さく笑って答えた。
「監督から言われただけですよ。
白い紙の上に小さな文字でサインすると、
後でタイプで打たれて契約書にされてしまうから
注意しろと。サインするなら大きく書くようにとね」
実際にヨーロッパのプロチームから誘いが来た。
ドイツとフランス、
さらにメキシコとウルグアイのチームからも
来ないかと誘われた。
「迷いました?」
「いや、全然迷わなかった。
ワールドカップが終わったら行こうと思ってました」
「どこにですか」
「ドイツです」釜本はきっぱりと言った。
ところが予想もしなかったことが起きる。
病が釜本を蝕んだのだ。
メキシコオリンピックの翌年の6月のことだった。
「合宿中にどうも力が入らないと思っていたら、
長沼さんが顔に黄疸が出ている、すぐに病院に行けと。
そしたら肝炎だったんですよ。
1週間から2週間は寝たきりの状態でした。
3ヶ月後にはワールドカップの予選が
始まる予定だったんですが、医者はあきらめろと。
ちゃんと療養すれば完治するけど、
無理したら選手生命に関わると言われてね」
ワールドカップ出場の夢は途絶えた。
オリンピックはしょせん素人という釜本だけに
世界の超一流選手が集まるワールドカップには
さぞ出場したかったに違いない。
だがそれだけではなかった。
ドイツ行きも断念を余儀なくされたのだ。
元の調子に戻るまでに3年かかったと釜本は振り返る。
「もしドイツに行っていたら
世界の超一流選手になれたと思いますか」
「それはわからん」と釜本は笑いながら答えたあと、
いたずらっぽい目をして言った。
「めずらしく謙虚でしょ?」
つられて僕も笑いながら続けた。
「じゃあレギュラーには?」
「それはなれたでしょう」今度は、失礼な、
というニュアンスをかすかに交えてすぐに答えた。
そして目を細めて呟いた。
「当時はベッケンバウアーが売り出し中でね」
もし病気にならず、ヨーロッパに行っていたら。
元日本代表の加藤久の言葉を思い出していた。
「釜本さんのシュートはとにかく凄かった。
手に当てたキーパーの指が裂けたくらいだからね。
ほかの選手と全く違う世界だった。
釜本さんだったら今のイタリア・セリエAの
どこのチームでもエースストライカーになれたと思うよ」
たとえばバティストュータのようにですか
という僕の質問に、
加藤は、そうだねバティストュータクラスだったろうね、
と答えた。
「もし行っていたら、と今でも思うことはありますか」
僕は釜本に訊ねた。
「思いません」すぐにそう言って、
わずかに考えてから続けた。
「日本に残ったから出来たこともあるし、
日本に居たから今のポジションもある。
人生どっちがよかったかなんてわかりませんよ」
28歳の時アメリカのプロチームから誘いが来た。
ペレが行ったチームからだ。だが彼は断った。
年齢がその大きな理由だった。
「コーヒーのお代わりはいかがですか」
ウェイトレスが釜本の顔をのぞき込んで言う。
「ください」彼はふと我に返ったように返事した。
3杯目のコーヒーに釜本はゆっくりと口をつけた。
(続く)
『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円
「言い残したことがあるような気がして
口を開こうとした瞬間、
エレベーターがゆっくりと閉まった」
「勝ち続けている時は、自分の隣を
神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」
余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)
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