『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>

ご無沙汰しております。
松原です。
2004年の4月に
ニューヨーク赴任となりました。
ずいぶん長い間、
この場に書いていませんでしたが、
もう一度気持ちを新たに
時折書かせてもらおうかと思っています。
以前と同じように
ネット上に載せるにしては少々長めです。
読みにくいかもしれませんが、
時間のあるときにもで
読んでいただければ幸いです。
コラムを休んでいるときにも
読者の方から多くのメールをいただきました。
そうしたメールに何度も励まされる思いでした。
ありがとうございました。

ニューヨークからの最初のコラムは、
こちらに来て最もショックだった出来事です。



44歳の死

それはあまりにも突然だった。
2004年、6月28日。
ニューヨークはまだ早朝だった。
枕もとの携帯電話を手探りでとった。
「驚かないで聞いて欲しい。
 野沢さんが自殺したらしい。
 いま夕方ニュースで速報が流れた」
「野沢さんって、まさかあの‥‥」
「作家の、野沢尚さん」
東京の友人からの知らせに、
私は言葉を失った。

最後に私が野沢さんに逢ったのは、
その半年ほど前の夜だった。
東京・赤坂にある中華料理店の個室に
10人ほどが集まった。
『砦なき者』の文庫本出版と、
『深紅』が文庫本としては
異例の売れ行きをみせていたお祝いだった。
野沢さんの担当編集者、部長、
さらには役員までがずらりと顔を揃えた。
それは、作家・野沢尚が出版社にとって
大きな存在になりつつあることを意味した。
私は野沢さんの依頼で
『砦なき者』の文庫本の解説を書いたことから、
晴れやかなその場に同席させてもらっていた。
2ヵ月後に私のニューヨーク赴任が
決まっていたため、
野沢さんは「松原さんの赴任祝いも兼ねて」と
皆に紹介してくれた。

その日の野沢さんは
ひどく高揚しているように見えた。
出版社の手厚いもてなしのせいだけではなかった。
NHKで21世紀スペシャル大河『坂の上の雲』
制作が決まり、脚本を書いている最中だったからだ。
司馬遼太郎さん、みどり夫人も
これまで許可しなかった『坂の上の雲』の映像化が、
初めて許されたこと、
何カ国もロケハンし
すでに執筆が順調に進んでいること、
会戦のシーンはコンピューター・グラフィクスを
駆使した大規模なものになりそうなことなどを、
野沢さんは雄弁に語った。
ビールから紹興酒と進むにつれ、
席はますます賑やかになった。
司馬さんのためにも恥ずかしくないいい作品にしたい、
野沢さんはほのかに赤い顔でそう繰り返した。
笑い声に満ちたその席は、
「死」から最も遠い場所にあった。

1998年、私は初めて野沢さんに会った。
彼が小説家として本格的な一歩を踏み出した
『破線のマリス』をめぐり、
TBSの『新・調査情報』という雑誌で対談した。
江戸川乱歩賞をとったその作品は、
テレビ界ではちょっとした話題となっていた。
まるで「テレビを信じるな」と
訴えているようなものだったからだ。
挑発的とも言えるこの作品を書いた作家は、
どんな人なのだろう。
私は好奇心をふくらませて対談場所で待った。
ところが実際に会った野沢さんは、
拍子抜けするほど穏やかで
シャイな雰囲気を漂わせていた。

対談に参加したのは野沢さん含めて4人。
主観報道と客観報道、映像表現の危うさなどについて
2時間ほど話し合った。
対談の冒頭、司会役だった私の問いに、
野沢さんは、大学時代自ら映像編集に携わった経験を
例に出してこう切り出した。
「映像というのは切り取られて編集される過程で、
 事実からどんどんずれていくから
 テレビはあなたたちを
 どんどん騙せる可能性があるという警告を
 与えたかったんですね」

野沢さんは辛抱強く人の話を聞き、
自分の意見を静かに語った。
だが時折みせる鋭い目つきは
相手の心の奥まで覗き込んでいるような光を湛えていた。
対談のなかで、いまでもはっきりと覚えている
野沢さんの言葉がある。
テレビを信じるな、という
本を書いたこの作家の口から出たのは、
報道はもっと客観的であれという
メッセージではなかった。
それどころか全く逆だったのだ。
「映像は切り取られた瞬間から
 どうせ事実と違うわけだから、
 だったら圧倒的な主観的事実で
 ニュースが作られていくことは、
 僕はかまわないと思う。
 むしろ魅力的なつくり手の主観を
 提示して欲しいですね」
野沢さんの内に秘める情熱を、
私が初めて感じた瞬間だった。

それをきっかけに
私は野沢さんの小説を読むようになった。
『恋人よ』『恋愛時代』『リミット』『呼人』
特に『深紅』は、
私の最も好きな小説のひとつになった。
冒頭、少女が家族4人の死に
直面するまでの心理描写はあまりに秀逸で、
その後、繰り返しページをめくった。
そして野沢さんが『反乱のボヤージュ』
出版した2001年、
本の宣伝を兼ねて再び対談する機会を持った。
テーマは『反乱のボヤージュ』の主題である
「父性」についてだった。
ちょうど私も本を出したばかりで、
父の死について書いていたからだ。
対談のあともいくつか言葉を交わした。
今後あたためているテーマについて、
また野沢さんの父親の話、
父親としての自分についても野沢さんは語った。
「家庭とは、人間修行の場です」
野沢さんはそう言っていたずらっぽく笑った。

鮮烈に覚えている野沢さんの姿がある。
2003年の夏、
野沢さんが10年ぶりに書きおろした芝居
『ふたたびの恋』の公演でのことだ。
物語の舞台は沖縄のリゾートホテルのバー。
かつては一世を風靡したが
今は下り坂の中年男性脚本家と、
脚本学校のかつての生徒で元愛人、
いまは売れっ子シナリオライターになった女性が
再会したことから、思わぬドラマが展開する。
3時間の長き時間を、
わずか3人の登場人物でまったく飽きさせず、
それどころか観客は笑い、せつない思いを抱き、
最後はほろりと泣かされる始末だ。

その中に、テレビで生きてきた野沢さんの思いが
垣間見える台詞があった。
役所広司演じる中年脚本家が、
独り言を言うところを人に見られてしまう場面だ。
「俺たちのお客さんは、
 視聴者っていう顔の見えない
 不特定多数な人間たちでしょう。
 どういう連中なのか、
 俺たちからすると謎の存在なわけだ。
 こんな具体的なイメージがある。
 有象無象の視聴者たちが、
 段々になった客席にずらっと座ってて、
 常にこちらを見てる。笑ってくれる。
 泣いてくれる。
 神妙に見入っているような気がするが、
 向こうは暗いから、顔は見えない。
 友達なのか敵なのかもわからない‥‥。
 だからね、つい日常的に、
 彼らに話しかけている気分で
 独り言をしちゃうんだ。変でしょ。職業病だね」
テレビで生きていた野沢さんが抱える
宿命的な「哀しみ」とでもいうべきものを、
主人公の中年脚本家が代弁しているように思えた。

大きな拍手のなかで芝居が終わり、
息をつきロビーに出たところで、
ひとりの男性の姿が目に入った。
出口近くでじっと観客の表情を見つめている。
野沢さんだった。
ほとんどの人が誰だか気付いていない。
観客たちは舞台の余韻を身にまとい、
思い思いの会話を交わしながら
出口に向かっていた。
「野沢さん」私は声をかけた。
「お久しぶりです。来ていただいていたんですか」
「はい‥‥、野沢さん、会場に来られているんですか」
その日は、初日でも楽日でもなかった。
「いえ、別にいる必要もないんですが、
 だいたい毎回来てるんですよ」
「え、毎回ですか」
「こうやってお客さんの顔を見る機会も、
 なかなかないものですから」
たった今、ほろりとさせられたドラマと
野沢さん自身が重なり、私は胸を突かれた。
友人を野沢さんに紹介して、
早々に彼の元を離れた。
じゃましてはいけない時間のような気がしたのだ。
エレベーターを待ちながら振り返る。
ざわめき流れる観客の最後のひとりまで
野沢さんは静かにみつめ続けていた。
野沢さんはそんな人だった。

私は、野沢さんが亡くなったあと、
彼の作品群をもう一度読んだ。
テーマの幅広さと、精力的な仕事ぶりに
改めて驚かされると同時に、
ある作家が口にしていたように、
確かに死の香りが漂っていることに気づかされる。
登場人物の多くは死にまとわりつかれている。

死について、しかも自殺について、
野沢さん自身が語っている文章があった。
フジテレビで放送したドラマ『眠れる森』(幻冬舎文庫)
の最後に掲載されている手記だ。
ドラマのテーマを番組のキャスト、スタッフに
伝えるために野沢さんが記した言葉だが、
いま読み返すと別の意味合いを帯びてくる。
「伊丹十三が自殺した。新井将敬が自殺した。
 中小企業の3人の社長は牛丼を最後の晩餐にして、
 揃って首を吊った。
 後ろ指さされた官僚たちは
 死をもって責任を取ろうとする。
  『失楽園』の2人は心中し、
 『HANA-BI』の2人も自殺する。
 みんなが死に魅せられている。
 これが世紀末の人間の姿なのか。
 こんな大人たちの有様を見て、
 子供は思うに違いない。
 『要するに死ねばいいんだ。追い詰められたら、
  死に逃げ込めばいいんだ』
 危険極まりない時代だ。
 だから言いたい。
 『どんなに悲惨な過去に苦しめられ、
  どんなに罪深い過ちを犯していようと、
  全てを引き受け、その人生を生きろと』」

野沢さんが残した膨大な脚本、小説に比して、
自らについて語った文章は驚くほど少ない。
だが去年1月に出した小説、『烈火の月』(小学館)では、
わざわざあとがきを書いている。
書き出しはこんな具合だ。
「あとがきというものに抵抗がある。
 本編で描ききれなかったことの言い訳をしたり、
 せっかくラストシーンまで築き上げた読者の
 イマジネーションの世界を、
 急に素に戻してしまう。
 だがお許し願いたい」
それでも書いたのには理由があった。
『烈火の月』が脚本家としての
自分の歩みをはっきりと映し出していること、
また何よりもある人物への強烈な思いを
伝えたかったからだ。

野沢さんは、27歳の駆け出しのころ
57歳の深作欣治監督と出会う。
「上昇志向だけでギラギラしていた」当時の野沢さんは、
この巨匠と何とか仕事をしたいと願う。
何度も何度も映画化のプロットを書き上げるも、
映画化までは至らない。
ようやく『その男、凶暴につき』の脚本を完成させたが、
監督をするはずだった深作氏は降板、
北野武監督に引き継がれる。
さらにプロデューサーから
あとは現場に任せて欲しいと言われ、
野沢さんは早い段階で
脚本を手放すことを余儀なくされる。
脚本は現場で即興ふうに直しが入り、
野沢作品の形をとどめないほどに変えられていく。
ところが出来上がった作品を見て、
野沢さんは思う。
「悔しいけどこれは傑作だ」

その後も、青春映画、ボクシング映画、
特攻隊員を主人公にした戦争映画など、
深作監督と企画を練る日々は続いた。
そしてついに『かくて神は笑いき』という
シナリオを完成させる。
だがそのとき、深作監督はもう一本の映画、
丸山昇一氏の『いつかギラギラする日』の準備も
進めていた。いわば「両天」状態にあったのだ。
結局、野沢脚本は選ばれなかった。
10億円という予算規模が中止の理由だった。
丸山脚本・深作監督の『いつかギラギラする日』
野沢さんは、「強烈な嫉妬心」で見たと吐露している。

「どんなに脚本で文章を磨いても、
 映像にならなければ紙くず同然だ」
野沢さんは脚本家という仕事に疑問を持ち始める。
そんな思いが、彼に小説への道を歩ませることになる。
つまり深作監督との仕事への渇望が、
小説家の扉をあけさせたとも言えるのだ。
そして15年が過ぎた。
野沢さんは深作監督との最初の仕事になるはずだった
『その男、凶暴につき』の原作脚本を
小説として書き直そうと思い至る。
それが『烈火の月』だったのだ。
小説にするにあたって、
野沢さんは深作監督に長い手紙を出している。
ちょうど深作監督が
『バトルロワイヤルII』の制作記者会見で、
癌に冒されていることを告白したころだった。
「私は監督のドラマツルギーの薫陶を受けた
 一人だと思っています。
 仕事としては完成に至りませんでしたが、
 『その男、凶暴につき』の原型である『灼熱』、
 そして『かくて神は笑いき』という二本の仕事で、
 監督から「正義とは」「反権力とは」というテーマを
 投げかけられ、
 私なりに苦労して脚本を書き上げたつもりです。
 (中略)
 事後報告になってしまいましたが、
 監督との仕事にもう一度光を当てたいという一心で、
 十年以上前の脚本と格闘しました」

野沢さんはこう記した上で、
小説が出版されることになった時には本を送ること、
さらに癌に冒されながら新作に取り組む
深作監督の映画の完成を願って
手紙を締めくくっている。
だが、病魔は待ってはくれなかった。

2004年1月12日、『烈火の月』が出版される。
前の年の秋には出版が可能だったが、
野沢さんはこの日にこだわった。
1月12日は深作監督の命日だったのだ。
それはまさに
野沢さんの深作監督への届かぬ思いでもあった。

野沢さんの死後、
テレビドラマ演出家、鶴橋康夫氏は、
TBSの『新・調査情報』のインタビューを受けて、
若き日の野沢尚との思い出を語っている。
鶴橋監督は、野沢さんのデビュー作から
あわせて17本を演出した
育ての親ともいうべき存在だった。
24歳の野沢さんが書いてきた準備稿の
ほとんどを捨てると「野沢はぽろぽろと涙を流し」、
待ち合わせの場所で監督を待つ野沢さんの姿は
「不安そうで不安そうで」と鶴橋氏は描写する。
鶴橋氏のもとで野沢さんは何度も何度も
プロット、脚本を書き続けた。

ある日、鶴橋監督は野沢さんを連れて、
台風の中を犬の散歩に行く。
それまで水を怖がっていたはずの犬が水溜りに入り、
鶴橋氏のほうを振り返る。
監督は自分も水溜りに入って愛犬を誉め、語りかけた。
ふと監督がふと振りかえると、
野沢さんが腕を組んだまま涙を流していた。
「こういうのって見るのいいな。
 監督もこういう幸せな瞬間があるんだからいいな。
 僕もこういう風にならなくちゃ」
野沢さんはこう言ったという。

若き日の感受性と、情熱。
野沢さんは40歳を過ぎ
円熟期の入り口に立っても、
それらを失うことはなかった。
野沢さんが亡くなるほぼ1年前に上演された、
芝居『ふたたびの恋』のDVDの副音声では、
野沢さんと、演出した宮田慶子さん、
音楽の岩代太郎さんと3人が、
芝居を観ながらエピソードや苦労話などを
語り合っている。
ある場面にさしかかったとき、野沢さんは言った。
「このあとの役所さんの台詞は、
 私の思いのたけですからね。
 みなさんちゃんと聞いてくださいよ、ほんとに。
 後輩の脚本家にもちゃんと聞いて欲しいね」
役所広司演じる中年脚本家・晃一が、
かつての教え子で愛人のやはり若手脚本家・新子に
語りかけるシーンだ。

晃一 いいか、祈りだ。
それがないドラマはすぐに忘れられていく。
俺たちは悲しいことに、
電波になって人々の間を
すり抜けていくようなものを作っているんだ。
このドラマがあなたにとって
素晴らしい時間でありますように。
未来への希望でありますように。
観た後、周りの人に優しくなれますように‥‥
そういうドラマを受け止めてくれ、
がっちりその手でつかんでくれと
強く祈らないでどうする。
新子 顔の見えない相手よ。シャドーボクシングよ。
万人に対して祈れって言われたって‥‥。
晃一 だったら身近な人間だ。
たったひとりのためでもいいから、
このドラマを見てほしいと、
このドラマで心を揺さぶられてほしいと祈れ。



この台詞について、野沢さんは
『ふたたびの恋〜シナリオ』(PARCO出版)の中で
こう書いている。
「この晃一の言葉は、脚本家・野沢尚の
 『心のたけ』である。
 役所さんの口を借りて言わせてもらった。
 後輩脚本家が聞いたら
 『また野沢さん説教こいている』と言われそうだが‥‥。
 僕をテレビの世界で育ててくれた
 鶴橋康夫監督に『じゃあ、お前は本当に祈り
 を込めて書いているんだな?』と問われた。
 『書いています』と答えた」
 
野沢さんが自らの姿を投影したのは、
晃一だけではない。
最後のテレビドラマとなった
鶴橋監督の『砦なき者』では、
主人公であるニュースキャスター長坂文雄に
思いの一端を語らせている。
ラストシーン間近、
相手の罠に自らはまって死ぬことを覚悟した長坂は、
VTRで遺書を残す。その中で長坂は、
番組のスタッフ、家族に別れを告げたあと、
視聴者に訴えかける。
「私は最後の最後まで、
 あなたたち視聴者の正体をつかみそこねた。
 あなたたちは謎の存在だった。
 暗闇の中で標的を探して、いくら引き金を引いても
 命中したようには思えなかった。
 それが私にとって、テレビ30年の真実でした。
 もう多くは望まない。
 1時間も2時間も見つめていてくれとは言わない。
 これからのたった5分でいい。
 私を見届けてもらえないだろうか。
 考えてもらえないだろうか‥‥」
そして長坂は最期の一言を発する。
「グッド・バイ」

長坂が首吊り自殺に見せかけて殺害される場面は
カメラに収められ、その結果、
長坂が追い詰めた青年は逮捕された。
しかしその青年も連行される際にナイフで刺される。
崩れ落ちて死に向かう青年に
野沢さんはぽつりとこう言わせている。
「怖いなあ。ひとりでは行けそうにないなあ‥‥」
この放送の3ヶ月後、野沢さんは仕事場で首を吊った。
「夢はいっぱいあるけど、失礼します」
という遺書を残して。

なぜ野沢さんは死を選んだのか。
野沢さんをあれほど高揚させた
『坂の上の雲』の執筆の最中、
彼の心のなかに何が起きたのか。
私はそれまで自殺の報に接するたび、
なにも死ななくてもという思いを
拭い去れなかった。
だが野沢さんの死に接し、
こんなふうに考えるようになった。
「人は死ぬよりほかないときも、
 あるのかもしれない」と。
喪失は、いいようもなく深い。

松原耕二さんへ激励や感想などは、
メールの表題に「松原耕二さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2005-02-08-TUE

TANUKI
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