『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>

おひさしぶりです。
今回のコラムは、
キューバのカストロ議長です。


カストロの瞬間

あの瞬間の出来事を、
忘れることはないだろう。
キューバでのことだ。
私は朝からカストロ議長の
ぶらさがり(短いインタビュー)を
試みるため、
ハバナ市内の投票所に足を運んだ。
日本で言えば市議会議員選挙が
全国で一斉に行われる日で、
キューバの最高指導者である
カストロ議長も
投票に訪れると聞いていたからだ。

朝10時に指定された場所を
スタッフと共に訪ねた。
住宅街に設けられた投票所だった。
日曜の朝、街はまだ半分眠っていたが、
その周辺だけは
ものものしい雰囲気に包まれていた。
軍の兵士が道に沿って警備にあたり、
あちこちにキューバ国旗が掲げられていた。
集まったメディアの数はおよそ30人。
ハバナに駐在するCNNの記者を始め、
アメリカ3大ネットワークの駐在カメラマン、
中南米の新聞、通信社の記者たちだった。

メディアの人間はいったん建物の中に入り、
カメラなど全ての機材を置いて
外に出るようにと
キューバの担当官が指示する。
取材に出たらカメラマンは
カメラを手元から離さないのが
この業界の鉄則だが、
この時ばかりは従う他はない。
この国でカストロが現れるのは特別なことなのだ。
それからおよそ20分、
機材のセキュリティーチェックが終わると、
記者たちは今度は
機材を取りに来るよう指示される。
勝手知ったる駐在カメラマンたちは、
機材をピックアップすると
すばやく現場に向かった。
ところが勝手知らない我々は
出足が一歩も二歩も遅れ、
撮影現場に着いたときには
いいポジションを占拠されていた。

投票所の前にはロープが張られ、
建物に近い順にカメラマンが並び
かなり離れた場所しか残っていなかった。
やれやれ、しかし必ずしも
建物の近くが有利とは限らない。
カメラマンたちが
列をなしている真ん中あたりに、
スタンドマイクが立てられている。
カストロは投票を終えたあと、
そこでスピーチをするのかもしれなかった。
そしてスピーチのあと帰るとしたら、
建物に遠い我々の方が
ぶらさがれる確率は高くなり、
必ずしも不利な場所とは
言えないのではないか。
そう自分に言い聞かせて、
カストロの登場を待つことにした。

キューバテレビが生中継を準備していた。
カストロ登場から、投票、
何らかのコメントを発する場に至るまで、
生でお茶の間に届けるのだろう。
と言うより、カストロが現れる場は
全てに優先される。
海外の要人との会合から、
議会や式典の演説まで
キューバで唯一のテレビ局である
国営キューバテレビは
カストロの一挙手一頭足を映し出す。
テレビの前にいる国民に他の選択肢はない。
付近の住宅の窓という窓には国旗が翻り、
カストロを一目見ようと
住人が顔を出している。
沿道には、親子連れが大勢、
小旗を手にその瞬間を待っていた。

この選挙はカストロにとって、
あるメッセージが込められていた。
それはひとつの国に向けられていた。
アメリカだった。
ブッシュ大統領が、キューバ国民は
独裁者から自由になるべきだという演説を
繰り返している他、
ライス国務長官が上院外交委員会で、
キューバを世界の圧政国家として
真っ先に名指しした。

さらに去年5月には
当時のパウエル国務長官率いる委員会が、
400ページにわたる報告書を
ブッシュ大統領に提出。そこには
カストロ政権を崩壊させるための方法が
詳細に検討されていたのだ。
キューバ外務省の北米担当の、
グスタボ・マーチン局長は流暢な英語で言う。
「アメリカはイラクへの侵略を正当化するのに、
 たくさんの言い訳を使いました。
 戦争の本当の目的は
 サダム・フセインを倒すことだったのに、です。
 アメリカがキューバに同じ事を
 しないとは言えません。起こりうるのです」

今回の選挙は、アメリカに
侵略の理由を与えないためにも、
独裁国家という印象を薄め、
アメリカの掲げる民主主義を
実践しようとしていることを
アピールしたいという
カストロ政権の思惑があった。
ただその選挙が民主的なのかどうか、
判然としない。
キューバの選挙の仕組みは、
まず市議会があって
選挙区ごとにひとりを選出する。
2人以上の立候補が必要で、
自薦、他薦ということだが、
どうやって立候補者が選ばれるのかが
はっきりしない。
キューバには地域ごとに
200人規模のグループが出来ていて、
地元住民の互助会の役割を果たすと同時に
相互監視し時に密告もあるという。
市会議員の候補者選びに
この地域グループが影響力を
持っているとされている。
また市議会の上には、
州議会(県議会)があって、
議員の半分は共産党が指名し、
半分は市議会議員の互選で決める。
さらに国会にあたる
人民権力全国会議の定員は589人。
うち半分は共産党が指名、
半分は市議会議員と州議会議員で
互選して決めるという。
ちなみに今回の選挙の投票率は96.5%、
日本では考えられない数字だ。

太陽がじりじりと照りつける。
キューバの日差しは痛いほどだった。
様々な本で紹介されているカストロは、
宵っ張りでたいてい朝方寝て、
昼までは起きてこない習慣のようだった。
とすると日曜の午前中に出てくるとは
思えなかった。
あるいは選挙の日は特別なのか。
その答えはしばらくして出ることになった。
我々は結局、炎天下で2時間近く待たされ、
カストロが姿を見せたのは
お昼になろうかという時だった。

遠くで拍手が聞こえ、
次第にその音が大きくなっていく。
キューバテレビの生放送のカメラマンも、
集まったメディアにも緊張が走った。
しばらくしてカストロ議長が
角を曲がり姿を現した。
両脇を抱えられ、
一歩一歩確認するかのような、
ゆっくりとした足取りだった。
去年、演説の最中に転倒し
足を骨折した傷がまだ完全に
癒えてはいないのだろう。
おまけに、精力的なために
つい年齢を忘れてしまいがちだが、
カストロはすでに78歳だ。

カメラのシャッターが一斉にきられる。
カストロは階段を慎重に登ると、
投票所に入っていった。
近所の家からテレビの音声が漏れてくる。
カストロが投票する様が
スポーツ中継よろしく実況され、
キューバテレビの生カメラの前で
今回の選挙の意義をとうとうと説いていた。
30分後、カストロが建物から姿を現した。
階段を降りてくる。
果たして彼は何処に向かうのか。
マイクの前で話すのか、話さないのか。
記者団の前で立ち止まるのか、
立ち止まらないのか。
誰にも予想がつかなかった。

皆息をのんで彼の姿を見つめた。
階段を降りきったところで、
カストロは足下に合わせていた目線を
ゆっくりと上げた。
スローモーションのようなスピードで、
並んでいるカメラの放列を見渡す。
そして彼は踏み出した。
メディアの列の中央付近に立てられていた
マイクに見向きもしなかった。
まっすぐに向かったのはCNNだった。
CNNという赤いロゴマークのついた
カメラの前で立ち止まると、
回りのカメラが囲むように一斉に輪をつくった。

アメリカのメディアとキューバは
複雑な関係にある。
1961年に外交関係を断絶して以来、
キューバとアメリカは
政府レベルでは敵対し続けている。
アメリカのメディアにとっては、
アメリカの中庭とでもいうべき場所にある
キューバの動向は無視できない。
しかもカストロが亡くなったあとの
キューバ社会主義の行く末は、
歴史上の大きなテーマだ。
しかし外交関係がない以上、
アメリカのメディアが支局を開くことは
公式には認められていない。
アメリカ3大ネットワーク、
CNNはハバナのホテルに部屋を借りて
事実上の支局機能を持たせ、
キューバ政府もこれを容認している。
キューバでは、アメリカのメディアということが
マイナスに働くことのほうが多い。
だがCNNは別だ。
CNNはアメリカのメディアでありながら、
世界に発信するにはCNNを利用するしか手がない。
しかもカストロ議長と、
CNNの創設者のテッド・ターナー氏が
良好な関係を築いていることも
有利な要素だった。

残念ながら、我々のカメラは
CNNの場所からかなり離れていた。
少なくともあっという間にできた輪に、
あとから入り込む余地は全く見いだせなかった。
話し終えたカストロを
もう一度捕まえるにはどうすればいいのか。
隙をうかがって輪の中に入るチャンスを
探るべきなのか。
我々は建物側に回り込んで、
カメラの輪に近づこうとした。
しかし政府関係者や兵士たちが層を作っていて、
近づくことができない。
カストロまでの距離は7メートルほどだった。

待つことにした。
必ず質問がなくなり場が静まる瞬間があるはずだ。
20分ほどたっただろうか。
一瞬、カストロが話し終えて
次の質問までの間が出来たと思った。
私は大きな声で叫んだ。
「コマンダンテ!」司令官、と呼びかけたのだ。
カストロは国会評議会議長であると同時に、
軍の最高司令官でもあった。
この日も、カストロは
緑の軍服を身にまとっていた。
ところが、カストロが話し終えたと思ったのは
私の思い過ごしだった。
私にスペイン語はわからない。
次の言葉までの間が、
文章の切れ目だと思ったのだ。
コマンダンテという私の声は、
カストロの発した次の言葉を遮ることになった。
カストロは自分のしゃべりを
じゃましたのは誰だと言わんばかりに、
こちらに顔を向けた。
一瞬私を睨み付けたあと、
CNNの記者のほうに顔を戻し、話し続けた。

しばらくすると、
カストロを囲む輪が緩みかけたように見えた。
私はもう一度声を掛けてみることにした。
「コマンダンテ!」
カストロはふたたび、
こちらをゆっくりと見た。
「コマンダンテ! ウナ、プレグンタ(質問があります)
 テレビシオン・デ・ハポン(日本のテレビ局です)」
カストロはかすかにうなずいたように見えた。
そして体をこちらに向けようと
体を動かそうとした。とその時だった。
カストロと私の間にいた大勢の人が、
すっと場所をあけた。
一瞬でカストロと私の間に
まっすぐな空間ができた。
カストロが目線を向けると
そこに自然に道が生まれるかのようだった。
私はふと、モーゼが手を差し伸べると
海が割れて道が現れる
映画の場面を思い起こした。
現存するおそらく最後の革命家、
カストロのカリスマ性を
強烈に感じた瞬間だった。

カストロは、おまえは誰だと
厳しい表情で促した。
「コウジマツバラ、TBS、
 テレビシオン・デ・ハポン」
私は繰り返した。
カストロは小さく声を発しうなずいた。
足を運びこちらに向かって歩きだす。
私も新しく出来た道を
カストロの方に近づいた。
目の前のカストロは、
にらみつけるように
こちらを見据えた。
私は憶えたてのスペイン語で質問を発した。
「クワンド、テルミナ、ラ、ゲラ、エントレ、
 クーバ、イ、エスタドス、ウニドス」
(キューバとアメリカの争いは
 いつ終わるんでしょう)
実は私は、にわか覚えのスペイン語の質問を
マイクを持った左の手のひらに記していた。
カストロへの質問の最中に
私は一度左手に視線を落とした。
するとカストロは何を見てるんだと
言わんばかりに、
私の左手を不思議そうに眺めた。

質問が終わると、カストロは
「いつ終わるかだって」と呟き、続けた。
「まもなく終わります。たぶん間もなくです。
 あなたが撮影した選挙の様子を
 アメリカが見れば、
 我々が正しいことを
 していることがわかるでしょう。
 我々の正しさが証明できれば、
 関係は改善する可能性は高いと
 私は考えています」
カストロは首を動かし目をぎょろりとあけ、
私を説得しようとしているかのように
しゃべった。そして体を反らせて
私を見下ろすような姿勢をとった。

私はクビの付け根のあたりが
押さえつけられるを感じた。
ふと見ると赤のチェックのシャツを着た黒人が、
マイクを私に押しつけていた。
音を拾うのにマイクを質問者の体に
押しつけるテレビマンはいない。
それもかなり強い力で押さえつけていた。

カストロの口調は激しくなっていった。
「アメリカが原爆を落とし戦争が終わったあと、
 日本は経済成長を遂げました。
 以前わたしは広島を訪れました。
 そこで見たのは原爆の悲惨さでした」
カストロは体を揺らし、さらに口調を強めた。
そして一歩私のほうに近づいて、
左手の人差し指を大きく動かし、
何度も私の胸をつつきながら話を続けた。
「歴史を振り返っても、
 アメリカは原爆を落とす必要はなかった。
 原爆を落としたのはテロです。
 ひどいテロです。アメリカは
 軍の施設に落としたのではない。
 広島市民の上に落としたのです。これが歴史です」

カストロは左手の人差し指を天に向ける。
「ひどい犯罪です。アメリカは
 確かにテロをやったんです。
 日本人はこのことを忘れてはいけません」
そう言ってカストロは念を押すかのように
もう一度私の胸を指で押した。
カストロの話は、このあと
日本と中国、キューバとの関係に及んだ。
私は礼を言って握手をした。
カストロは聞いていた通り
エネルギッシュだった。
いったん口を開くと永遠に
しゃべり続けるのではと思わせるほどだった。
強く印象に残ったのは意外なほど
瞳が澄んでいたことだ。革命を成し遂げ、
歴史の修羅場をくぐり抜けてきたはずの彼の目は、
一瞬、まるで子供のような輝きを見せた。

インタビューの様子は
キューバテレビで繰り返し流されたため、
レストランで「インタビューを見た」と
地元の人に何度も声をかけられた。
そのひとりは、キューバとアメリカの争いは
いつ終わるのかという私の質問に触れて、
我々が一番知りたいのはそこなんだと言い、
にやっと笑った。
他のメディアのカメラマンが偶然、
私がカストロに話を聞いている様子を
写真にとっていて、キューバ滞在中に
私はその数枚を記念に買った。
ところが後にニューヨークに戻って、
私の胸に押しつけられたマイクの謎が
その写真から判明した。
写真をキューバの外交関係者に見せたところ、
マイクを押しつけていたのは
カストロのボディーガードで、
マイクに見えたのは、
いざという時に相手にショックを与える
電気銃のようなものだろうと言うことだった。
さらに彼は付け加えた。
もし必要以上にカストロ議長に近づこうものなら、
彼は容赦しなかっただろうと。
また私の回りには少なくとも
8人のボディーガードが写っていた。
私はボディーガードに囲まれて
カストロと向きあっていたのだ。

カストロは、いま、
時代に逆行するかのような政策をとっている。
経済の中央集権化だ。
ソ連の崩壊によって
経済不振に陥ったキューバは
いったんは、経済の一部自由化に踏み切った。
観光にも力を入れた結果、
ドルが大量に流れ込み
ドルを持つ者と持たない者で
確実に貧富の差が生まれた。
さらにレストランの個人経営を認めるなど、
資本主義的要素を取り入れた。
いや取り入れざるをえなかったのだ。
ところが去年あたりから個人レストランの新規出店は
認められなくなったという。
それどころか、当局の監視が厳しくなり
規則違反だと細かい難癖をつけられては
廃業に追い込まれる個人レストランが
増えているといるという。

背景には、世界第5位の産油国ベネズエラが
安い石油を安定的に
キューバに供給する契約を結んだことがある。
ベネズエラのチャベス大統領は、
なにかとアメリカに楯突いていて、
そうした意味でもカストロと気が合うのだろう。
さらに中国との関係が大きな影響を与えている。
中国はキューバのニッケル採掘に投資、
またアメリカへの牽制の意味からも
キューバを味方につけておきたいという思惑も
見え隠れする。
キューバとしては社会主義の仲間だし、
中国から安い製品が輸入できるのは
願ってもないことだ。
私がキューバ滞在中、
カストロが「中国から安い炊飯器を輸入し、
全家庭に配る」という政策を打ち出し、
国会で議員達の総立ちの拍手を受けていた。

ベネズエラと中国との関係などから、
経済が一時に比べて
よくなったことから自信を深め、
カストロは原点に戻ろうとしていた。
経済の一部自由化を改めて、
中央主権化を再び進め、
国民に平等に資源を配分する
かつてのやりかたに回帰しようとしているのだ。
キューバ人は底抜けに陽気な国民だという、
何度も聞かされたイメージは、
実際に訪ねると少し異なるものだった。
確かに明るいのには間違いないのだが、
その後ろに見え隠れする抑圧感を
ときに感じることになった。
医療費と教育費がただで受けられる社会が実現し、
特にアフリカ系キューバ人から見ると
完全な平等社会は
何ものにも代え難いものだろう。
だが自由は大きく制限され、
経済的には概して貧しいのだ。

ある普通の家庭で、私はキューバ人が
アメリカのテレビを見ている場面に遭遇した。
もちろん違法だ。
だがアメリカの
スペイン語チャンネルの番組をあつめ、
ケーブルで流す商売が密かに
人気を呼んでいるのだ。彼らは言う。
なぜ外国のテレビを見てはいけないのか、
悪いことをしているわけではないのに
なぜいけないのか。
またコンピューターを
家庭で持つことは許されていない。
だが別の家庭ではブラックマーケットで
パソコンを買い使っていた。
通信事情の悪さから、
さすがにインターネットを
家庭でみることは難しい。
ブラックマーケットは成長し続けているという。

私がキューバに着いて4日連続で
カストロは夜演説をした。
それも毎晩4時間にわたった。
そのエネルギーもすさまじいが、
毎晩聞かされる方はたまったものではない。
ゴールデンタイムにテレビをつけると
カストロの演説しかやっていないのだ。
やれやれ、頼むよカストロさん、
というため息まじりの声が
聞こえてくるようだった。

それでもひとつだけ確かなのは、
カストロは多くのキューバ人に尊敬され、
同時に愛されていることだ。
それは絶対的な独裁者が
往々にして堕落していく中で、
彼が革命を成し遂げたあとも
一貫してパブリックの精神を
持ち続けているからに違いない。
ときに間違った政策をとったとしても、
少なくとも彼は本気であることを
国民は知っている。
カストロが生きているうちは、
トロピカルソーシャリズムは
このまま続くだろう。

アメリカがキューバを
目の敵にする姿勢を強調するのも
ひとつには
キューバ革命でアメリカに逃げてきた
キューバ系アメリカ人に
配慮してのことだ。
彼らはいまだにカストロ政権に
強い恨みをもっていて
選挙で彼らの票を得るためにも
キューバに強い姿勢を示す必要がある。
つまりキューバは、
アメリカの政治にとって
国内問題でもあるのだ。

経済の自由を求めれば
貧富の差は避けられない。
平等な社会を求めれば窮屈で不満が募る。
どちらをとるかだ。
皆がアメリカになる必要はない。
多様な歴史と文化が共存していくべき世の中で
キューバのような国があるのは今となっては、
むしろほっとさせられることではあるまいか。

カストロは今夜も、
長い演説をしているに違いない。

松原耕二さんへ激励や感想などは、
メールの表題に「松原耕二さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2005-08-02-TUE

TANUKI
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