1 羽田事件と調和性

 ただいまご紹介にあずかりました吉本です。「調和への破壊」というテーマでお話しろということなんですけど、非常に最近に、ぼくは、わりあいに、ぼくが書いたものをよく読んでいる人から、質問状とも、詰問状ともいえるような手紙を頂戴したことがあります。
その手紙の内容と申しますのは、みなさんのほうで、何と名付けておられるか存じませんけれど、○・○○事件っていう名付けかたをするのが、みなさん、得意だと思うんですけど、何と名付けておられるかは知りませんけど、佐藤が南ベトナムを訪問する、それに対して羽田で、そこで、ひとりの学生さんが殺された。
で、その詰問状をよこしてくれた、親切な学生さんだと思うんですけど、それは中学、いまでいいますと高校でしょうか、それが高校時代のクラスメイトだったっていう人なんです。吉本が、この事件に対して、なんら公的な発言をしていない。しかも、諸々の文化人がこれに対して、マスコミの報道に対して、また、その他に対して、抗議の声明みたいなものを発表していると、そのなかに吉本の名前がみえないのは、まったく残念であるって書いてある、そういう詰問状、ないし、質問状であったわけです。
ぼくは、それを読みまして、きわめて情けないというか、悲惨な感じがしたんですけれど。つまり、どうしてかっていいますと、ぼくは結局、そういう連中と同じ程度にしか、だいたい評価されていないんだなっていう(会場笑)、そういうことで、内心わりあいに落胆したわけですけども。
こういう事件に対する、そういう知識人、ないし、文化人っていうものの声明というもの、それから、マスコミにおける報道っていうもの、また、その事件に対する、全学連、ぼくは、いまの学生運動をよく知らないんですけど、世上三派連合と称す全学連の、それに対する反応の仕方っていうもの、そういうもののなかに、一種の調和性、諧和性っていうものを感ずるわけで、まことに、全学連なるものは、あるいは、三派連合全学連なるものは、まことにそれにふさわしい同伴者諸君をもっているなってことで、まことに調和性を感じたわけです。
第一に、マスコミの報道っていうものを、それは、大新聞にあらわれているわけですけど、一般的に、その場合の、学生の闘争っていうもの、実力的な阻止闘争っていうものを、ひとつの暴徒であるということで、かたをつけているわけです。暴徒であるということで葬るといいますか、葬り去るという、そういうかたちで、報道は、だいたいにおいてなされていたっていうふうに、ぼくは思います。
それから、べ平連の諸君の声明、そのなかにべ平連に所属していない梅本克己なんていう人も入っていましたけども、そういう人たちの声明をみますと、ようするに、あそこにおける全学連の阻止闘争っていうものは、非常にゆきすぎであるけれども、しかし、これに対するマスコミの報道機関の報道は、まことに事実を歪め、公平でないというようなかたちで、俗にいえば、喧嘩両成敗といいますか、どっちも感心しないけども、ようするに、学生の闘争には肩をもちましょうという、そういう論調で、そういう声明のモチーフであったっていうふうに思います。
それに対して、ぜんぶ目を通しているわけではありませんけど、わたくしのところに送ってくる、いろいろな学生新聞っていうものがあるわけですけども、もし、その学生新聞の論調のなかに、全学連の考え方が、ある程度、象徴されているっていうふうに考えれば、そこでなされている声明の要旨っていいますか、記事の要旨っていうのは、死んだ学生の死因について、母校である京大のお医者さんが立ち合いを申し入れたら拒否された。で、まったく一方的に、これはいわば、同じ闘争に参加した学生諸君のあやつるトラックの轢死が死因なんだっていう、そういうような発表に対して、いやそうじゃない、死因になったのはそうじゃないと、打撲が原因であるとか、ようするに、そういう声明、こういう発表っていうのは、非常に虚偽であると、ほんとうはそうじゃないんだっていうようなかたちで、つまり、きわめて一方的な声明であるっていうかたちで、論議がなされているっていうような、そういう印象を受けた。
しかし、その死因が何であったかっていうようなことっていうものは、ようするに、それはお医者さん、つまり、法医者ないしは法医学者、ないしは、裁判権、つまり、司法当局によって必要な、そういうデータであって、言い換えれば、知らず知らずのうちに、国家っていうものの具現される、最も基本的な要因である、法というものの範囲内で、どれが正当であるか、一方的であるかっていうような、そういう論議に、問題がすべりこんでいるわけです。こういうすべりこみ方っていうのは、きわめて調和的なすべりこみ方であるっていうふうに、ぼくには思われます。

2 平穏な日常の裂け目にある情況の本質

 これは、ぼくは、いわばジャーナリズムでいうと、戦中派っていうものに属しているわけですけど、つまり、戦争というような場合でもそうですけど、ひとつの政治闘争っていうものが、現実的におこなわれる渦中においては、流れ弾に当たって死ぬこともありますし、それから、味方によって、故意に、あるいは、偶然に、背後から撃たれるというようなこともありますし、それからまた、敵に殺されるっていうような、敵の弾に当たって死ぬというようなこともあるわけです。
つまり、そういう闘争の過程っていうもの、あるいは、闘争の本質っていうもののなかには、そういう様々なことが含まれて、それが闘争の過程なのであって、だから、味方に殺されようが、流れ弾に当たろうが、ようするに、それは、戦争でいえば戦死であり、闘争でいえば、それは敵に殺されたんだってこと、そういうことだけは間違いのないこと、つまり、そういうふうに考えられるべきものであって、その死因が誰によるかっていうことに論議がすべりこんでいくってことは、ぼくの考えでは、きわめて調和性にとんだ、非常に危険な論議だっていうふうに思います。
なぜならば、そういう危険さっていうものは、たとえば、現在、ベトナムの戦争があり、そして、日本には平和があるというような、そういう区別の仕方っていうものと、ちょうど対応するわけです。
しかし、よくよく現実っていうものを実体的に考えてみれば、ベトナムのなかに戦争がありますけど、同時に平和もある。つまり、人間は戦争の最中でも、きわめて平和的に、恋人とデートすることもできますし、また、一家団欒の食事をすることもできるっていうような、そういうようにしか、戦争っていうものは存在していないわけです。
ベトナムに戦争があるっていった場合には、ベトナム人が沸騰し、全部が混乱しているっていうふうに想定したら、まったくのまちがいであって、戦争っていう現状のなかにも平和っていうものが、平和なある時間があり、ある局面があるってこと、つまり、そういう局面については、現実っていうものは、さまざまな次元の場面っていうのを許すものである。
それが、ようするに、現実の実相であるってこと、また、日本は平和だというふうに、彼らがいうときに、しかし、日本の平和なるものは、いったんこれを、ある視点をもって、これを眺めてみれば、ちっとも平和ではないわけで、そこには、いわば声をあげずに倒れていく人間もいますし、また、なんの声も発せずに老いさらばえて、そして死んでゆく人間もあり、そしてまた、きわめて日常的に無事平穏にみえる生活自体といえども、いったんよく考えてみれば、そこではなんか本質的な思考っていうものを個々の人間に許さない。
そしてまた、しかしなんとなく漠然とした、共圧力っていうものがいたるところに存在しているような、いっけん平和にみえる現実、それ自体といえども、けっして、いったん、ある視点を獲得していけば、ちっとも平和ではないわけです。
したがって、ベトナムに戦争があり、そして、日本には平和があると、そういうような、単純な区別の仕方っていうものは、いわば、羽田事件において殺された学生の死因はなんであるかと、どちらが先であるか、そういうような問題にすべりこんでいく、そういう思考法とまったく一致していくわけです。ぼくは、そういう論議の仕方のなかに、あるいは、そういう論議にすべりこんでいくもののなかに、いわば、調和性というものを感じないではいられない気がします。
問題はそういうことでない、つまり、ぼくらはそういうふうに考えていないってこと、今日、ベトナムのなかに情況の本質があり、そして、ベトナム戦争に反対することのなかに、政治的情況があるというふうに、すこしも考えていないわけです。
わたくしは、依然として、いっけんすると無事平穏のごとくみえるこの現実のなかに、この日本の国家権力のもとにおける現実のなかに、さまざまな鋭い裂け目があり、そして、そのなかに、それをどういうふうにすくい取っていくか、つまり、それをどういうふうに問題として立てていくか、あるいは、思想の問題として組み込んでいくか、そして、それが、国家権力っていうものに対する、どのような戦いの様相というものとして、展開されねばならないかってこと、わたくしは、そういうことのなかに、情況があるっていうふうに考えております。
つまり、そういうことは言い換えれば、世界の情況っていうものは、ようするに、この日本の国家権力のもとにおける、そういう、いっけんすると無事平穏のようにみえる、そういう情況のなかにしか存在しないというふうに、ぼく自身は考えております。それを打開する方途というものを見つけられないかぎりは、いかなる情況の展開もありえないこと、そういうふうに、ぼくは考えています。
しかるが故に、羽田事件に対して、諸々の声明を発している、そういうような連中に、ぼくが同列視され、あるいは、同視されるってことに対しては、非常に情けない感じがしております。つまり、問題はそういうところにないっていうふうに考えております。しかしながら、一般的に、先ほど申しました、質問の、あるいは、詰問の手紙をよこした、そういう学生さんの考え方っていうものは、わりあいに、日本では普遍的になった、あるいは、まさに日本的特殊性ともいうほかないような、そういう特殊性としては、非常に普遍性をもっているわけです。

3 大衆と知識人の関係

 体験的な事実を申し上げますと、わたくしなどは戦争中に、現在のような文筆業者でもなんでもない、つまり、ただの学生だったわけですけれども。そういう学生からみえた、当時の文学者、知識人というものは、どういうふうにみえたかっていいますと、戦争そのものを遂行していくもの、あるいは、遂行せざるをえないという情況に、まさに追い込まれているものっていうのは、自分たち、つまり、なんでもない青年であり、学生であり、大衆である、そういうものなんだっていうこと、しかし、知識人、あるいは、文学者、あるいは、文化人といいますか、そういうものは、ぼくは、その当時、戦争なんかにいい加減に迎合したようなことを書いてもらいたくないって思っていました。
それは、ぼくが反戦的な思想をもっていたからではないんです。ぼくは、けっして、反戦主義者ではなかったわけです。だから、戦争自体を現実に担うっていうようなところに、必然的に追い込まれているもの、そういうものが自分たちであると、しかし、少なくとも、そうでない、文化にたずさわるもの、あるいは、文学にたずさわるもの、あるいは、思想にたずさわるものは、少なくても、そういうことに立ち入ってもらいたくないっていうのが、ぼくの考え方でした。
しかし、それにもかかわらず、ほとんどあらゆる、過去においてあらゆるイデオロギーをもったもの、つまり、マルクス主義者であり、そして、リベラリストであった、そういう人たちが、一様に、いわば戦争に、非常にあいまいなっていいますか、非常に薄っぺらなかたちで迎合するような、そういう文章っていうものを書き散らすわけです。
それに対しては、ものすごく不愉快を感じていたっていうことを、ぼくは記憶しています。ぼくのその当時の考え方っていうものは、正しかったっていうふうに考えています。ぼくが文化っていうもの、あるいは、知識っていうもの、知識的課題っていうもの、そういうものと、たとえば、現実に政治行動の渦中に必然的に追い込まれざるをえない、あるいは、当時でいえば、戦争というものの過程に必然的に追いこまれざるをえない、そういうようなところにいる人間とのギャップの問題っていうものは、けっして、薄っぺらなところで統合するっていうことは、まちがいであるっていうような、そういう考え方が出てくるわけです。それが、わたしなどの戦後の文化、文学、芸術っていうものと、政治っていうものの関係についての基本的な考え方となってきたわけです。つまり、そういう問題というものを、いかに理論として、あるいは、論理として、差し出すことができるかっていうような、そういう問題がやっぱり、主要な関心を占めていたと思います。
だから、ぼくにいわせれば、羽田において、佐藤のベトナム訪問阻止の実力行使を、行動でもってそれを阻止しようとしたっていうような、そういう場面に、そういう渦中の学生運動に対して、これを一片の声明によって、加担するとか、参加するというような、そういうようなことは、まことにくだらないことであるっていうふうに、ぼくには思われます。
それは、戦争当時、ぼくは学生であったと、しかし、いまはなにやら、文化人であり、文学者であるっていうふうに思われているという、つまり、位置の転倒がありますけど、ぼくはその転倒によって、たえず、自分がただの大衆であったら、あるいは、一学生であったら、それから、そういうものに対する加担の声明を発しているものがどういうふうにみえるかという問題、そういう問題っていうものを、たえず、理論としてくり込もうと考えていったっていうふうにいえます。
しかし、一般的に、戦後において、政治と文学っていうようなかたちで提示された文化っていうもの一般と、それから、具体的な、現実的な実践行動っていうようなものについての理論づけっていうものは、その点をきわめて曖昧にしていると思います。きわめて曖昧にしているところから、ああいうような声明っていうものが、文化人とか、知識人っていうものによって発せられるっていうような、そういう問題になっていくのだと思います。

4 文学芸術のほんとうの強靭さ

 そこでは、さまざまな問題をはらんでいるわけです。つまり、ひとつは、一般に文化っていうものは何なのか、あるいは、文学っていうものは何なのか、それは現実に対して何なのか、政治に対してどういう関係をもつのかっていうような、そういう問題としてありますし、もうひとつは、われわれが知識によってたつってことは、いったいどういうことなのか、また、知識っていうものは、あるいは、文化というものは、一般に大衆的な現実行動っていうようなもの、それから、政治的な幻想、つまり、共同行動というようなもの、そういうものに対して、どういう位相にあるものだろうかっていうような、そういう様々なかたちで、本質的な問題をはらんでいると思います。
その問題を、やはり正当なかたちで解いていかなければならないって課題を、たとえば、知識に関与するものっていうものは、当然、担っているというふうに考えます。だから、わたくし自身にいわしめれば、羽田事件における反応において、ぼくに質問状、あるいは、問責の手紙を出した、そういう人に対して、ぼくは答えうるとすれば、いやしかし、マルクス流にいわせれば、無知が栄えたためしはないのだ。
ようするに、おれがやっていること、おれがやってきたことの体系をまたずして、あらゆることが成し遂げられたらお慰みであると、そういう自負なしには、やはり、思想・文化っていうものに、たずさわれないんだってこと、そういうふうに、ぼくは考えております。だから、ようするに、なにを言ったって、おれが、思想的、文化的課題において、おれが成し遂げることがないかぎりは、なにごともはじまらないんだっていうような、そういう自負っていうものをもっています。
それだから、そういう観点からすれば、ようするに、一羽田事件がなんであるか、そういうものがなんであるか、そういう、ぼくはそれだけの自信をもって自分の仕事をしています。なにもくだらない声明でもって加担するっていうような、そういうアホらしい考えは、すこしももっておりません。それだけの自信がなければ、知識人とか、ようするに、文化にたずさわることをやめたほうがいいと、ぼくは思います。そういうところが違うわけです。
それでは、どういうふうに違うかっていう問題を、すこし展開させていきますと、つまり、文学、あるいは、芸術、そういうものは、相対的にいって、個人の生みだす幻想の産物なんです。あるいは、観念の産物なんです。あるいは、個人の幻想っていう範疇に属するものなんです。
そういうものに対して、政治的な実践行動というもの、政治的な行動っていうものは、どういうものかといいますと、それは、共同の幻想に関するものなんです。共同の幻想、あるいは、観念の共同性に関するものなんです。
つまり、観念の共同性に関するものと、個人幻想に属する文化、文学、芸術というようなものとは、もともと位相性っていいますか、次元性を異にしているものなんです。だから、それを簡単にひっつけることはできないんだってこと、簡単に結び付けることはできないんだ。だから、そこのところを曖昧に結び付けようとすれば、ようするに、さきほどから申し上げているように、一片の声明としてあらわれてくるっていうような、つまり、一片の声明として、それが結び付けられるかのごとき幻想をもつわけです。
それを、みなさんのなかに、たとえば、羽田闘争に自ら参加され、あるいは、それを指導された学生諸君がいるとすれば、そういう諸君に申し上げたいけれど、そんなものを同伴するってことは、そういう知識人、あるいは、そういう声明によって、なにか政治的実効性があるっていうような、効力があるというような考え方が、もしあるとすれば、そんな考えは捨てたほうがいいってことを申し上げたいと思います。そんなものはなんでもないわけです。つまり、そんなものは問題にならないわけです。政治過程においては、政治具体的実践行動においては、そんなものは一片の問題にもならないってこと、だから、そんなものに血道をあげるならば、そんなものを組織することに血道をあげるなんてことは、やめたほうがいいってことを申し上げたいと思います。
そして、逆にいえば、文化、芸術、文学っていうような、そういうもののもっている、ほんとうの強さ、強靭性っていうもの、強さっていうものをなめないでほしいって思うんです。つまり、文化人っていうもの、あるいは、知識人っていうもの、あるいは、文学者っていうものをなめないでほしいっていうふうに、ぼくは思います。
つまり、冗談じゃないってこと、文学・芸術、総じて個人幻想に属する産物なんですけど、そういうもののほんとうの強靭さっていうものは、ようするに、政治過程にある学生運動家諸君が考えるほど、そういうなめたものではないってこと、それ自体がきわめて強靭な力をもっているんだってこと、力をもっているってことは語弊があるとすれば、そんなものでどうすることもできないような。そういうものが、文化・芸術っていうものの本質をかたちづくっているんだってこと、そういうことについて、真の知識人、あるいは、真の文学者っていうもの、あるいは、真の文化人でもいいですけど、そういうものをなめないでほしいって、ぼくは思います。
つまり、そんなものでどうにもならないっていう、そういう強さ、強靭さっていうものが、文化、あるいは、芸術、文学っていうもののなかに存在しなければ、あるいは、そういうものを生みだす個々人のなかに存在しなければ、そういうものはナンセンスに過ぎないんだと、だから、いっけんして、現象的な加担っていうもの、現象的に自分たちの政治行動をもちあげる声明を発したなんていう、そういう連中に、文化、芸術、文学っていうものの本質を読まないでほしいってこと、そういうものではないってこと、そういうことを、ぼくは言いたいって思います。

5 安保闘争以後の課題

 総じて、われわれが、政治運動、あるいは、政治行動っていうようなものは、どういう性格をもち、何に対してなされるかといいますと、それは、いわば共同の幻想性っていうものを本質とするわけです。そして、その共同の幻想性っていうものは、その共同の幻想性自体によって、国家、そして、その現象している、いわば現在の世界の段階における、最高といいますか、最も高度化した共同幻想に対して、やはり、共同の幻想をもってそれを打破しようってことが、ようするに、政治行動っていうもの、政治運動っていうものの本質であるっていうことなわけです。
それにたいして、文学・芸術っていうものは、まったく個人幻想っていいますか、個人の観念の産物っていうものに属するということ、したがって、位相性を異にするってこと、次元が違うということがあるわけです。
では、国家のような、共同の幻想性っていうもの、あるいは、幻想の共同性っていうようなものは、どういうふうな選択、あるいは、どういうような形成の過程っていうものを通るかと申しますと、それは一般に、家族っていうような形態を通して、国家にまで結晶していく、そういう発生の基盤をもっているわけです。けっして、個々人の個人幻想っていうものの集合が国家ではないのです。
つまり、そういう意味では、個々人の個人幻想、あるいは、個人の観念性、あるいは、個人の観念性が生みだしたもの、生みだすもの、そういうものは、だいたい、国家の共同幻想性っていうものに対して逆立するっていいますか、対立するっていいますか、そういう基本的な、あるいは、本質的な性格をもっているわけです。それゆえ、個人の集合っていうものが国家にはなりえないのです。
国家の共同幻想性っていうものが成立するためには、かならず、家族の共同性っていうもの、それを通過しなければならないわけです。かならず、それを通過して形成されるものなんです。そして、家族の共同幻想性っていうのは、なにかと申しますと、その基盤っていうものは、ようするに、男と女、つまり、性としての人間っていう範疇なんです。性としての人間っていうふうに人間を見た場合には、人間は男性または女性に分けられるわけです。性としての人間っていう範疇を通らなければ、国家っていう範疇は出てこないわけなんです。
それで、性としての人間っていうものはなにかと申しますと、それは、男女の自然的な、あるいは、生理的な、性行為っていうものを基盤にして、そして生みだされる幻想性なんです。その幻想性は、個人幻想性ではないので、これはかならず、対になった、つまり、ペアになった幻想性っていうものを、かならず、自己疎外していくわけです。つまり、観念的に自己疎外していくわけです。だから、それが、家族の共同幻想性っていうものの本質なわけです。
その本質の基盤にあるのは、自然的な男女の性行為であり、その範疇を決めるのは、性としての人間、つまり、男、または、女に分けられるところの人間なわけです。だから、よく言われるように、「女だって人間だわよ」っていうような言い方は、もちろん、まちがいなわけです。つまり、人間を全人間的な範疇っていうふうにとらえた場合には、ようするに、それは性として男性であるか、女性であるかっていう次元とは、まったく違うわけです。いいかえれば、どちらでもいいわけです。どちらでも、人間は人間なわけです。しかし、性としての人間っていうような範疇で、人間をとらえた場合には、人間は、男性または女性っていうふうに、呼ばれるわけなんです。そういう次元、あるいは、次元の相違っていうものとして存在するわけです。そういうものを通過してはじめて、国家っていうものの共同幻想性、あるいは、観念の共同性っていうものが、生みだされていくわけなんです。
わたくしどもは、非常に不愉快なことがあるわけですけど、不愉快でならないことは何かっていいますと、わたくしは、すでに安保闘争から7,8年でしょうか、そのくらい経っていますけど、安保闘争以後、わたしが自分に課した問題っていうものは、原理的、あるいは、思想的体系の確立なしには、あらゆることが不可能であるってこと、そういう問題意識において、徹底的にそれを体系づけていくってこと、そういうことを自分に課してきたわけです。
だから、そのためには、われわれはどういう覚悟をしたかっていいますと、たとえば、全マスコミっていうものが、じぶんを疎外したとしても、わたしは、かならず、それをやってみせると、全マスコミを敵としても、かならず、やってみせると、もちろん、全左翼集団、全進歩集団が、われわれを疎外しても、わたしはそれをやってみせるっていうような、そういう基盤をつくって、かならず、やってみせるっていうような、そういう決心っていいますか、そういう意志をわたくしたちは貫いてきたわけです。
それは、時勢において、適当なふうに自分を変えていくっていうような、そういうような連中とまったく違うわけです。それを、わたしたちは自立的思想っていうふうに考えてきましたけれども、つまり、自立的思想っていうものを建設するための、現実的基盤っていうふうに考えてきましたけど、わたしたちは、そういう意味で、たとえ全マスコミがわれわれを疎外しようとも、われわれは、かならず、それをやってみせると、やるだけの基盤を、かならずもつと、そういうふうに、わたしたちはずーっと一貫してやってきたわけです。
それに対して、たとえば、安保闘争後の、いわゆる拡散していき、崩壊していく運動の情況のなかで、巧みにマスコミをぬいつづけた連中が、たとえば、現在、「ベトナムに平和を」あるいは「ベトナム反戦運動」なんていうのを展開していると、それがたとえば、三派連合か、何連合か知りませんけど、学生諸君の同伴者として存在する、そういう現実的調和っていうものに対して、まことに不愉快な思いをしております。つまり、なにを言ってやがるんだっていうような、ようするに、おれたちが対峙したものっていうのはそんなものじゃないっていうような、そういう考えがあります。
だから、われわれは、そういう意味からの、われわれは確固としたそういう基盤っていうものを、自らつくって、自らそこで展開してきたっていうような、そういう問題があります。そこで、問題は展開されていくと思います。これは、さまざまなかたちで、わたくしは展開しました。
そのひとつは、一般的な文学・芸術に関する理論であり、それはいちおう、わたくしは『言語にとって美とはなにか』っていうような、そういうもののなかで、一種の体系づけの基礎っていうものは完了してきました。
そして、あと依然として残るのは、やはり、個人幻想っていうものの諸問題っていうこと、それから、もうひとつは共同幻想、つまり、国家に対する諸問題っていうものの考察っていうものがあるわけですけど、それは、かならずしも、全面的に、現在、完成されてはいませんけども、しかし、われわれが最も進んだ見解をもっているってことは、まったく確かなことなわけです。われわれはそういうことでやってきたわけです。

6 エンゲルスの国家論への批判

 ぼくの築いてきた体系っていうものを、ぜんぶわたってお話するわけにいきませんから、ここで、国家の問題っていうものをとってきて、わたしたちがどういうふうに考えてきたか、で、どういうふうに、いわゆる神話っていうものを、つまり、進歩的神話っていうものを、なんら煩わされることなく、自らの考えを展開してきたかってことを、お話してみますと、さきほどいいましたように、国家っていうものの共同幻想というものは、かならず、家族っていうものを通過して、建設されていくわけです。だから、いちばん、国家っていうものの起源っていうものを考察する場合には、それは、どうしても、家族っていうものの考察を抜きにすることができないのです。
つまり、みなさんは家族なんていうと、まるで政治的な問題とかかわりがないように考えられるかもしれませんけども、それは違うのであって、国家の共同幻想性っていうものは、家族の共同幻想性っていうもの、つまり、家族の一対となった幻想っていうもの、それから、その基盤である、人間の生理的、あるいは、性的関係、つまり、婚姻形態っていうようなもの、そういうものと切り離して考察することができないわけなんです。
だいたい、レーニン以降のロシア・マルクス主義っていうものが、そういう国家論の原点としてとってきたものは、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』っていうもの、それが、レーニン以降における国家論っていうものの基盤になっております。そして、それが、日本のマルクス主義者たちを、模倣させ、悩ませ、そして、現在に至っているってこと、そして、それが、現在、さまざまなかたちで、き裂を生じ、分裂を生じているってことが、国際的にいえるわけなんです。
そうだとすれば、われわれは、日本における、諸々のロシア・マルクス主義的な知識人っていうものの批判っていうものを、ここに具体的に、まあ暇があればやりますけど、やるよりも、その原点であるエンゲルスの考え方っていうものを徹敵的に検討したほうがいいだろうと、そういうふうに思います。
それを検討していきますと、まず第一に、ようするに、家族っていうものと、国家っていうものが結合する、つまり、どういうふうにつなぎ合わされるかっていうような、そういう段階っていうものが、ひとつあるわけなんです。
その段階において、たとえば、エンゲルスが想定したものは、原始集団婚であり、また、原始集団婚から兄弟姉妹の自然的性関係っていうものをタブーとして、つまり、禁止として排除したプナルファ婚姻形態っていうもの、そういうものが考察の対象、つまり、共同体ってものに、家族集団が転化する場合の契機として、考察の対象になったわけです。
エンゲルスがそこでとった考え方はなにかっていいますと、ようするに、どういうふうにしたら、家族集団っていうもの、あるいは、個々の家族、それはさまざまな形態をとりますけど、個々の家族の集団っていうものが、一種の共同体、つまり、いいかえれば、前国家的段階ですけども、その共同体に転化するっていうふうな、その考え方がでてきうるだろうかっていうような、そういう問題が、まず、エンゲルスをとらえたわけです。
その場合に、エンゲルスがとった考察っていうものは、なにかっていいますと、ようするに、集団婚っていう段階を、動物的な段階からの、ひとつの進歩として、進歩の一段階として想定するってことなんです。
その集団婚っていうのは何かっていいますと、ある部族があるとすれば、その部族内におけるすべての男性は、すべての女性と婚姻関係を結ぶことができるってことなんです。そういうふうに想定しますと、さきほどいいましたように、対幻想、あるいは、家族っていうものが、そのまんま部落大に拡大しうるわけです。いいかえれば、共同体にまで、直接、拡大できるわけです。
つまり、エンゲルスは、そういう原始集団婚、あるいは、集団婚段階っていうものを想定することによって、男女の一対の男女の性的諸関係っていうもの、性的自然関係っていうものが、部落大に拡大する契機っていうものをとらえようとしたわけなんです。
その場合に、なぜ、部族、あるいは、部落内のすべての男性とすべての女性が、性的自然関係、あるいは、生理的性関係を結びうるようになったかっていうと、それが、ようするに、人間が、動物と違って、ようするに、嫉妬から解放されたからだっていうふうに考えたわけです。嫉妬から解放されたから、いわば、集団婚が一段階として、ある程度、永続的に成立したんだって考えたわけです。
しかし、この考え方っていうのが、まちがいであるだろうっていうことは、すぐに考えることができるわけで、つまり、具体的にいえば、すぐわかるわけですけど、もしも、たとえば、ここに、自然的な性関係として、たとえば、ひとりの男性をとってきて、それがたくさんの女性と性的自然関係を結んでいるっていうふうに想定しますと、そういうふうに想定された男性っていうやつは、まったく女性と性的自然関係を結んだことがない男性よりも、嫉妬感情は薄いだろうってこと、薄らぐだろうってことは考えられるわけです。
つまり、原始集団婚、あるいは、集団的な性関係っていうものを多く結べば結ぶほど、人間っていうものは、嫉妬感情を減少するものであるってことは言えますけども、嫉妬感情からの解放ってことが、逆に、原始集団婚を成立せしめたっていう論理は、まったく逆立ちしてるってことがいえます。

7 原始集団婚と母系制をめぐって

 それから、もうひとつ、いえることは、家族の発展段階において、ひとつ想定されるのは、母権制、あるいは、母系制ということなんです。母権制、あるいは、母系制ということは、なにかと申しますと、たとえば、その集団婚みたいなものを想定しますと、そのなかのひとりの女性である母親ってものをとってきますと、その女性が、部落におけるすべての男性と性的な自然関係を結ぶことができると、そうしますと、あるとき妊娠して、子どもを産んだと、そうした場合に、その母親は、自分の産んだ子どもを、部落におけるほかの子どもと、もちろん、区別することができるってこと、つまり、どんな教育の仕方、あるいは、育て方をしようとも、ようするに、自分の産んだ子どもは、ほかの女性が産んだ子どもと区別することができる。
だけども、その父親っていうのは誰だかわからないと、なぜならば、部落中のどの人間とも性的自然関係を結ぶことができるわけですから、だから、わからない、その男性っていうものは、つまり、父親というものは誰だかわからないと、したがって、子どもを認知すること、つまり、次の世代ってものを認知する唯一の根拠は、母系だってこと、母親によって認知される以外にないってこと、そういうことが、エンゲルスが、母系制っていうものが成立したことに対してとった基本的な考え方です。
これは、いろんな学者によって、名前をあげずに盗作されています。つまり、剽窃されています。しかし、この考え方もまた、きわめて危ないってこと、つまり、きわめて怪しいってことがわかります。
ぼくの考えでは、たとえひとりの女性が、部落中のすべての男性と毎日のように性的自然関係を結んでいたとして、あるとき妊娠して子どもを産んだとしても、ぼくの考えでは、その子どもの父親が誰であるかってことを、母親が完全に知っているっていうふうに思います。そうしますと、母親が知っているとすれば、それは、部落中の人間が知っているってことと同じことを意味します。それは、現在の都市のような、密集した集団でないわけですから、それは当然なことであって、母親がもし、父親を指摘できるならば、部落中の人間がそれを指摘できるってことは明瞭なことだっていうふうに考えます。
だから、エンゲルスが母系制成立の非常に基盤として考えた、そういう考え方っていうものは、まことに危ういというふうに言わなければなりません。こういうふうに考えていきますと、原始集団婚の段階っていうものを、そういうものを一段階として、人類がとってきた婚姻形態、そして、婚姻形態が共同体の形態に拡大する一契機として、一段階として、想定するっていう考え方は、きわめて危ないってこと、つまり、きわめて批判さるべきものだってことがわかります。
それならば、どういうふうに批判されるべきかっていいますと、それは、さまざまな批判の仕方があります。たとえば、原始集団婚をとらないような、そういうような部族っていうもの、あるいは、現在も存在している、未開の地域における部族っていうのも、また、存在するっていうような、そういうようなことでも、それは実証できるでしょうけど、しかし、わたくしは、べつに古代史の学者ではありませんから、そういうことで、原始集団婚の段階を一段階として想定するっていう考えを、そういう意味から否定するってことに、自らをかけたあれをもっているわけではありません。しかし、理論としては、否定されるべきだって考え方がわかります。
つまり、なぜかといいますと、エンゲルスがそういうふうに想定したのは、なにかといいますと、人間の自然的な性行為を基盤にする家族っていうもの、そういうものを経済的な範疇として捉えたってことです。つまり、経済的な、最初の人間における分業として考えたってこと、つまり、子ども自体、あるいは、人間自体を生産することにおける男女の分業っていうふうに考えたこと、いいかえれば、そういうことによって、最初の階級発生っていうもの、階級発生の基盤が子どもを生産することにおける男女の分業ってものに発祥するっていうのが、エンゲルス、もちろん、マルクスもそうですけど、の階級発生の非常に根本的な考え方です。
しかし、この考え方っていうものが、問題になるので、ここでエンゲルスが考察を落としたっていうふうに思われるのは、家族、あるいは、一対の男女における性的関係っていうもの、性的な自然関係っていうものを基盤にする家族っていうもの、あるいは、そういう一対の性的自然関係っていうものは、かならず、幻想性っていうもの、あるいは、観念性っていうものを、かならず、生みだすものであるってこと、つまり、かならず、自己疎外するものであるってこと、そういうことを考察の対象から除いたってことが、最も原理的な誤りだっていうふうに考えられます。
それならば、一対の男女の性的諸関係、自然関係っていうものを基盤にする家族なるものは、かならず、対となる幻想っていうもの、一対となった幻想性っていうもの、あるいは、幻想の共同性っていうものを、かならず、つくりだすものだっていう考察を、ここに導入していきますと、こういう考え方を導入していきますと、エンゲルスのいうように、原始集団婚っていう段階を想定する必要はまったくないってことがわかります。それは、実証的にないばかりでなく、原理的に、ようするに、理論的にないってことがわかります。

8 対幻想とは何か

 そうしますと、対幻想、対になる幻想っていうものの考察になるわけですけど、対なる幻想性っていうものは、なにかっていいますと、それはたとえば、父親、あるいは、母親の世代、つまり、両親の世代と子どもの世代の間にもありますし、同じ子供の世代でも、兄弟の間にもありますし、また、姉妹の間にもありますし、兄弟と姉妹の間にもあります。
たとえば、兄弟の間の対なる幻想っていうものは、もちろん、同性愛でないかぎりは、自然的な性行為を伴いませんけども、幻想性としての対幻想っていうものは、存在しうるというふうに考えることができます。
それは、きわめてゆるいものでありますけど、つまり、俗な言葉でいえば、赤の他人と兄弟とは違うさっていうような、そういうことなんですけど、つまり、そこでの対幻想っていうものは、自然的な性関係っていうものを伴わないけれども、兄弟の間には、対幻想なるものが存在するってことがいえます。同じように、姉妹の間にもそれが存在するっていうふうにいえます。そして、消滅するわけです。
つまり、これは、みなさんが、経験に鑑みても、おそらく、理解されるだろうと思いますけど、兄弟の間の対なる幻想性っていうものは、両親の世代が死滅してしまうと、非常に赤の他人っていうふうになる、つまり、対幻想として、非常に消滅を受けやすい、あるいは、腐蝕を受けやすいっていうふうにいうことができます。
ところで、兄弟と姉妹との間の対幻想っていうものは、これもまた、自然的な性行為ってものは、なんらかの禁止によって、存在しないわけですけども、しかし、わりあいに永続的だっていうことができます。それはもちろん、両親の世代が存在しなくなったとしても、わりあいに永続するってことができます。
もちろん、自然的な性関係ってものを伴いませんから、特殊な場合を除いて、伴いませんから、もちろん、夫婦っていう関係よりも淡い関係だっていうようなふうにはいえますけど、ゆるい関係だってことはいえますけど、ゆるい対幻想だってことはいえますけど、しかし、わりあいに永続性をもった対幻想だってこと、つまり、一世代で滅びるようなものではないってことがいえます。
そうしますと、たとえば、母系制、あるいは、母権制社会っていうものの段階を想定しますと、姉妹っていうものの家族っていうものを、いわば、幹として考えますと、それに対して、兄弟っていうものは、地域的にも、あるいは、家族体系のなかでも、きわめて別個のもの、つまり、まったく関係のないものに転化していくわけです。つまり、関係のないものであるわけです。しかし、その間には、いわば、対幻想なるものが、わりあいに永続的に存在するってこと、そして、それがある意味で、同じ母親っていうものから出たってことによって、わりあいに強固な、ある意味でまた、そういう意味では強固な対幻想の関係っていうものを想定することができます。
そうしますと、家族形態ってもの、あるいは、家族集団っていうものの集合が、部落共同体的な、つまり、共同体的な段階まで拡大できる唯一の基盤っていうもの、唯一の根拠っていうのは、兄弟と姉妹との間の対幻想によるってことが結論されます。
これが、ようするに、いいかえれば、氏族的な段階、あるいは、前氏族的な段階っていうものの共同性であるわけです。つまり、これは一般に、古代史の学者が使う言葉でいえば、血縁集団っていうふうに、血縁的な社会集団っていうふうに考えられるわけですけど、つまり、家族形態ってものが、いいかれば、性としての人間っていうものが、共同体の範囲にまで拡大しうる、唯一の基盤っていうものが、兄弟と姉妹との関係であるっていうことができます。こういうことが、実証的にも、もちろん、いうことができるわけです。
これは、日本の種族の神話である『古事記』なら『古事記』ってものをとってくれば、そのなかでの、たとえば、アマテラスっていうのと、スサノオの関係っていうものがそうですし、それから、みなさんが、ジャーナリズムでいろいろ取り上げられているからご存じでしょうが、いわゆる、邪馬台国論争っていうものもありますけど、邪馬台国なんてものは、なにかっていいますと、あれは、ようするに、兄弟の、母系系列っていうものの頂点に位する女が、ようするに、宗教的な権力をもっているってこと、そして、その弟が政治的な権力をもっているってことなんです。政治的な、つまり、現世的な権力をもっている、そして、だいたい、弟がもっている政治的な権力っていうものは、何によって媒介されるかっていうと、ようするに、その頃は、宗教感情っていいますか、宗教性の優位の段階ですから、ようするに、宗教的権力のほうが、現世的権力よりも優位な段階ですから、ようするに、姉妹に相当する女性の、神からの御託宣っていうものに則って、その同じ母親から出た弟である者が、その御託宣に則って、政治的な現世権力を支配するってこと、そういう形態ってものが、邪馬台国なんていうものの基本的な構造であるわけです。つまり、この邪馬台国なんてものは、比較的あたらしいんですけど、もうすこし、さかのぼって、原始的に考えることができるわけですけど、そういうものが、いわば、氏族的、あるいは、前氏族的段階における共同体ってものの権力構成の仕方のひとつのかたちっていうふうに考えることができるわけです。
そうしますと、そういう考え方をきわめて明確に導くためには、エンゲルスのいうように、経済的範疇でのみ、性としての人間、つまり、一対の男女における、子どもを産むことにおける分業っていうもの、経済的範疇でのみ考えるってことによっては、そういうことが了解できないわけです。そういう考え方でいくかぎりは、集団婚ってものを想定する以外にないっていうような、集団婚を人類史の一段階として想定する以外にないってことになります。
しかし、ほんとうは、そうではないので、経済的範疇としての性的な行為ってもの、自然行為ってものは、かならず、幻想性ってものを、かならず疎外するってこと、つまり、幻想性ってものを、かならず伴うってこと、そういう考え方を導入していきますと、共同幻想としての、幻想の共同性としての権力、あるいは、国家の前段階ってものを了解するのに、きわめて、よく了解することができるってことがわかります。

9 氏族集団から統一部族国家への移行の契機

 それから、もうひとつ、エンゲルスの国家論の段階、ことに国家の起源に対する考察のなかで、問題となりうるのは、経済的な範疇でだけ、発展段階を考えていきますと、前氏族的段階、あるいは、前氏族的社会ってもの、いいかえれば、血縁的な集団社会なんですけど、氏族的集団段階ってものが、いわば、それ自体でじゃなくて、つまり、それが発展段階として発展したかたちが、ようするに、国家の最小形態である、部族的な社会における、つまり、統一権力の成立っていうような段階に移行しうるっていうような考え方がでてくるわけです。
しかし、ほんとうはそうじゃないので、もし、血縁手段、つまり、一対の男女の自然的な性関係っていうものが、かならず、幻想性を伴うものだって考え方からしますと、けっして、血縁集団ってもの、血縁で、なんらかのかたちでつながった氏族的な集団ってものは、けっして、統一国家っていうものを成さないってこと、つまり、統一的な部族国家っていうものを成さないってことがわかります。
つまり、そのまんま、それが発展して、統一的な部族国家になることはありえないんだってこと、つまり、統一的な部族国家を成立するためには、なんらか、べつの契機が必要とするわけです。つまり、いいかえれば、共同幻想として、氏族的な共同幻想と次元の違った段階で共同幻想ってものが成立しないかぎりは、国家の原始的な最初の形態である、部族統一国家っていうもの、そういうものは、成立しないってことがわかります。
つまり、ここでは、単に発展段階ではなく、経済発展段階の必然が、国家の共同幻想性の発展段階を規定するのではなくて、つまり、経済的な発展段階が、かならず伴うところの、共同幻想性っていうものを、次元としての飛躍、高度化っていうものを、そういうものが、最初の統一部族国家っていうものを成立させたんだっていう考え方がでてきます。
そうしますと、エンゲルスの考え方っていうのは、そこでも、きわめて経済主義的であり、あいまいであるってことがわかります。これは、現在の家族論の学者たちが、エンゲルス以降、モルガン・エンゲルス以降発見された、さまざまな原住民の調査によって実証的に否定しているところですけども、実証的否定ってことに頼らずとも、原理的にそれは否定されるべきであるというような、原理的にそういう考え方はとられないっていうようなことがわかります。
そうしますと、国家の共同幻想性っていうものの位相は、エンゲルスの考えるように、経済的な諸発展っていうもののある段階が、必然的に生みだす公権力の形態として、国家が考えられるべきであるっていうような考え方が、そのまんま採用されないってことがわかります。
そうしますと、国家っていうものの成立、あるいは、国家っていうものの共同幻想性っていうものの構造っていうものを把握していくためには、曖昧な位相で、経済的な範疇の諸発展っていうもの、生産関係、あるいは、生産力の発展の段階っていうものと、曖昧なかたちで、国家っていうものを結び付けることができないってことがわかります。
そういうことが、たとえば、エンゲルスの考察の、国家論の中の、最も、いわば、欠陥を構成するわけです。そして、現在、日本におけるロシア・マルクス主義者たちがとっている考え方っていうのは、もちろん、エンゲルスの考え方の模倣に過ぎませんから、もちろん、それは、否定されるべきであるっていうような、そういう見解に到達します。

10 共同幻想としての国家の位相

 それならば、国家っていうものは、どういうふうに考察されるべきかっていう問題がでてきます。そうしますと、国家っていうのは、なにかっていう問題、つまり、レーニンの国家と革命の言い草ではないけれど、「国家なくして、いかなる革命もありえない」っていうような、あるいは、革命の問題は、国家の問題だっていうような、そういう考え方における、国家っていうものはなにかっていうことは問題になってきます。
国家っていうものは、なにかっていいますと、それは、幻想の共同性だってこと、そして、それ以外のなにものでもないってこと、それが国家に与えられる唯一の規定であるってこと、それじゃあ、国家っていうものの実体っていいますか、構造っていいますか、そういうものを探っていく場合に、考えていく場合に、なにが共通の考察の基盤になりうるかっていいますと、それは、ただひとつのことです。
つまり、国家っていうものの共同幻想性っていうものを、その構造において把握するっていう場合、各種族において、実体構造はそれぞれに異なるわけですけど、その実体構造を構造において把握するっていう場合には、経済的諸範疇っていうものが、あいまいに結び付けられてはならないってこと、あいまいに結び付けられてはならないならば、どういうふうに結び付けられるかっていいますと、それは、ある構造として、国家の構造に、つまり、国家の実体構造に、経済的諸範疇っていうものは、関連してくるっていうようなこと、そういうところまでは、経済的諸範疇っていうものは退けて、国家っていうものの実体は考察することができるってことです。
したがって、国家権力の工程の形態ってものは、そういうふうに考察をすることができるってこと、つまり、国家っていうのは、そういうふうに、いわば、単に経済的諸関係の反映でもなければ、それに対する相対的独立性でもない、ようするに、国家っていうものの考察は、かならず、構造的考察、あるいは、実体的考察っていうものは、かならず、経済的諸範疇っていうものを、ある構造として、国家の構造に関連してくるっていうようなところまでは、経済的範疇を考慮のほかにおいて考えることができるっていうような、それに、国家の共同幻想性っていうものは考えることができます。
こういう考え方っていうものは、一般に、日本におけるロシア・マルクス主義者っていうものが、まったく考えることが、あるいは、承認しないところです。しかし、われわれの考えでは、その考え方こそが、ようするに、国家学説についての唯一の考え方であり、そして、その起源にあるところの問題っていうものは、どこに発祥するかっていうと、エンゲルスの国家論の考察、あるいは、国家、家族についての考察っていうものに、その源泉があるということ、そういうことが了解してわかります。

11 「沈黙の言語的意味」を思想としてくみこむこと

 そうしますと、このように規定された国家っていうものを考えますと、このような国家の共同幻想性に対して、対峙するものは、つまり、拮抗しうるもの、あるいは、これと逆立しうるものは、なにかっていいますと、それは個人幻想であるっていうことができます。
つまり、本質的にいえば、個人幻想のみが、国家の共同幻想性に対して、逆立しうるものだっていうことができます。つまり、いいかえれば、たとえば、文学・芸術とか、ようするに、個人の観念が生みだす、そういうものの存在ってものが、国家の共同性に対して、本質的に逆立ちするもの、あるいは、国家が逆立ちしているって考えうる唯一の基盤っていうものは、個人幻想っていうもののなかにしか存在しないってことがわかります。
そうしますと、それじゃあ、なぜ、反体制的な、反国家権力的な、あるいは、国家権力に抗する共同幻想性、共同性っていうものが、なぜ、成立するのであるかっていうような問題になりますけど、もちろん、本来的にいえば、国家の共同幻想性に対峙しうる、対立しうる共同幻想性っていうものは、本来的には存在しないのです。
しかし、われわれが、かろうじて、それが存在しうるっていうようなことを想定することができる一点があります。それは、なにかっていいますと、国家の共同幻想っていうのに対して、国家の共同幻想性の具体的な第一のあらわれっていうのは、法っていうもの、あるいは、法律っていうもの、いいかえれば、法律的言語っていうもの、法律的な言葉っていうものにあらわれますけど、つまり、法律的な言葉に対して、対峙しうる、その対極にある幻想っていいますか、原型として想定される大衆の沈黙の意味性ってこと、沈黙の言語的意味ってこと、つまり、沈黙の言葉の意味性っていうもの、そういうものを、たとえば、反体制的な政治共同性が思想としてくみこむことができるとすれば、かろうじて、そこに反体制的な意味での共同幻想性ってもの、共同性ってものが成立するってことができます。
だから、もちろん、たとえば、レーニンならレーニンってものが考えた党っていう考え方がありますけども。つまり、党、あるいは、前衛党っていうような考え方がありますけど、その考え方の本質っていうのは、もちろん、そういうものであったわけです。つまり、沈黙の有意味性として、沈黙の言語的意味として存在している、原像としての大衆、つまり、そういうものを、たえず、すくい取ることができること、思想的問題としてすくい取ることができる、そういう存在っていうものを、党、あるいは、前衛党っていうふうに考えたわけです。
しかしながら、レーニンが実現したものは、まったく、そうではないわけで、レーニンが実現したものは、ようするに、少数におけるイデオロギー的な知識人の間に、おしゃべりな大衆、啓蒙された中途半端な大衆を集めたってこと、それが、ようするに、レーニンが実現した党であるわけです。
レーニンが実現した党っていうものは、必然的にそういうものであったがために、やはり、大衆に対して逆立する要素をもったわけです。それが、ようするに、ロシアにおける官僚制っていうものの根本にある問題はそういうものであるわけなんです。
この問題は、レーニンにおける文化に対する考察、あるいは、トロツキーにおける文化に対する考察のなかにもあらわれてきます。つまり、レーニンやトロツキーが、いわゆる、おしゃべりな、中途半端なイデオローグたちに、たえず警告したこと、あるいは、中途半端な、いいかえれば、声明なんかを発しているような、そういういい加減なチンピラに対して、たえず警告したことは、プロレタリアートっていうものの文化っていうものは、けっして、ある党派のなかで純粋培養することによっては、けっして、つくりだすことができないものであるってことなんです。それを、たえず警告したわけなんです。
つまり、いっけんすると、非常にラジカルにみえる、いわゆる進歩的文化人ってやつは、あるいは、革命的文化人ってやつの党派的文化理論っていうものが、なぜ違っているか、なぜダメなのかっていう問題は、つまり、プロレタリア文化っていうものは、そんなものは、ある党派で純粋培養したって、けっして、できないんだぞってこと、つまり、そんなもので生みだされるもんじゃないのであると、つまり、それが、ようするに、資本制に至るまで発展してきた人類の全文化段階ってもの、全文化的遺産ってもの、そういうものを、プロレタリアートっていうものが乗り越えたとき、つまり、文化的に乗り越ええたとき、はじめて、プロレタリア文化っていうのは開花するのであって、それには、非常に長い、忍耐強い、年月を必要とするんだってこと、そういうことを繰り返し、繰り返し、警告しているわけです。
しかし、そういう一旦いかれた連中っていうのは、どうしようもないので、そういう警告なんかにおかまいなしに、自己回転していくわけで、そこでプロレット・クルトっていうものができあがり、それから、ようするに、党派的文学っていうものができあがり、それで、社会主義リアリズムっていうものが、現在、できあがりっていうような、そういうかたちになってあらわれてきたわけです。
そんなものは、ようするに、問題にならないってこと、そんなものは、いくら問題にしたってしょうがないってこと、ものの単位にはならないってこと、せいぜい、なにを成し得るかっていえば、政策的に、文化政策をゆるめることによって、いわゆる雪どけを実現するっていうような、そういうようなことしかあらわれない、つまり、そして、雪どけが、ようするに、ゆき過ぎだっていうふうに、政策的に考えられたときには、それをぶっ叩くってこと、そういうことを繰り返し、繰り返しやっているわけです。
つまり、そこには、文化についての本質的な考察っていうものは、すこしも存在していないわけです。それが、現在における社会主義リアリズムっていうようなものに適用する、つまり、プロレタリア文化運動っていうものから発展する社会主義リアリズムっていうようなかたちで、現在に至っている、そして、それがなし崩しされている、そういう文化の実体っていうものは、根本的には、そういう本質的な洞察を欠いてるってことに起因している、つまり、原因を求めることができます。

12 国家についての徹底的な考察を

 つまり、そういうふうに考えていきますと、政治的共同性、つまり、政治革命っていうものは、いわば、共同幻想における革命性ですから、この革命性の成就っていうものは、全革命性の成就とは、もちろん、まったく違うことです。つまり、全革命性の成就っていうものは、少なくとも、いわば、世界的規模っていうものを要求するわけです。
たとえば、中国文化革命なんていうものにおいて、さかんに、当事者は、コンミューンに比すべきものであるとか、あるいは、プロレタリア世界革命だっていうようなことを、さかんに呼号しますけども、そんなものは、プロレタリア世界革命でもなんでもないってこと、そういうことは、なぜわかるかっていうと、つまり、この階級制っていうもの、階級廃絶っていうようなものは、階級制の問題っていうものは、けっして、経済的諸範疇っていうもの、経済的範疇っていうものだけでは、けっして、導くことができないってことなんです。
だから、幻想的範疇っていうものを、つまり、共同幻想がいかにして、個々の共同幻想としての国家権力のもとにおける、個々の、あるいは、地域的な個人幻想、あるいは、部分的な共同幻想に対して、いかに逆立するものであるかっていうような、そういう問題を考察することなしには、階級制っていうものの本質は考察できない、考えられないってことがあるんです。
だから、中国文化革命なんていうものは、中国国家っていうものの廃絶っていうものを棚上げにしておいて、いかに階級廃絶を呼号し、あるいは、プロレタリア世界革命っていうものを自称しようとも、そんなものは、けっして、先見的になんら意味をもちえないことがわかるわけです。これを、たとえば、アクロバットによって、つまり、論理のアクロバットによって処理してはならないってことがわかります。
最近出た書物のなかで、最も不愉快な書物っていうのは、筑摩書房からでている『講座中国』っていう本ですけど、そこでも、連中っていうやつは、ようするに、日本における、たとえば、安保闘争における、現在の羽田闘争でもいいです。つまり、そういう闘争における、たかだか武装闘争っていうこともいえないような、そういう闘争、つまり、武器なき闘争っていうような、そういうものに対してさえ、それをゆき過ぎだって称した連中が、中国文化革命っていうような、少なくとも、権力闘争における流血の惨事っていうのを散々に繰り返し、そして、文化人、あるいは、文学者に対して、ようするに、まったく現象的な弾圧しかできないっていうような、弾圧しかしていないっていうような、そういうものは、文化革命っていうものの理念に対して、まったく盲従的な言辞を弄しています。しかしながら、わが国の、わが国家権力における武装なき闘争でさえ、ゆき過ぎであるっていうようなことを、そういう連中はいうわけである。そういう連中が、なぜ、中国問題に対して、肯定的な評価を与えるのであるか、まったく不可解であると、ようするに、本質的な野次馬としてしか考えようがないわけです。それが、ようするに、現在における、日本の国家的諸問題における、本質的な問題として存在するわけです。
彼らがもし、戦争中において、リベラリストであり、たしかに銃をとり、あるいは、言葉によって戦争に迎合したけども、しかし、心の中では反対してたんだと称する、そういう二重性を彼らが生命とするならば、あくまでも、リベラリストとしての思想っていうものを、断固として主張してもらいたいっていうふうに、ぼくは思います。
それは、いっけんすると、ラジカルでないかもしれませんけども、しかし、思想としては、きわめて生産性をもつものなんです。つまり、つまらないことに迎合してもらいたくないと思うんです。
たとえば、これは、ベトナム戦争に対しても同じです。つまり、ベトナム戦争における、たとえば、アメリカにおけるベトナム戦争反対運動っていうのは、あきらかに、それは、アメリカ国家権力に対する反対っていうものを、直接的に予想されるものです。しかし、日本における、ベトナム反戦運動っていうもの、そういうものは、べつに、日本の国家権力に対して、直接の対抗性っていうものをもたないわけです。つまり、日本国家権力における本質的な問題っていうものは、ベトナム反戦運動のなかに、情況的本質をもたないってこと、つまり、そういうことについての、自覚的考察すらないっていうこと、そういう問題っていうのが、現在でもあらわれているわけです。
これは、文化っていうものに対する基本的な考察、それから、政治運動に対する基本的な考察、そして、国家っていうものに対する基本的な考察、理論的な考察、そういうあらゆるものの連関性をもっていますけど、つまり、そういうものに対する考察が、あらたに、決定的に、つくられていかなければならないってことを、ぼくたちが当面している情況っていうものは、もし、思想的観点からいうならば、そういうような過酷な問題っていうもの、それから、徹底的な問題性っていうものをはらんでいるってことをいうことができます。
それが、現在、われわれが当面している問題であるわけです。だから、そこの問題っていうものは、早急には解かれないでしょうけど、しかし、それを解くという課題に、やっぱり、取り組むことが、思想としての問題であり、わたくしたちが当面している、思想における、最も相対的な、あるいは、総合的な、あるいは、全体的な課題であるということができると思います。
そういう問題意識が、われわれは、現在におけるまで、いっこうに、全般性をもたないってこと、全般性をもちえないってことに対して、すこしも悲観しておりません。なぜならば、ぼくらは全般性をもちえないだろうと、しかし、やるだけのことはやるのであると、それはやっぱり、ぶっ倒れても、それだけのことはやるのであるっていうような、そういうところを出発点としたわけですから、われわれは、いっこうそれを意に介しないってこと、われわれっていうと、責任逃れのように思われるといけないから、わたくしといってもいいわけですけど、つまり、わたくしは、そういうことは、いっこうに意に介しないってこと、わたくしは、そういうふうに、現在の情況を考え、そういうふうに、わたくしは、思想形成をしてきたっていうふうにいうことができます。それが、みなさんに対して、なんらかの参考になれば、つまり、みなさんの考え方を展開して、その触発する材料になれば、それでもって瞑すべきとしなければならないというふうに考えております。これで、いちおう終わらせていただきます。(会場拍手)

13 質疑応答1

(質問者)
 2点にわたって質問したいと思います。最初は、人間集団の共同の幻想っていうことはわかりましたけど、その前におっしゃったところの、混乱のなかの平和、ないしは、平和のなかの混乱っていうものを、対立概念では、ぼくはないと思うんです。混乱のなかの平和を、ひとつの幻想の調和だっておっしゃったんですけど、混乱と平和、たしかに、どちらか一方には戦いがあって、一方にはそういう家庭生活があると、そういう二面的なものは、かれらが備えているとは思いますけど、けっして、対立概念ではないと、究極的に次元の異なったものではないかと、そういう観点から、ぼくは、情況の調和、幻想の調和っていうものに対して、よくわかりません。
 それから、二番目、これは簡単な問題、インテリゲンツィア、ないしは、文化人の○○っていう問題ですけど、この件に関して、文学者、インテリゲンツィア、文化人、なかでも文学者、芸術家の究極的な任務、ないしは、情況に即した当面の任務っていうものに対して、先生は、沈黙っていう言葉を使われましたけど、沈黙であるならば、ぼくたちは、その沈黙に対しては、了解し得ないはずなんです。ところが、この沈黙っていうひとつの行動のなかに、なんらかの情況に対するアンチテーゼっていうのを、もし先生がおもちでしたら、それはやっぱり、先生がそのなかで大衆にアピールするとか、そういうかたちでしか、参加できないのではないかと、究極的にもし沈黙してしまうのでしたら、なにもわからない人と、まったく同じではないかと、まったく関心をもたない人と、以上の2点です。

(吉本さん)
 それじゃあ、最初の問題からお答えしますと、けっして、ベトナム国家権力のもとにおいても、それから、日本の平和ムードのなかにおいても、平和のなかに、また戦いがあり、戦いの場面でも平和があるという、そういうことは、対立概念でないってことは、そのとおりで、べつに対立概念としてお話した覚えはないので、それは、実体として考察されるべきだというふうに考えます。
それから、沈黙ですけど、知識人っていうものが、国家の共同幻想性が、法として、つまり、法的言語として、まず、規制していくっていうのは、そういう問題に対して、沈黙するのが知識人であると言った覚えはないので、それは、原像として、あるいは、原型としての大衆ってものが、沈黙の言語的意味として、それに服従しているのであって、啓蒙家、ないし、あなたのような政治運動家ってやつが想定しているように、ただ服従しているのでは、けっしてないってこと、つまり、沈黙のいう言語的意味っていうものを、思想として取り出しえないならば、そんなものはナンセンスに過ぎないってことを言ったわけで、知識人っていうものは、べつに沈黙性として存在しているのではないので、知識人っていうものは、それは、個人として考えても、共同性と考えても、それは、けっして、国家権力にはいきつきませんし、また、大衆の沈黙性にも戻ることができないという、まことに無惨な存在であるというようなことができます。
それは、だから、聞き違いと、それから、沈黙性というものを、大衆の沈黙性を、ただ単に、政治的無関心っていうふうに考える発想に、問題があるっていうふうに思います。
ぼくは、大衆の沈黙っていうものを、単なる黙っているという、そういうものとして考えておらないので、大衆の沈黙のなかには意味があると、つまり、言語的意味があると、法として規制してくる国家権力に対して、沈黙の言語的意味として対峙しているっていうような、そういう意味性っていうものがあると、つまり、そういう意味があるんだと、そういうふうに大衆を理解しないものは、大衆を単に権力に、唯々諾々として、従っているものというふうに理解する、そういう理解に到達するほかないということ、そういう理解の仕方っていうものは、啓蒙家の一般的な発想であって、しかし、思想家の発想では、けっしてないってこと、あるいは、思想者の発想ではないってこと、思想者としての知識人っていうものは、たえず、大衆の沈黙の意味性、あるいは、言語的意味性っていうものを、法律言語に対して対峙している、意味性っていうものを、たえず、くみとることができる者を、それを思想者っていうふうに指すのであって、それは、啓蒙家っていうものと、思想者っていうものを、根本的に分かつものだっていうふうに、わたしは考えております。それがお答え。

14 質疑応答2

(質問者)
 いまの知識人の部分でひっかかったんですけど、知識人っていうのは、なにか曖昧な存在だっていうけど、レーニンにしても知識人であったと思うんですね。それは、まあどうでもいいんです。そういうことを聞きたいわけじゃなくて、いまの話を聞いていて、すごく明快でわかりやすかったわけですけど、明快でわかりやすかったっていうことがきわめて納得いかないのです。
なぜかっていうと、対象として扱ったもののレベルが低かったっていうことが多分にあったんじゃないかと思います。吉本さんの考え方は、いま聞いていたかぎりでは、論理的体系のひとつで物事をとらえるっていう考え方だと思うんです。
そうすると、論理的体系とは一体何かっていうと、ひとつの連続観念をもつものだと思うんです。連続観念とは何かっていうと、論理的体系はどういうことかっていいますと、ひとつの先見的な網の目とかそういったものを目指すものだと思います。だから、当然、秩序感っていうものがあると思うんです。
そういう秩序感がなければ、論理的体系っていうものは組み立てられないと思うんです。連続的な秩序感の目指すものっていうのは、やっぱり、進歩性につながるのではないかっていうのが、ひとつの疑問であって、それが、もうひとつ、ひっかかったっていうことが、幻想っていうことなんですけど、共同の幻想なんてものは、そんなもの絶対ないと思うんです。
幻想はまず、個人の幻想だと思うんです。なぜかっていうことは、共同体ってことは、実際の問題にしたってこと、共同体として幻想、個々の幻想っていうのは、存在感においては、分離できないものだと思うんです。連続性っていう観念は、共同意識がなければ成り立たないですけど、だから、この、今回のふれこみでは、詩人、吉本隆明さんっていうふうになっているんです。そういうことになってたんですけど、そうすると、論理体系の連続した連関を目指すものって、すごく矛盾しちゃうんです。連続性、進歩性なんてものを、ひとつの断絶でもって、言葉っていうこと、そのものが連続性をもっているかもしれないですけど、言葉以前の段階っていうものは避けられないことが多分にあると思うわけなんです。
それと、論理体系っていうものの、もちろん、吉本さんの考え方は、矛盾を抱き合わせたかたちで崩壊するっていうのは、そういう弁証法があると思うんです。だから、国家っていうことを問題にされたんですけど、国家というものを問題にすれば、問題に対しては、かならず、国家論争になると思うんです。なぜかっていうと、最初の問題っていうのは、論理のひとつじゃないかと思うんです。
たとえば、ドストエフスキーは、神は絶対いないとか、どうとかこうとかいって、それこそ神を認めるってことになっちゃうと思います。たとえば、アンチ・エンゲルス的、そうすると、いくらエンゲルスの論理がおかしいってことで、アンチ・エンゲルス的国家論っていうような、だから、国家っていうものはなにかっていうと、共同幻想体ではなくて、定着された秩序を目指すものが国家じゃないかと思うんです。だから、国家論者っていうのは、案外、ヒューマニストになっちゃう可能性もあるんじゃないかと、そこのところが鼻につくんですけど、論理がおぼつかないくて、お聞きしたいんですけど。

(吉本さん)
 言わんとしていることはわかります。しかし、あなたの考えに、ぼくは勧誘する意思はないのです。つまり、あなたが、自己の考えを述べられたところに、勧誘する意思がないのです。ぼくの考え方に対する疑問、あるいは、質問としてだされた、そういう問題について、お答えしますと、最初にこう言ってみましょうか。
あなたはいま、ニーチェをとりあげたんですけど、ニーチェの考えっていうのも、ぼくが、どこが違っているかっていうふうにいいますと、違っているかっていうふうに考えるかっていいますと、ニーチェが共同体っていうものと、個人っていうものとを、両方を考察する場合に、たとえば、これは、『道徳の系譜』なら『道徳の系譜』をみれば、すぐにわかるわけですけど、ニーチェは、とにかく、階級っていう言葉を使うことをしなかったんですけど、ようするに、ニーチェはこう考えたんですけど、人間っていうやつが、他人と、つまり、他者と関係するときには、かならず、物件における債務者と債権者っていう関係になるっていうふうに言ったのです。かならず、そうなるんだっていうふうに考えたのです。
つまり、人間っていうのは、個人幻想として、幻想の内部にとどまっている場合はともかくとして、そうじゃなくて、いったん他者っていうものにかかわる場合には、かならず、物件法における債務者と債権者の関係に、かならずなるって考えたんです。
そうしますと、なぜ、ぼくが、そういう考え方が違うと思うかっていいますと、人間が個人幻想としてではなくて、他者と関係するときには、かならず、本質的には、男女として関係するんです。つまり、あらゆる、個人としての人間が、他者と関係する仕方の、最も原始的なるっていいますか、最も本質的なる形態っていうのは、ニーチェがいうように、単なる他者、自己に対して、単なる他の人間ってことじゃなくて、かならず、具体的には、男対女ってなるわけです。そういうふうにしか、人間は本質的に、他者とは関係できないわけなんです。つまり、最初の人間の意識にとって、あるいは、人間の存在にとって、他者っていう概念があらわれる場合には、かならず、それは、男または女っていう概念として、かならずあらわれる。だから、家族形態としてあらわれる。
そして、ニーチェは共同体っていうものにおける個々の成員、つまり、個人個人っていうものと共同体の関係をどういうふうに考察したかっていうと、それをまた、拡張したわけなんです。そして、共同体と個人との関係というものを、共同体が債権者であり、そして、個人は債務者であるっていうこと、つまり、共同体は、物件における債権者であり、個人はその場合に債務者、つまり、債務を負うものである。そして、共同体は、負債を取り立てる権利があるもの、つまり、債権者であると、そういうふうになるんだっていうのが、ニーチェの考察なんです。つまり、共同性に対する考察なんです。
ところで、ニーチェの考察には、違う言葉を使うと、非常にエンゲルスと似ているところがあるんです。というのは、ぼくは真似したんじゃないかと、どっちか知らないけど、どっちかが影響を受けたんだと思いますけど、つまり、共同体内部における個人っていうものは、ようするに、債務者であると、共同体は債権者であると、だから、ようするに、公的な問題、つまり、いろんな、便宜とか、福祉とか、そういう問題をみんな、共同体に預ける代わりに、個人はそのかわりに義務を負うっていう、それを個人内部の問題としてみれば、それは罪の意識っていうもの、つまり、原罪意識っていうものがあるというふうに考えるわけです。
ところで、もうひとつのニーチェの考え方っていうのは、それだけじゃあないと、個人というやつは、共同体に対して、単に債権者と考えるだけじゃなくて、共同体の祖先に対しても、債務があるっていうふうに考えるんだと、つまり、時間的にそれを遡行するものだってこと、だから、いいかえれば、時間的疎外ってやつをやるんだってこと、そういうふうに考えたんだと、だから、種族の祖先に対してもまた、共同体の個人っていうのは、債務を負っているっていうような、そういう考え方をもつんです。それの最初の基盤っていうのは、ようするに、個人対他者っていうもの、そういうものにおける債権者と債務者っていうもの、そういう関係以外にありえないっていうような、そういうことが、ようするに、共同体を債権者とし、個人を債務者とするっていうような、そういう考え方に転化される、歴史的にさかのぼって、共同体の種族の共同祖先ってやつに対してまでも、債務を負っているかのごとく、個人ってやつは考えるんだっていうのが、ニーチェの個人性っていうものと、共同性ってものとの考え方の要点なわけです。
その媒介となる、個人対他者っていうふうに、ニーチェがいう場合に、人間対他の人間的存在って考えたんで、ぼくの考えでは、そんなことはないので、人間が他者っていうものを意識する場合の、最も根底にあるのは、男対女っていうような、そういう関係として、はじめて、他者っていうものを意識する。だから、そういう意味での他者っていうものは、かならず、ぼくの言葉でいえば、べつに性的関係を伴うわけじゃないですけど、ようするに、対なる幻想、つまり、どういう場合でも他者を意識せざるをえない意識っていうものを獲得するわけです。それが、人間と他者との、人間の個人幻想内部の問題じゃなくて、人間っていうものが、他者を意識した場合の、最初の形態っていうものになるわけです。
そういうところが、ぼくの考えでは、ニーチェの考え方っていうのは、非常におかしいじゃないかと、個人幻想っていうものを、他者っていうものに、関係に、拡大したときに起こる問題についての、考察がおかしいじゃないかと、そうじゃないよっていう、そうはならないんだよっていう、そういう考えで考えるから。
それから、共同体に対する考え方も同じで、非常に鋭いこと、つまり、正しいことを言っていると思うんですけど、しかし、共同体における個人っていうものは債務者、それから、共同体は債権者、だから、共同体の公的な機関に、いろんなことを、さまざまなことを処理してもらうっていうような、その代償として、債務を負うっていうようなことを、意識としても、それから、実際的にも考える場合、その債務を弁償しようっていう、そういうあれが出てくるんだっていうような、それが、ニーチェの個人っていうものと、共同体っていうものに対する考察の根底にあるわけです。
それから、ぼくは、詩人としてあらわれたっていうけど、ぼくがなんであるか、そんなことは、ぼくが詩を書くときは詩人になりますし、そうじゃないときはそうじゃないわけです。ようするに、それは人がいうので、あるいは、便宜上、そういうので、ぼくにとって、詩とは何か、思想とは何かって考えた場合に、ようするに、ひとつの原理っていうものがあって、その原理が、さまざまなところに浸透していく場合の問題っていうふうに、ぼくは考えているに過ぎないので、極端にいえば。
それから、もうひとつは、体系っていうのは、秩序じゃないか、それはやっぱり、秩序をつくるんじゃないかっていうことなんですけど、それは、あきらかに、体系っていうのは、体系的秩序っていうのはありますよね、それが、下手にやられる場合には、ようするに、いろんな重要なことが抜け落ちるってことがあります。
ぼくのなかにも、それがあるかもしれませんけど、しかし、それは抜け落ちてはならないという意識は、たえずあるわけで、そのうえで、体系っていうようなことを考えるわけです。
それだけれども、いわば、先ほど申しましたように、秩序に対しては、秩序性の思想っていうものだけが、だけがっていうと怒られるから、その秩序性の思想っていうものを対置しなければならないってこと、なぜならば、現在、たとえば、資本主義社会っていうものがあって、その上に、日本国、国家っていうものがある。それは、幻想性としてある。そういう場合に、それに対して、なにを対峙させるかっていう場合に、ようするに、日本国家としてある国家なるやつは、現在の資本制社会における様々な要因から規制されているわけですけど、国家っていう実態は規制されていますけど、同時に、その国家っていうやつは、長い、原始的な共同体のところから、ながーいあいだ、なにかしらないけど、ずーっときて、その間に、途中に、反乱があったり、革命があったりってことをしながらも、それをあれしてきて、そうして、いまの国家になっているっていう、そういうきつさっていうものはあるわけです。だから、きつさの、歴史的な知恵の集積みたいなものがあるわけです。
そういうものっていうのは、いっけんすると脆弱です。つまり、不合理なことがたくさん行われていて、脆弱なようにみえて、じつは非常に強固だっていうことがあるでしょ。そういうものに対して、秩序、いわば、共同性ですね、それを、思想のシステムで、つまり、体系として、提出されなければ、きわめて、脆弱なものであろうっていう考えがあるわけです。そういう考えが、ようするに、そういう体系性っていいますか、そういうものに駆り立てるわけです。まあ、いろんなことがあります。そんな、おあつらえむきな答えだけじゃなくて、もっといろんなことがありますけど、ぼくは、そういうふうに考えるわけですけど。

15 質疑応答3

(質問者)
 ニーチェの解釈は、吉本さんの解釈として、非常におもしろかったんですけど、むかし、ハイデガーなんてのも読んだことあるんですけど、ハイデガーもまた別の解釈で、近代人のニヒリズム意識からやっちゃうんです。それはどういうことかっていうと、自我が分裂できるんです。自我が分裂しちゃったってことは、自分自身のなかに、自我のなかに他者がいるってこと、他者の見聞からつっついていた気もするんです。
それから、もうひとつ、吉本さんは、他者っていうのが、男女間における他者だって言われたでしょ、男女間における他者ってことは、ひとつの平等っていう概念に置き換えることができるんじゃないか、なぜかというと、それは、ちゃんとつながるってこと、それだと、論理体系に組み込めるわけなんです。ところが、エロチズムの問題があるわけなんです。労働から疎外したものが、ひとつの断絶意識ってやつで、エロチズムなんていうのは、論理体系なんかでは、組み込めないと同時に。エロチズムなんてのが、その問題ってことに関して、ものすごく重要なウェイトをもってくる問題だと思うんです。そんなこと言いだしたのはバタイユです、フランスの。そのバタイユ自身は、ものすごくニーチェの影響を受けて、ニーチェの神の死っていうものを徹底的にやった上でやったように、ぼくそういうふうに理解するんですけど。

(吉本さん)
 だから、おれは再三言っているわけ、ようするに、種族を、男女っていうものの性的な自然関係によって、人間自体を生むってこと、それは経済的範疇だと、それはダメだって言ってるの、ぼくは。そういう経済的範疇としての男女の関係ってやつは、かならず、対なる幻想、ペアーなる幻想っていうものを、かならず、観念でちゃんと疎外するんだってことを言っている。あなたのエロチズムっていう問題は、ようするに、なにをいろいろ色を塗りたくならくても、ようするに、本質は対幻想ってこと、対幻想の問題よ、エロチズムの問題は。それを、さまざまな情感的、あるいは、感傷的、そういうニュアンスを塗りたくったって、そんなものは、みんな、対なる幻想ですよ。

(質問者)
 そうすると、存在自身も幻想になっちゃうわけでしょ。

(吉本さん)
 いや、そんなことないです。全人間的範疇ってことは、ようするに、そのなかに、そういう枠があったらいけませんけども、大別すれば、経済的、あるいは、現実的範疇ってものと、幻想的範疇ってものを、ちゃんと含めているわけです。全人間的存在ってやつは、存在っていう範疇は、それだけのこと、だから、それに対して、エロチズムがエロチズムとして展開するっていうのは、それは文学者の仕事として、非常に興味深い仕事であるとか、そういうことはまた、ぼくが文学的に、展開するっていう、そういう考え方、欲望っていうのもないことはないですけど、しかし、そんなものは、ピラピラを剥がしてしまえば、ようするに、エロチズムとは何か、それは対幻想の問題だ。対なる幻想、ぼくはちゃんと哲学をもっているから…


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