前に『現代詩手帖』主催でおしゃべりしたものが『現代詩手帖』に出ていましたので、それを基にして、そこから延長線を語ることで始めたいと思います。
僕はあのとき、おしゃべりをしてすぐに帰ってしまったので、諸先生がどういう討論をされたのか全然知らなかったのですが、雑誌に載っていたのを見て、おおよそのところがわかったように思います。特に僕のおしゃべりに関連して諸先生が発言されておられたことでいくつか感じたことを、話の糸口として申し上げたいと思います。
僕自身が現在書かれている詩について言いましたのは、要約すると二つのことです。一つは、現代詩の言葉というのが、瞬間的に会話や街頭などで取り交わされる言葉をうまくとらえることができるようになったということがあるのではないか。そのときどき、また瞬間的に取り交わされている言葉をうまくとらえたとき、それが詩になっている。僕らが現代詩と呼んでいるものの意味で詩になっている。そういうことが可能になったということがあるのではないか。そういう通路ができたということが、一つ大きな特徴ではないかということです。
瞬間的にたまたま偶然に取り交わされる言葉に向き直るときの自分の姿勢と、詩を書くときの自分の姿勢は、ちょっと向きを変えなければいけない、座り直さなければいけない、姿勢を正さなければいけないという感じがどうしても伴ったのですが、そういう感情を伴わず、瞬間的、あるいは街頭で偶然に取り交わされる言葉、あるいは自分が何かにぶつかって「ばかやろう」と言った言葉を非常にうまく捕まえると、それが詩として成立する基盤ができたのではないか、それはかなり重要なことなのではないかということを言いました。
もう一つはそれと対照的なことですが、街頭でどんな言葉が取り交わされるか、現実の世界、事実の世界でどんな言葉が語られているか、どういうふうにどういう言葉が意味づけられているかということとはかかわりなく、ある意識の座り方、ある意識の取り除き方をするときに言葉だけの世界に入る。言葉だけの世界に入ったときに、記号性と一緒にシンボル、形象性、あるいは表音性と一緒に表意性というものをじっと眺めて、そのときに出てくるものを詩の世界としてとらえる。そういうまったく対照的と思えるとらえ方が、言葉だけの世界みたいなものとしてかなり完璧な条件で成立するような基盤ができてくる。実際、少数の詩人はそういう試みをやっています。現在書かれている詩というのは、大なり小なり追い込まれているというか、自ら進んでそこへ入っていっていると言ってもいいのでしょうが、そういう言葉だけの世界に必然的に入り込んでいっている。そういう二つのことが、いまの現代詩をとらえるうえで非常に大きな特徴なのではないか。それが、現在書かれている詩を捕まえる場合の非常に大きな目安になるのではないかということをしゃべったつもりです。
そのしゃべったこと自体はかなりうまく通じていたのではないかという気がしているのですが、いくつ心外だなと思うこと……。心外ということでもないのですが、そういうふうに言わないと話が面白くならないので。(笑)心外だなと思うことがいくつかあります。
僕は現在の詩というもの、あるいは書かれている詩というものを現在ということに集約した場合に出てくる問題を丁重に扱ったところ、ずいぶんおとなしくなったという表現がチラリチラリ出ていました。しかし、それは大変な誤解だと思います。そのときに聞いていた方もおられるかもしれないけれど、僕は自分のおしゃべり自体を作品にするつもりでしゃべった。作品になっているかどうかは聞かれた方のあれなので、僕の言うべきことに属さないのですが、僕は諸先生の書いている詩を素材にして自分が作品を書くというつもりでしゃべったのであって、あれを作品として読んでくださらないかというのが僕の願望です。おとなしいか、おとなしくないか、あるいは要領よく捕まえているか、捕まえていないかというふうに読まれるのは多少心外であると思いました。それはこちらの力量不足もあるわけですが、もし僕のおしゃべりを作品として聞いてくれた人がいたらかなり優秀な人ではないかと、僕は思っています。優秀な人というのは、僕を補ってなおかつ余りある、つまり一ぐらいしかない力を十だと思ってくれる人なのではないかと思いました。
もう一つ、これは冗談めかしてということなのでしょうが、鈴木志郎康さんが、「現代の詩は中島みゆきから谷川俊太郎の詩まで通路ができるようになった。それは結構なことだけど、片方は一つ詩を書くと何千万円と儲かる。片方は原稿料をくれるか、くれないかもわからない。そういうことについて吉本さんに解明してもらいたい」と発言していましたが、それはまことに心外で、そんなことは詩とは何の関係もないことです。
その人が一編の詩を書いてもろくに原稿料ももらえないか、あるいは一編の詩を書くと、それが作曲されレコードになり数千万円入ってくるかというようなことは、詩とは何も関係ない。また、ピーピーしている人がいい詩を書いて、数千万儲かっている人がいい詩を書かないというほど、文学や芸術があっさりしたものであれば、別にそんなことはする必要も何もない。そういうことは『言語にとって美とはなにか』で解明済みですから誤解のないようにしてほしい。つまり、そういうところに誤解の余地は一切ないと、僕は思っています。だから、そんなことはあらためて触れるまでもない。
そういうことが気にかかるのでしたら、鈴木さんが一編の詩を書いて数千万円儲ければいい。鈴木さん自体の力量があれば、そういうことは少し練習すればできるのではないでしょうか。(笑)つまり、そういう通路ができていくのではないでしょうか。また、鈴木さんの中にもその通路はちゃんとできているのではないか。もし鈴木さんがそういうふうに数千万円を欲していながら、なおかつしていないとするならば、何かが鈴木さんを押しとどめている。それは鈴木さんの倫理、こだわり、あるいはタブーの問題であって、それは自分で自己解放するより仕方がないと理解しています。だから、それは初めから問題にならないことのように思われます。
そういう問題は割合普遍的に起こりうる問題ですが、あまり難しい問題ではない。問題自体は単純です。単純だから重要でないかどうかということはまた別で、重要だからいつまでもそういう問題が蒸し返されるのでしょうけれど、それは単純な問題で、とうの昔にきっぱりと解けている問題だと、僕自身は理解しています。
今日はそこらへんから延長線に入っていきたいのですが、そこから違う線を引き直す。そのときにおしゃべりした問題をそのまま延長していきますと、何の問題にぶつかるのか。僕は二つの問題にぶつかるような気がします。一つは、街頭で瞬間的に飛び交っていく言葉、あるいは瞬間的に出てきて、また瞬間的に消えてしまうかもしれない言葉はどういう意味を持っているのか。ただ話し言葉で、会話の中で取り交わされている言葉だという意味合いしかないのか。それとも、もう少し違う意味をはらんでいるのではないか。その問題がすぐに延長線で出てくるような気がします。
僕は、話し言葉である限りにおいて、瞬間的に街頭で取り交わされる、あるいはどこかの街角でフワッと書かれていて、フワッと目をかすめて、また忘れてしまう言葉というのは、話し言葉あるいは日常世界の中で飛び交っている言葉という意味合いと、もう一つ発声状態の言葉という意味合いがあるような気がします。発声状態にある言葉というのは、現在の詩の表現にまで引っ張っていく力なのではないか。つまり、発声状態にある言葉というのは、時間をおいてそれを固定して、文字にしてしまって、文字をあらためて眺め直すというふうにしてしまうと、その言葉の意味、あるいは倫理や生活の技術を語ったり、さまざまな伝達を語ったりということになってしまうかもしれませんが、取り交わされた瞬間にとらえられた発声状態での言葉という意味合いで、それを瞬間的にとらえることができれば、相当ラジカルな言葉になるのではないかという気がします。
一見すると何でもないような言葉であって、しかもラジカルに何かを語っているというふうになりうる根拠は何かというふうに考えていくと、発声状態の言葉というのはラジカルな面を持っているからではないか。このラジカルな状態での言葉をとらえるということは、現在の詩が当面している非常に大きな問題のように思えます。そのラジカル性ということが、現在街頭で取り交わされているような言葉自体、相当高度な詩にまで適用することができる通路ができてきたということの一つの証拠なのではないかという気がします。
あのおしゃべりをしたあとに出された詩集からも拾ってきているのですが、ちょっとそれを挙げながらお話ししてみましょう。上にあるのが、いま言った、街頭で瞬間的に飛び交っている言葉をそのままラジカルな状態でとらえようという姿勢でとらえられた作品です。下のほうに線を引っ張って書かれているのが、そうではなく、言葉だけの世界で、非常に厳密に言葉を眺めたり、動かしたりしながらつくられたものです。
たとえば荒川さんの『針原』というごく最近出された詩集の中にいくつかいい詩があります。その一部分ですが、これだけで全体を計ることができると思います。「薔薇の食卓」という詩です。読んでみます。「生きている祖母は/母にとって/しゅうとめというわけで、否応なく/間に立つ父は感性のひととなる/しゅうとめはそぼつ薔薇だ/八十九歳のいまに至るまで/よめのつくるおかずを一度として/口にしたことはない/八十九歳は家の隅に巣をつくり、対立的に/くさいものをつくって/孫の私に食べよという/甘い手招きにとげがある/父は母にかくれて/それを食う/「うまい」とはいわないが/「ははは」といって食べる/発声だけとは長年の知恵である/食べるのではなく/口先がつまむ/私の学帽は深く/一日、冬のなかにある」。
あとに続きますが、この『針原』という詩集自体が一種の自伝的素材の詩であり、作者の幼児期の家庭体験が非常に煮詰まったかたちで物語化されて出てきたように思います。嫁のつくったものを一切食わないで、自分は隅っこのほうで頑強に頑張っている。孫の自分を呼んで、自分がつくったものを「お前、食べないかい」などと呼んでいるいじわるばあさんみたいな姿が非常によく物語的に浮かび上がってくる、うまい詩だと思います。
この『針原』という荒川さんの詩は、一種の自伝的な詩であり、また書き下ろしの詩集という試みで書かれたということもあるのですが、荒川さんは言葉に向かう姿勢が非常に日常的だということがいえると思います。言葉を日常の事実という次元で捕まえようという場所だと思います。これは荒川さんの詩ではたぶん初めての場所です。初めてそういう場所で言葉を使っていると思います。
こういう言葉の使い方をすると、荒川さんのよく言う老害心とあまり違わない言葉の使い方になっている。この言葉の使い方をすると、事実以外の言葉をとらえること、必然的に一つの物語をつくるためには、どうしても言葉の入口から入らなければいけない。入口から入って、中へ進んでいって、玄関へ来て、玄関を上がって母屋へ行き、何かあってまた出てくる。入口から入って、何かをしてまた出てくるという言葉の使い方をしなくては、どうしても成り立たないところがあります。荒川さんの普段の詩ですと、いい詩は特にそうですが、いきなり言葉の母屋へ入ってしまっている。モチーフ自体も母屋の中へ入ってしまっているという言葉の使い方をして、僕らは驚くわけですが、そういう驚きはこの詩集にはあまりないと思います。
皆さんがよくおわかりになるように、この中でそういう意味の驚きを感じるのは、終わりの二行だけです。「私の学帽は深く/一日、冬の中にある」。これは中枢にいきなり入っていっている言葉です。ほかの言葉は、玄関があり、入口があり、こういうふうにたどっていって捕まえられている言葉だと思います。終わりの二行だけが、普段の荒川さんらしい言葉だと言うこともできます。しかし、逆に荒川さんにとっては新しい境地、つまり新しい世界を開いてみせたという言い方もできると思います。それはどちらとも言えるわけで、どちらの意味も持っている。これは上手な詩ですが、大変平易な言葉で平易な事実を語りながら、大変物語的な場面を出現することができていると思います。荒川さんにしてみれば、幼児体験の中核に沈んでいる場面を詩の表現で捕まえた作品だと思います。
この『針原』という詩集の中にはこういういい詩がいくつかあります。全体が自己体験的といいましょうか、私小説的なモチーフを含んだ詩集です。荒川さんは私小説的な体験を含んだ詩を書く場合でも、フィクションを基にして書きます。フィクションの妹とか、フィクションの母親とか、フィクションを基にして体験的な意味をとらえるのですが、この場合は事実としての私的体験の要素が表現されていると思います。
もう少し同じような詩を見てみましょう。これは山本さんという人の『渡月橋まで』という詩集の中にあるもので、短いけれどいい詩だと思います。「暗い夜の海だ。海を見ながら泣いていると、どうしたのかと男が言う。わけなどは初めからあるはずがない。涙が勝手に流れるばかりだ。そのとき、何か得体の知れない大きなものが海の向こうからやってきて、嫌がる男を連れ去ってしまった。暗い夜の中に。海を見ながら泣いていると、どうしたのかと別の男が言う」。
これで一編全部です。これは中島みゆきなどが書く詩とほとんど変わらない。言葉に向かう姿勢というのはまったく違わないと言ってもいいのだけれど、どこが違うかというと、この「何か得体の知れない大きなものが海の向こうからやってきて、嫌がる男を連れ去ってしまった」という三行が違う。もちろんその三行がこの詩を大変いい詩にしているわけです。
この意味は相当難しいと思いますが、つまりこうではないでしょうか。暗い海を見ながら泣いていると、どうしたのかと男が言う。そういう場面が事実であるか、フィクションであるかはわからないのですが、それはどちらでもいい。ただ、こういう場面が事実としてありうるのは、僕は男だからよくわかります。女の人は得体の知れない泣き方をする。もちろん女の人から見れば得体が知れているのでしょうが、男から見ると得体の知れない泣き方をされる体験がある。女性のほうからそれを語っていると思います。だから、この場面がフィクションであるかどうかということはかかわりなく、こういうことは事実でなくても真実の体験、つまり体験的な真実だと思えるんです。
ただ勝手に涙が流れるだけなんだと言っていると、海の向こうから得体の知れない大きなものがやってきて、男を連れ去ってしまったというのはどう意味なのか。「どうしたんだ。何泣いているんだ」などと聞いている男の場所と、泣いている自分の場所があまりにちぐはぐ、隔たっている。その中で、女性の心の中で「こんな男なんか行っちまえ。いないほうがいい。邪魔だ」と思えるという、一種の体験的真実があって、そのことを言っているのではないか。一通りの意味はそういうふうに解釈される。そのことを、何か得体の知れない大きなものが海の向こうからやってきて、嫌がる男を連れ去ってしまったと。嫌がる男というのは、男のほうからすると訳がわからないのだけれど、泣いている女から拒絶的な感情で見られているらしいということだけはわかる。男のほうから見るとそういう体験なのだけれど、女性のほうから見ると、何か得体の知らないものが海の向こうからやってきて、「嫌がる」というところが重要だと思いますが、嫌がる男を連れ去ってしまうという、この表現になっていると思います。
僕の解釈の仕方は間違っているかどうかわからないのですが、仮にほぼ当たっていると考えたとして、これだけのことを日常飛び交っている言葉で表現するのは大変なことだと思います。こういうことは大変なことだと、僕には思えます。これは中島みゆきには可能ではない。でも、中島みゆきは可能でない部分をメロディでちゃんとやってしまっている。メロディも併せてやることでこういう表現ができてしまっていると思う。ただ、言葉だけ取ってきたら、中島みゆきの詩にはこれだけの高度な表現はできていないと思います。
現代詩というのが、詩自体として、つまり言葉の表現としてそれが完全に一つの世界となりうるように表現され、しかもその世界を表現するのに、日常飛び交っているごくありふれた言葉の使い方しかしない、そういうことが可能だとしたら、こういう詩の表現の中でしか可能でないわけです。つまり、どんなに高度なことを表現する場合でも、こういう言葉遣いしか使ってはいけないわけで、またこういう言葉の使い方しかしないというかたちで、いかようにも高度な表現ができる可能性が生じてきたことが非常に重要だと思います。そのことは逆に言うと、現在書かれている詩が、いつでも、どういうかたちでもつくり上げることができるという通路ができたこと意味していると思います。だから、大変重要なことのように思えます。いま書かれている若い詩人の詩は、こういう言葉に対する向かい方のほうが多い。つまり、主流を占めていると思います。
では、なぜこういう言葉の表現が詩足りうるのか、あるいは詩と呼びうるのかというもう一つの問題を出してくるために、もう一つ例を挙げました。荒川さんの詩もそうですが、散文や小説とどこが違うのか。こういう詩の言葉の使い方をした場合には、詩や散文というふうに区分けすること自体が無意味になるのではないか。また、行に分けること自体が以前考えられたほど絶対的な意味を持たないのではないか。そういう問題がもう一つ出てくると思います。発声状態の言葉を使おうとすればするほど、その問題が出てくるように思います。
これは、かたちは散文です。ブローティガンの『東京モンタナ急行』という小説の中の「ハーレム」という一章です。「彼は東京の街をうろついている美しい女たちの写真を撮っているのだが、彼の姿はほとんど透明である。容貌も風采もあまりにも月並みで特徴がないから、彼がどのような男であるのか描写することさえできない。彼が目の前にいても、君は彼がそこにいることすら忘れてしまうほどだから、目の前から姿を消せば、彼は完全に忘れられてしまう。そういう類の人物なのだ。美しい女たちは、彼が彼女たちの写真を撮っていることにまったく気がつかない。もし気がついてもあっという間に忘れてしまう。彼は何千枚にも上る美しい女たちの写真を持っている。自分の暗室で現像し、等身大のプリントをつくる。彼の押し入れには、何千本ものハンガーに、まるで洋服みたいに写真がかけられているのだ。寂しい気分になると、彼はいつも女を一人そこから取り出す」。
これは小説の一章全部です。この小説の一章と、こういう詩における言葉の向かい方とどこが違うのかということになると思うんです。その違いを言うことはできないのではないかと思える。違いなどというのは考えられないのではないかという気がします。
「彼は東京の街をうろついている美しい女たちの写真を取っているのだが、彼の姿はほとんど透明である」というところを残して、あとは全部取ってしまうとするでしょう。そして、「美しい女たちは、彼が彼女たちの写真を撮っていることにまったく気がつかない。もし気がついてもあっという間に忘れてしまう。彼は何千枚にも上る美しい女たちの写真を持っている。自分の暗室で現像し、等身大のプリントをつくる。彼の押し入れには、何千本ものハンガーに、まるで洋服みたいに写真がかけられているのだ。寂しい気分になると、彼はいつも女を一人そこから取り出すのである」。この三行からこれだけ取ってしまえば、荒川さんの詩などと同じものとして見ていいのではないでしょうか。違うところといったら、「自分の暗室の」の「自分の」はいらないとか、その程度のつまらないことしか残らない。ここはくどいから、この三行だけを取れば、現在書かれている詩人たちの詩と同じになるのではないかと思います。
これはブローティガンの小説の一章全部です。これが一章全部だということは、また違う問題を提起するような気がします。小説というのが、物語をつくったり、長編の構成力を持った作品、つまりトルストイの『戦争と平和』みたいな構成を持った作品をなかなかつくれなくなってしまっているということが、現在はあるわけです。つくれないわけではないのですが、作者自体も欲していないのに、欲していないことをつくらなければいけないとか、欲していない物語をこしらえなければいけない。物語をつくろうとすると、欲していないという部分がどうしても入ってきてしまうことがあるわけです。使わない素材は使わない。つくりたくない物語は一切つくらない。つくりたい物語だけをつくる。つまりどうしてもつくらなければいられない、あるいはつくりたくて仕方がない物語しかつくりたくないということを非常に徹底的に貫いていきますと、小説、少なくとも長編としてはどうしても成立しないということがあるように思います。そこを無理につくれば、本当はつくりたくない物語を嫌々つくってしまったというかたちでしか物語が成立しにくいということがどうしてもあるような気がします。
そうすると、ブローティガンみたいな小説の書き方、やり方というのは、ある意味で、現在の文学の中にどうしようもなく出てきてしまっている形式的な試みでもありますし、内容的な試みでもあるということになってしまう。そうだとすれば、いま申し上げましたように、現在書かれている言葉の使い方、詩の書き方、言葉への対する面し方に区別がつかないというところにいってしまうと思います。
この問題を一番緊迫してやり上げたのは、村上春樹の『羊をめぐる冒険』、もう一つは高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』で、こういう問題をとことんまでやってしまっているような気がします。やむをえずやってしまっているという気がします。現代の作家がやむをえずそういうふうにならざるをえないというかたちでやってしまっている問題を、詩の場合、かなり自然にというか、無意識にそれをやっているのではないかと思います。作家にとっては大変意識的に、やむをえないからそうしている、そうするより仕方がないからそうしていると思える。小説としては解体にほかならない問題を、現代の詩はかなり無意識に成し遂げてしまっている気がします。
小説も詩も同時代ですから同じ問題に直面しているのですが、直面している問題に対する言葉の場所の取り方が詩と小説で違うのはそういうところではないでしょうか。小説家が意識的、あるいはやむをえず必然的に取らざるをえなくなっている言葉の姿勢を、詩人のほうはかなり無意識のうちにやってしまっている。そういう言葉に対する場所の取り方の違いだけが違いとして残るので、当面している問題はほとんど同じです。その問題に対する場所の取り方が、詩と散文、小説と詩の作品との場所の違いということになるような気がして仕方がありません。
この問題をどこまで突き詰められるか、発声状態の言葉の瞬間的な捕まえ方がどこまでやり遂げられるかという問題を前にして、これから極限の場所まで発声状態での言葉を捕まえるという課題を自分に課していった場合、言葉はやがてどういうことに当面するだろうかということが、こういう言葉の使い方で現在の詩人たちがこれから当面する大きな問題があるのではないかという気がします。
発声状態で、不安定で、すぐに消えてしまうかもしれないけれど、その不安定なところで捕まえたとき、非常にラジカルな捕まえ方ができるかもしれない。これからこういう言葉の姿勢で表現するという課題を担っている現在の詩というものが、必然的にこれから突き当たっていく大きな問題として出てくるのではないかという気がします。
もちろん、これは風俗の詩としてもいかようにでも拡張することができるわけですし、安直な詩としてもいかようにでも拡散することができる。しかし、そうではなくて瞬間的に日常飛び交っている言葉を発声状態でラジカルな表現として捕まえた場合、言葉がどうしても当面していくのはそこの問題のような気がします。そこの問題が詩をどこへ連れてしまっていくのかということが、大きな課題としてあるような気がします。
それとまったく対照的ですが、言葉というものを一つの世界として見た場合、街頭に飛び交う言葉に耳を傾けるのと同じように、活字をじっと見つめると、字からさまざまなものが出てくる。意味も出てくるかもしれないし、形も出てくるかもしれない。動物も出てくるかもしれないし、いろいろな色が出てくるかもしれない。もちろん音も聞こえてくるかもしれない。言葉以外の世界がない場所で言葉をじっと黙って見ていると、言葉から出てくるさまざまな形象や音とか、意味とか、影や光といったものをどこまで引き出していくことができるか。引き出して、一つの世界とすることができるのか。世界の代理といいましょうか、そういう世界として見たときに現実のほうが薄れ、ついになくなってしまうところまで言葉を見ていくということをやったら、いったいどういうことが生じてくるのか。非常に対極的なところで問題として挙げることができる。こういう試みは少数者の実験的な試みなのですが、そういう試みがいったいどこまでいってしまうのか。現在の詩が当面してくる、もう一つ大きな、反対の極にある問題だと思います。
これは平出さんの一番新しい『胡桃の戦意のために』という詩集の中の詩です。「詩の形態にまつわる最終の謎は行という言葉に棲み着いている。行を開ける。行を変える。行をまたぐ。行を追う事に、行のつらなりはばらばらになる。行は詩とは言えず、和を結ぶ執念でもない。それは何か。かけらの影だ。何かを自由に書く場所だ。語れよ。時間と呼ばれる切れ目たち。一行の苦しみを行と共感、それともこれはアルキメデス?寓意、行為は死を食べてやせる」。
これは詩について書かれた詩ということもできるわけです。この一編で一番肝心なモチーフだと思えるところは、一行の詩が表現されるとき、普通はたとえば鉛筆なら鉛筆、筆なら筆、ペン先ならペン先から字を紙の上に表現すると考えるわけですが、この一編の詩のモチーフとなっているのは、黒いインキでも青いインキでもいいが、一編の詩の一行が書かれたとき、書かれた一行が凸レンズの凸面ではなく、また表現ということではなく、二重の意味で何か欠落した場所だというふうに一行の詩をとらえているところだと思います。
つまり、作者がペンを持って紙の上に書いて、そこに字が書かれている。そういう表現行為をしつつ、生産行為といいましょうか、産出行為といいましょうか、プロダクションみたいなことを考えず、二重の意味でそこに影を落とした。その二重の意味で影を落としたものが、この世界の中で何か欠けているものであり、その欠けたものを欠けたものとして意識することによって映し出されたのがこの一行の詩だというふうにとらえるとらえ方。それがこの一編の詩のモチーフのように思います。そういうふうにとらえた場合、詩の一行一行、あるいは行と行の間にあるものがどういう意味を持つのかということ。そういうモチーフで書かれている詩だと思います。
ただの思いつきでそんなことが考えられるのではないかと、皆さんはお考えになるかもしれませんが、僕はそう思わない。かなり強固な、詩というもの、あるいは言葉というものが人間にとって何なのか。言葉を発するとか、書くということはどういうことなのか。また、言葉を発するとか、書くということは、現実の行為とどういうふうに違うのか。また、現実の行いというものに対して言葉を書くことが拮抗するというか、匹敵するだけの重さがありうるとすれば、それはどうしてなのだろうか。あるいは、重さなど全然ないとすれば、どうしてないのだろうか。どういう意味でないのだろうか。そういうことについてよくよく考え尽くし、言葉を書くということは何なのか、詩を書くということは行動するということとどういうふうに比べられるべきなのかということを非常によく考えて抜いていないと、書けないような作品だと思います。思いつきで書けるか、思いつきで表現しうるかと考えると、僕はそう思えない。思いつきではなかなか書けない。
確固とした意思の言葉の言語観といいましょうか、言葉についての考え方、世界についての考え方。現実というものと言葉の世界はどう違うのか、あるいはどう違わないのか。現実のほうが重いと言う人もいるし、言葉のほうが重いと言う人もいる。また、行為というのは血が流れ、汗が流れ、涙が流れる。だけど、言葉は口先だけ、手先だけではないかという考え方など、この世界にはさまざまあるわけですが、そういうさまざまな問題に対して非常によく考えられていなければ、こういう表現はできないと思います。だけど、こういう表現は究極的にいえば言葉の世界から現実の世界が逆に成り立っている。言葉の世界のほうから見るから現実の世界が初めて成り立つ。どうしてもそこまで行くよりほかはない。そこまで行ったときに詩の表現としてどういうことが出てくるか、どういうふうになってしまうかという問題が、これから絡んでいく非常に大きな問題だという気がします。
吉岡さんの『薬玉』というのも、同じように言葉の行為だと思います。ちょっと読んでみます。「菊の花薫る垣の内では/祝宴がはじめられているようだ/祖父は鶏の首を断ち/三尺さがって/祖母がねずみを水漬けにする/父はといえば先祖の霊をかかえ/草むす河原へ/声高に問え 母はみずからの意志で何をかかえているか/みんなは盗み見るんだ/たしかに母は陽を浴びつつ/大睾丸を召しかかえている」。
吉岡さんの詩はそうですが、この詩は言葉の場所が独特だと思います。言葉の場所が独特だということは、言葉の場所だけが独特だと言ってもいいと思います。言葉を言葉だけの世界として使っているのではなく、もちろん言葉をイメージとして使っているのでもない。言葉を概念的な意味として使っているのでもない。どの場所でもない、中間の場所といいましょうか、間の場所で言葉が使われるということです。
皆さんさまざまでしょうけれど、僕がこれだけの行で具体的なイメージを思い浮かべるとすれば、どこかの田舎で、横溝正史の推理小説に出てくるような旧家のおじいさん、おばあさんがいて、何か知らないけれど家のことをやる場面のイメージがある。おじいさんは祝宴の準備で庭で料理するためにニワトリをひねっている。おばあさんはねずみ捕りを桶か何かにつけているというようなところまではイメージが浮かびますが、あとはイメージで突き進んでいない。かなり概念的な暗喩、半分意味のある暗喩でもって言葉を使っていると思います。イメージとしてはあまり浮かばない。
作者の中に父親や母親など近親に対するこだわりがあり、そのこだわりから必然的に出てくる概念のイメージ、一種の暗喩で言葉が成り立っていると思います。だから、「父はといえば先祖の霊をかかえ/草むす河原へ」というイメージとしての伝えられ方はない。これは概念です。そういう言葉で表現している意味が作者にとって重要で、そのあともそうです。「母はみずからの意志で/何をかかえているのか/みんなは盗みみるんだ」「大睾丸を召しかかえている」というのも意味が重要であって、イメージが重要ではないように思う。吉岡さんに概念の中にあるこだわりがあって、そのこだわりの表現として重要なのである。だから、吉岡さんとしては、言葉というものはイメージと概念のちょうど中間のところで使っている。それが特徴だと思います。
こういう言葉に対する向かい方がどこに行くかということは非常に重要だと思います。どこに行くかという問題は、言い換えると、どう解体するか、あるいはどう解体しないかという問題だと思う。これは作者にとって重要だというだけではなく、こういう言葉の使われ方自体の行方がどこにさまよってしまうか、どこに進んでいき、どういう問題を提起するのだろうかということが大変重要な問題のように思います。これは、いま書かれている詩が当面していく非常に大きな問題のように、僕には思える。そこのところをうまく極めつけができるかどうかというのが、これから大きな問題になってくるのではないかという気がします。
皆さん、詩を書かれているのでしょうが、そのときに当面していく問題は、かたちはそれぞれですし、言葉に向かう姿勢もそれぞれですが、少なくとも同時代ということで言葉がどうしても突っかからざるをえない場所というのは、どういう表現の道を取ってもそんなに変わりがない。だから、皆さんが詩を書く問題として当面するのは同じような問題ではないかという気がして仕方がない。その問題は、僕自身にとっても、自分が詩を書く場合にいつでも突っかかってくる問題のように思います。突っかかってきては、そんなにいつでもうまくはいかないねという感じの繰り返しです。よく確かめていくと、どうしても最後にはそこのところに帰着するのではないかという気がします。
こういうしゃべり方は一種の形式についてなのですが、内容についてしゃべると、それぞれ個別的に違ってしまう。問題一個一個に当面しなければなりませんから、形式から捕まえるほうが普遍的に語りやすい。ですから、そういう語り方をしたわけですが、現実の詩が当面している問題は、そこのところに要約されて出てきてしまうのではないかという気がして仕方がないし、自分自身が詩を書いている場所で、何となく言葉がうさん臭くて仕方がない。自分を表現している言葉、書いている言葉がうさん臭くて仕方がないという問題は、突き詰めていくとそういうところに帰着していくのではないか。
自分のおしゃべりはこのぐらいにしておきまして、皆さんのほうで何かありましたら言ってくださるといいと思いますので、一応これで終わらせていただきます。(拍手)
(質問者)
戦後の「荒地」のような延長線で詩が書かれているのではないですか。これからの時代。
(吉本さん)
そんなことないんじゃないでしょうか。あなたのおっしゃることは詩の内容でしょ。あるんじゃないでしょうか。ぼくはいまダメです。自分はなかなかうまく書けないですけど。
(質問者)
田村隆一さん自身も、昔の人のイメージじゃないんでしょうか。
(吉本さん)
どういうふうに感じるんですか。
(質問者)
声のよく通ったというような。
(吉本さん)
言葉の緊張性がなくなったということになりますか。自分の事で言うと、非常に自分では自分のことはよくわかっているつもりなんですけど。つまり、自分の場合なんかであれすると何かといいますと、言葉はどうしても現実をひっかけないという、そういう実感があるんです。つまり、どうしてもひっかけない。それを現実でひっかくことができない。
そうすると、無理にひっかこうとすると、どうも自分は言葉から背かれているんじゃないかという、これまた実感的な言い方をしますとそうなるんです。
これは言葉の使い方が違うのではないかという感じなんです。違うんじゃないかというとこっちの主体的な言い方になるのですけど。今度は逆に向こうからの言い方をしますと、現実が求めている言葉というのは、こういう言葉じゃないんじゃないかという感じなんです。そこが何かひっかけない、言葉をひっかくことができないという、そういう実感なんですけど。
ぼくはそういう実感なんですけど、田村さんはどういう実感かわからないのですけど。たぶん同じな気はするんですけど。つまり、現実をひっかけないという実感が相当あるんじゃないかなという気がするんですけど。そこの問題というのはあるんじゃないでしょうか。
だから、そういうことは、田村さんであり、ぼくらでありという、そういう詩人がダメになっちゃったとか、衰えちゃったということかもしれないので、あまり、大げさな意味はなくて、おまえのせいだということになっちゃうのかもしれないですけど。そこはなんとも言えないところです。
しいて、多少、意味づけをしますと、言葉をどうしても現実にひっかけないという、そういう実感なんですけど。だから、田村さんだってひっかけているつもりなんだけど、ほんとはよく見ると、あまりひっかけていないということかもしれないような気がします。
(質問者)
吉本さんが思われる戦後詩というのは、世の中をひっかくというのは終わったんでしょうか。
(吉本さん)
主観的に見ると、終わったという人もいたり、戦後詩全部を固執する人も、戦後詩という言葉自体もそうですし、固執するものをいうわけですけど。それはいずれも主観的な意味しかないんじゃないかというふうに僕自身は思っているわけです。
つまり、戦後詩という言い方をすることも、それから、戦後詩なんてあんなものは変わっちゃった。つまり、詩なんかべつに歴史的に考えて書いているわけでもなんでもねぇという言い方もあまり、主観的な問題とか、好みの問題とか言うこと以外にはあまり意味がないんじゃないかというのが僕の実感なんですけど。
だから、そういう実感になってくると、僕の実感をどこで僕が解決しようといいますか、解こうというふうに考えているかというと、つまり、それは戦後詩の問題で、「荒地」の問題であり、自分の問題であったにしろ、そんな戦後詩なんてものは意味がないんだという主張であるにしろ、どちらの主張でもいいし、主張としては構わないから、ぼく自身が実感に即していれば、そういう言葉でうまく伝わるかどうかわからないですけど、それを全部、現在化してやれといいますか、現在化したら場所がわかるんじゃないかというのがぼくの実感の処理法なんです。
つまり、主張は主張であり、それから、考え方は考え方、好みは好みなんだけど、好みとか主張以外にはそんなに意味はないと思えるから、だから、全部を現在というところに持ってきちゃったら、集約していったら、どちらも持ってきちゃったら、戦後詩というのを現在というところに持ってきちゃうし、それから、戦後詩なんていうのは意味がないという主張の現在というところに持ってきちゃったら、何があるのか、何が出てくるのかというところに持ってくる以外に、自分のいま感じている実感を解く場所がないというのがぼくの理解の仕方、処理法なんです。
(質問者)
吉本さんの言われたことと、戦後詩という言葉を使うか使わないかは別として、ひっかく詩が書けていた頃といまはひっかけなくなったといわれるなか、それは吉本さんの問題だからそれはわからないんですけど、そこで戦後詩と言うから、そのあたりのメルクマールがあったんじゃないかというふうに聞き取れたので。
(吉本さん)
ですから、ぼくらが、あるいは、「荒地」でもいいんですけど、「荒地」の詩がひっかいていると主観的に感じ、そして、そういうふうに主張してきたわけですけど。そのひっかいているのを現在化しますと、つまり、現在の問題に現在化しちゃうと、今日お話した、ひっかくかわりになでてるとか、つかんでいるとか、そういうふうになっちゃうんじゃないでしょうか。
つまり、かつて「荒地」なら「荒地」が戦後詩の主張として、現実をひっかいている、現実と激しく渡り合っているというふうに、少なくとも主観的に主張し、そして、そういうふうに試みてきた、そういう作品をいまもし現在化しようとすれば、どれだけ現実を触れているかとか、現実をつかんでいるかというふうに、それを読み直せばいいんじゃないでしょうか。
読み直して何が残るのか、案外、主観的に現実と激しく格闘して、現実をひっかいていたつもりでも、そういうふうに読み直してみたら、ぜんぜん現実に触れてもいないし、あるいは、つかんでもいなかったということかもしれないし、あるいは、ある部分は確かに掴んでいて、ある部分はちゃんと触れていたんだけど、そうじゃない部分はひっかいたつもりでも、全然ひっかけてなかったよという問題かもしれないと思うんです。だから、現在化した読み方をしてみることが重要なような気がするんですけどね。
それはいま書かれている詩も同じで、触れているというふうに、あるいは、生のまま現実に街頭で飛び交っている言葉をじぶんがサッと即座に定着して仕入れているというふうに、若い現代詩がそういうふうに主観的に思っていても、ほんとうに触れているかどうかというのは、やっぱり現在化してみないとわからないような気がするんです。あるいは、ほんとうに掴んでいるかどうかは、やっぱり現在化してみないと言えない気がするんです。というのが僕の問題意識です。
(質問者)
一度放棄したら、それでもう現在というものを捉えられないものになるのでしょうか、その人の主観にしても、現在の日本の文学でも、現在に対する掴み方は立ち直れないのでしょうか。
(吉本さん)
こうだと思うのです。現在というのを意識化するといいますか、意識的にできる部分というのは、つかまえるのに、必ずしも詩であること、あるいは、文学であることを必要としないような気がするんです。それは政治の言葉であってもいいと思うし、社会学の言葉であっても、どういう言葉でも、現在を意識化して捉まえるならそういう言葉で捉まえられる。
だけども、そういう言葉で捉まえると、意識化できる部分だけしか捉まえられないような気がするんです。どうしても、現在がもっている無意識というもの、じぶんが現在だと主観的に思っているとか、あるいは政治家、あるいは政治学者が現在はこうなっていると、世界の情勢はこうでとかいうふうに言うことで捉まえていると思っていることは、ぜんぶ意識化できるところで捉まえられていることであって、ほんとうはそういう言葉ではぜんぜんつかまらない現在というものの未知の部分というか、無意識の部分が、僕はあると思うんです。それをつかまえるにはどうしても詩の言葉とか、小説の言葉とか、文学の言葉とか、芸術とか、そういうものでつかまえる以外にないんじゃないかと僕は思うんです。
(質問者)
≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
そう思います。どうしてもそうじゃないとつかまらない現在というのがあると僕は思っています。だから、現在というものを分析するときに、じぶんもしばしば、政治の言葉とか、思想の言葉とか、そういう言葉をしばしば使うことがあるわけですけど。また、そのほうが一見するとストレートに見えることが、直接に見えることがあるんですけど。
ほんとうはそう思っていないので、そういう言葉でつかまえたら、どうしても現在がもっている無意識の未知の部分というものは、どうしてもそういう言葉の使い方だったらつかまらないんだというふうに僕自身もだいたい思っているからです。
(質問者)
≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
それはよく自分ではわからないんだけど、わりにそういう練習ばかりしていたんじゃないでしょうか、孤独なものだから、よく西部劇でインディアンに閉じ込められて、砦の中にひとりしかいないんだけど、こっちの銃弾で撃って、また駆け出してこっちで撃って、同時に同じ瞬間に両方で撃つことはできないのですけど。こっちで撃ってみて、またこっちで撃ってみてという、違う銃弾で撃つみたいな、そんなことばっかりしてきたから、わりに訓練じゃないでしょうか。それはやりようによって可能なんじゃないでしょうか。
(質問者)
スパッと切っている。
(吉本さん)
そうですね、スパッと切って、しかし、ひとりはひとりなんだということなんです。だから、それはできるように思います。また、できるようなやり方ばかりしてきたように思います。
(質問者)
なんかずるいなという。
(吉本さん)
それはほんとうにずるいですね。(会場笑)。そういう意味ではずるいので、ぼくがそういうこというならずるいと思うんですね。そんなに意識しているんじゃないですけど。ずるいんでしょう。そうじゃなくて、こっちで文学至上主義的なことを言って、こっちで政治至上主義的なことを言うというのは、ぼくはずるいと思います。そういうことについては、よくよく僕は一生懸命考えてきたので、つまり、政治と文学とか、政治と思想とか、文学と思想とか、そういうことはとことんまで自分なりに考えてきて、あまり混同もないし、含めるようなのもないつもりなんですけど。
芸術・文学というのがどういうモチーフでどういう主題を描くかということについての唯一の政治性といいますか、それがあるとすれば、通常考えられている、通常考えられているというのはつまり社会が常識としていることで、社会が常識としているというのはもっと、日本の現在の資本主義社会が常識としている芸術性よりももっとラジカルな芸術性でなくちゃいけないというのが、唯一の芸術・文学の政治性じゃないでしょうか。
(質問者)
ラジカルというのは徹底的にということですか。
(吉本さん)
そうですね、徹底的に孤立的であり、徹底的にラジカルであり、つまり、倫理とか、道徳とか、あるいは、イデオロギーとか、そういうものが少しでも腰を掛けて一服しようと思ったら、それはたちまち火傷するぜというくらい、そういうラジカル性というものが芸術にとって必要だという主張が、唯一の政治的な主張じゃないでしょうか。唯一、成り立ちうる政治的な主張じゃないでしょうか。
(質問者)
≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
そういうことは実現と論理との間にはたくさんのあれがあって、なかなか言い切ることができないのですけど。政治的な理念として、あるいは、政治的な主張としていうなら、それだけぐらいが唯一、芸術・文学についていえる事柄じゃないかとおもいます。政治がいえることなんじゃないでしょうか。それ以外の事は、作者が最も関心のある主題、関心のあるモチーフがいずれにせよ選ばれるわけで、それ以外のものが選ばれるはずがないということしか言えないとおもいます。
(質問者)
精神分裂病の特集をやっていましたけど、正当な社会性というのと、ファシズムの中の社会性というもの、≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
ぼくはよくそれを知らないのだけど、精神分裂病というものに対してのぼくの理解の仕方があるとすれば、そうじゃなくて、ぼくの理解の仕方は、現在、あるいは、現代社会でもいいですけど、現代社会が古代の社会を、あるいは、古代の世界というのをどういうふうに捉えるかという問題が、分裂病のぼくにとっては唯一のモチーフなんです。ぼくのモチーフはそうなんです。
つまり、現在、一般的に分裂病の第一症状といわれている症状があるでしょう、たとえば、作為体験、宇宙のどこかから声が聞こえてきて、おまえこうしろとか、ああしろとか、囁くとか、あるいは、命令するとかいう、幻聴の作為体験があるでしょう。そうすると、第一症状はこういうことになるわけでしょう。
そういうことは古代人においても平常の人間にとってごく平常にありえたことなんです。つまり、どこかから声が聞こえて神の声が聞こえたり、あるいは、祖先の声が聞こえたり、霊魂の声が聞こえてきて、こうしろとか、こうじゃないかというふうにふるまいを促すというような、そういうことというのは古代社会、あるいは、古代社会以前にはわりあいに通常の人がほとんどそういう体験をいつでもしていた。
ところが今現在の人間がそういう体験をした場合には、だいたい適合できないとか、つまり、社会生活に適合できない。この世界に適合できない。異常だ、病気だということがある。それから、様々な、社会から目をつけられる、レッテルをつけられるみたいなことがあるでしょう。なぜ、古代社会において正常と考えられた精神現象というものが、現在では病気、病というふうに捉えられるみたいな、そうすると、そこの間にある、現代の社会と古代の社会との関連性といいましょうか、つまり、現代の社会から捉えた古代社会がどう捉えられるか、あるいは、逆に古代社会に出現した様々な理念とか、宗教とか、それが現在、再生あるいは蘇生できるものが、あるいは、現在、有効性があるものがあるとすれば、どこの社会か。ぼくだったら分裂病の問題というのは、ぼくにとってはそういう問題として非常に大きな問題なんですけど。
(質問者)
≪音声聞き取れず≫、ファシズムをどう説明すればいいか自分の中で…。
(吉本さん)
つまり、「ファシズム」という言葉は「詩人」という言葉と同じくらいの曖昧さしかないように思うんです。だから、ぼくはあまりあなたのおっしゃる「ファシズム」という言葉自体を疑っているわけです。つまり、「ファシズム」という概念自体を疑っているわけです、ぼく自身は。それは社会学的に、あるいは政治学的に、あるいは政治的概念、社会的概念として、「ファシズム」という言葉はすごく曖昧だと僕は思っているから、つまり、政党の社会、ファシズムの社会ということであなたが言わんとしていることを僕はあまりそう思わないです。
(質問者)
どうしてそういう問題をいうか、ぼくは労働組合で、労働組合が政治的にも活動しなければならないかと思うわけです。強制的なこと、それには反発するけど、○○には参加していきたい。同じように政治的に≪聞き取れず≫。そのへんの場面場面で自分の思想と同じくするしかない。
(吉本さん)
そうじゃないでしょうか。本来的にいって、労働運動の起源、社会運動の起源、特に生産社会において成立する社会運動の起源みたいなもの、だから非常に潔癖に言っちゃえば、政治的な理念に支配されない。ただ、労働者という場所、あるいは立場、それにだけ拘束されるといいますか、政治的な立場とは厳密には関係ない。そうじゃないでしょうか。そういう基本的な判断する場所はそこしかないです。あとは個々のケース場面で、ある場合も政治的な主張を受け入れていいと思わないかはそれぞれ個々の場面で決していくよりしょうがないように思いますけど。原則的にはそうじゃないでしょうか。
(質問者)
発声状態にある言葉といわれて、私も詩を書いているんですけど、そうなるものとならないものは何か。それと、ひとつの詩を見た場合に、それを詩とさせているものは何なのか。たとえば、おしゃべりを書きとめるような詩がありますよね。それをおしゃべりじゃなくて、あっ詩だと思わせるような詩があるんですけど、それはいったい何なんでしょうか。
(吉本さん)
発声状態の言葉と言ったのは、そういう問題なんですけど。一番いい説明の仕方は、説明するためにしているわけじゃないんですけど。先ほどあげました高橋源一郎さんという人の『さようなら、ギャングたち』という作品の中で、主人公が詩の学校でおしゃべりをするところがあるんです。そこへギャングがやってきて、詩を教えるところがあるんです。
そうすると、私という主人公はギャングに何でもいいから浮かんできた言葉を言ってみろと、こういうふうに言うわけです。そうすると、ギャングだからそんな詩なんて書いたこともないし、言葉を弄んだ経験もないし、「食べ物をくれ」とか、そんな程度のことしか言ったこともないし、なんか言葉が出てきたらなんでも言ってみろと言われるのだけど、ギャングのほうで言う言葉がなくてつまっちゃうんです。つまっちゃってどうしようもなくなっちゃうんです。どうしようもなくそのギャングが追い詰められちゃうわけです。
追い詰めて、それでもなんか出てきたら言ってみろ言ってみろと、言えというわけです。そうすると、ギャングが「真っ白、真っ白、真っ白」というんです。つまり、頭の中に何も浮かんでこないものだから、言葉も浮かんでこないものだから、ついしょうがなくなって切羽詰まって真っ白、真っ白と連発しちゃうんです。
結局、高橋さんの作品ではそれが詩だという、つまり、切羽詰まって言葉が出てきちゃう、それが詩なんだということが、そういうふうには書いていないんだけど、そういうふうに少なくとも受け取られるように書いてあります。
そういうことなんじゃないでしょうか。わからないけど、切羽詰まって、経験なんか何もいらない、街頭を飛び交っている、日常飛び交っている言葉だと、つまり、切羽詰まって、「おまえさんは馬鹿だ」という言葉と、それから、ごく普通に切羽も詰まらないで「おまえさんは馬鹿だ」と言っている言葉と、それから、切羽詰まって「おまえは馬鹿だ」と言っている言葉の場合に、自分でも意識しているかわからないで言われている言葉のほうを同じことを意味する言葉でもやっぱり詩と呼ぶべきなんだと、詩というのを根本的にといいますか、本質のところまで遡っていっちゃえば、そこのところにきちゃう。
だから、出される言葉がどうかということじゃなくて、どこで切羽詰まっているか、あるいは、切羽詰まり方はどうなんだということが問われるという、べつに意味が問われるわけじゃないというところにいっちゃうということを高橋さんは言っているように思うんですけど。それはかなり言い方としては良い言い方なんじゃないかという気が僕はします。
だけど、ほんとうは切羽詰まって発する言葉というのは難しいんだよというふうに言い直しちゃうと、今度は様々な問題が出てきます。詩の技術の問題とか、様々な問題が出てきちゃうから、それから、もうひとつは、人間というのはいつでも切羽詰まっているわけにはいかないんだよということも出てきちゃったり、様々なことが出てきちゃいますから、難しいことになるかもしれないんだけど、どこかで切羽詰まった状態が詩を成り立たせていることは確かなような気がするんです。
そこでなら、あまり専門的であるかどうか、専門的修練をしたかどうかということは問わなくても詩が成立できるような気がするんです。そして、それはかなりな程度そうじゃないかという気が、いまの詩というのはそれに近くなっているんじゃないかという気がしますけどね。
それよりは、その手の事はテレビを見ていて、いつか坂本龍一がそういうことを、やっぱり音楽ということで言っていたことがあるんです。やっぱり同じようなことを言っていた。そこに来ている人にある短い時間を与えてピアノのところに行って勝手に何か叩いてみろとやらせて、それを連れてきて、初めてピアノを叩いたみたいな人がめちゃくちゃなあれをやるわけですけど。全部がメロディにはならないんですけど、どこか部分的にはメロディになっちゃうところがあるんです。それは短時間のうちに1分とか2分とか、その時間のうちに、全然ピアノなんかいじったことのないやつになんでもいいからやれやれって、ぶっ叩いてみろってやらせておいて、それで出てきたものが、べつに詩じゃないんだけど、やれって言われて仕方がないからやるわけだけど、出てきてそれをやらせると、そうすると全部が全部、音楽じゃないんだけど、そのなかの少なくともある部分だけは偶然にしろなんにしろメロディと思えちゃうところがあります。出てくるんです。音楽というのもそうじゃないかということを説明していたときがあります、テレビを見ていて。
それも似たところがあるんじゃないでしょうか、言い方としては。だから、切羽詰まれば、どんな人がどんな叫び声をあげたって、それは詩だとは必ずしも言い切れないけれど、少なくとも、そういう状態で発せられた会話の言葉であれなんであれ、それがある部分で詩になっちゃっているということはありうるんだし、また、詩になっちゃっているものは、どこかで書かれた人にとって切羽詰まったところがあるんだということは、なんとなく言えそうな気がするんです。それを僕は発声状態の言葉というふうにいえばいえるんじゃないでしょうか。
これの場合もそうなんです。詩の形態にまつわる最終の謎は行という言葉に住みついている。たとえば、初めの2行というのは理屈さえ知っていれば、意識的に出てくる言葉ですけど。その次に行を変える、行をまたぐ、行を渡るというふうに言い始めちゃったら、かなりこの言葉は切羽詰まっているというふうに思えます。
つまり、2行目のここまでは、住みついていくまでは、詩の事を多少考えてれば理性的に書くことができます。だけど、その次に行を分ける、行を変える、行をまたぐ、行を渡る、行をおうごとに行の連なりがバラバラになるという言葉はどなたが読まれても、ある種の切羽詰まり方はあると思います。その時にすでに詩の中に入っていると思います。この写真の中に入っていると思います。ある詩の中に切羽詰まり方をしているわけです。
そこでもっときます、つまり、行は道とは言えず、和音にする修練でもないと言ったら、これはかなりな切羽詰まり方といいますか、かなりな言葉としてその状態に深入りしなければ出てこない言葉です。詩は道とは言えず和音にする修練でもないという、これは特に「詩は道とはいえず」という言葉は、これはかなり切羽詰まっていないと、つまり、かなり本格的じゃないと言えない言葉です。
ですから、もうすでにここでは詩になっていっちゃっているわけです。だから、初めからこれは行分けの詩じゃないですから、つまり、一種の散文のように書かれた詩で、初めのぶつけ方というのはちっとも詩じゃないぶつけ方で、ふつうの理性的な言葉なので、理屈っぽい言葉なのですけど、それから、すぐに行を分ける、行を変える、行をまたぐ、行を渡るから、ちょっと切羽詰まった言葉に入っていきますし、それから、だんだん切羽詰まって、ここらへんで頂点に立って、それは何か欠片の影だというようなところで、それから、なにかを二重に欠く場所だというところで、相当な程度、頂点になっちゃう、語れよ知覚と呼ばれるピエロたちというところから、頂点からだんだんだんだん出てきて、切羽詰まった場所から普通の場所に出てきて、行為が詩を食べて痩せるというのは、かなりこれは理性的なというか、よく考えられた言葉になっています。
これだけのなかで同じ行が並んでいるようにみえても、そうじゃなくて、言葉が切羽詰まって使われている場所と、普通のとおり使われている場所と、それからそこへ入っていく入り方というものと、それから、切羽詰まっている場所から出ていく場所、出て行き方というのは、だいたいこのなかにそういうあれが入っていると思います。
だから、そういう言葉の使われ方を詩というふうにいうならば、それはわりに発声状態、つまり、ここまでは発声をさせるための一種の手続きなんですけど、この2行目までは。それから、ある手続きが済んだところで発声状態の言葉にスッと入っていくというような、そういう状態があると思います。
だから、そういうことはいずれにせよ、言われ方が様々でしょうけど、詩の場合に重要な問題であるし、また、誰でも詩が書けるんだという場合に、誰でもということが捉えられるのは、そういう切羽詰まり方、つまり発声状態のように思われます。
(質問者)
行為と言葉が拮抗するかしないかということと関連するんですけど。大衆と自分の書くことが拮抗するかしないかということがよく触れられているわけですけど。わかりにくいところがあって、拮抗するかどうか判断する場合の基準なんかをお話しいただきたい。
(吉本さん)
それは基準というのではなくて、拮抗させようとする意志といいますか、志向性といいましょうか、そういうところでしか、言葉は成り立たないとぼく自身は考えているので、言葉のない人と自分の言葉が拮抗しているとは考えていないので、拮抗しようというたえずそういうところでしか言葉は成り立たないというふうに僕自身は考えているんです。
だから、基準というのはないので、基準は言葉なしといいましょうか、言葉がないところが基準だというふうにいえば言えると思うんです。
じぶんがいつでも基準からの逸脱であるというふうに、逸脱としてしか言葉を使っていないというふうに僕自身は思っているんです。少なくとも拮抗しようという気分といいましょうか、気分だけでも持っているということなんですけどね。基準は言葉の中にはないです。ぼくの場合にはないです。
(質問者)
≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
じぶんに思想があるとすると、ぜんぶ借り物なんですけど。唯一借りものじゃない思想を持っているとすると、そこしかないです。言葉がないというやり方といいますか、生き方といいますか、それが根拠地なんだ。それが最も大きな価値存在なんだといいましょうか、そういう考え方というのが僕の唯一の思想なんです。
あとは全部借りたんです、マルクスから借りたり、全部借り物の理念なんです。理念にただどれだけ肉がついているかという問題にしか過ぎないですけど。そこは、ぼくは自分の唯一の思想なような気がするんです。ようするに語らない、言葉がない存在なので、そういう考え方があるんですけどね。
(質問者)
ぼくが真実を口にすると全世界は凍ってしまうだろうと書かれていたんですけど、そのことはどういった意味あい、切羽詰まった状態から発せられたことなんでしょうか。
(吉本さん)
それは切羽詰まった言葉から、つまり、言葉の切羽詰まった状態で発せられた言葉じゃないんです。だけども、精神というか、内面の切羽詰まった状態で発せられた言葉であると。だから、そこが問題なんです、つまり、自分の詩の問題だと思っているわけですけど。
ぼくが切羽詰まった精神の状態にあった時には、言葉を切羽詰まってすぐ発し方を知らなかったということなんです。多少、言葉を切羽詰まった状態で発するということがわかってきたときには、精神のほうは切羽詰まらなくなっちゃったということがありまして、それがぼくは自分の詩の問題だと思っているわけです。
あなたがおっしゃったいまの言葉というのは、ぼくのわりあいに初期の詩の中にある言葉、つまり、初期の行分けのない詩の中にある言葉だというふうに僕は記憶していますけど。それはかなり精神状態として切羽詰まったところで発せられた言葉のように覚えています。だけども、切羽詰まった言葉の状態として実現されているかといったらそうでないような気がします。
それがいま読むと、ぼく自身が読んで感動するんですけど、じぶんで感動するんですけど(会場笑)、感動しながらある面では非常にいまの自分からみると胡散臭いと思えて仕方がないところもあるんです。それはたぶん切羽詰まった心の状態というのと切羽詰まった言葉の状態というのとは一致していなかったんだというふうに思えます。
だから、そういう意味をぼくは持っていると思います。いま、ぼくはそういう切羽詰まった心の状態というのを失いかけていて、そのくせに切羽詰まった言葉の状態というのはどういうものなのかというのが、かなりよくそのときよりはわかってきているという状態がいまの状態です。いまのぼくの詩の問題はたぶんそこの問題のように自分は考えています。
(質問者)
現代詩手帖のお話があったんですけど、谷川俊太郎から中島みゆきへいって、太宰がさだまさしをつくったとおっしゃっていますが、坐り直しをしなくても通路ができているということは、言い換えれば、便宜上こういう言葉を使いますが、たとえば、現代詩手帖に載っているちょっとした立派な詩人たちと通俗的な詩人たちとの位置関係というか距離みたいなものは終わったというふうに考えているのでしょうか。
(吉本さん))
はい、ぼくはそう思っています。距離がなくなったということと、それから、もしかするとそれが逆転する契機があるかもしれないとぼくは考えています。
(質問者)
それは通路というのは≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
ぼくはそれを高級な言葉でいいたくてしょうがないのですけど、なかなか言えないです。だから、ものすごく我ながら不満な言葉です、説明しますと。わかっているんだけど不満なんです、そういう言い方というのは。
これはこうだという気がするんです。日本の社会、我々が住んでいるのでそういいますけど、それはそうとう高度な段階に入っているんじゃないかと思うんです。世界の先進的な資本主義社会と同じところに入ったんじゃないかなと思うんです。
先進的な資本主義社会というのはどういうところに入っていくかというと、かつて、創世記といいますか、資本主義の発生期から興隆期というのはどういうことかというと、大雑把なことになるので、だから嫌いなんですけど、言いたくないんですけど、大雑把なことをいいますと、自由な個人が自由な競争を通じて富を蓄積したりして市民社会というものを強固に作りあげます。強固に作りあげた市民社会の唯一の犠牲者になったのは、つまり、疎外されたのは労働者階級、あとは、その疎外された労働者階級を除くならば、自由な個人が自由な能力に応じて自由な競争をして富を蓄積する者とそうじゃない者、それから、教養を蓄積する者、学問を蓄積する者、そういう市民社会が強固にできて、強固な体系的な教養と文化を築きあげて、そして、強固な近代国家がその上に作りあげられて、こういうのが発生期から興隆期までの資本主義社会だとすると、そういう社会というのは過ぎ去った過去なんです。
資本主義社会というのはもっと高度になっちゃったんです。高度という意味はいくつかあるわけです。そういう捉え方ですると強固な市民社会というのが怪しくなっちゃったということ、それはどうしてかというと、もはや資本主義社会というのを鍛える、つまり、アメリカなんかはそうなんですけど、国家の資本主義社会に対しての国家管理というのはだいたい40%だと、つまり、40%までの国家管理なしにはだいたい資本主義社会は成り立たなくなっちゃっているんです。だから、自由な競争なんかしていないんです。自由な市場競争とか、自由な個人が個性の赴くままに自分の能力を発揮して能力の赴くままに富とか教養とか学問を蓄積して、そんなのは社会というのはとうの昔に資本主義自体は高度な資本主義はなくなっちゃっているわけです。もはや50%にならんとしているわけです。国家管理がたえずなければ成立しなくなっちゃっているんです。
そうすると、どういうことが起こってるかというと、管理の噴射と吸収の度合いに応じて、たえず不安定なんです。だから、強固な市民社会という概念はすでに崩壊しているわけです。たえず紛糾に晒されているという状態、それとともにかつては市民社会から疎外された労働者階級という概念がすこぶる曖昧になって、危なくなって、これもまた富としていえば、疎外されて明日の食に困ったという意味あいの労働者というものの成立像というのはむずかしくなっているんです。
それもまだごっちゃなかたちで、不定職になっていたり、噴流の中に巻き込まれていたりして、こうなってくると、強固な文化とか芸術の面でいえば、強固な古典的な意味あいの階級的な文化とか、学問、芸術とかというのは、成立がたいへんむずかしくなってきて、ポップアートみたいな、つまり、瞬間的な、刹那的、あるいは噴流的なといいましょうか、噴射的な、そういう流動的な音楽、芸術、それから文学とかいうものの浮彫というものがどうしても増してこざるをえないんです。それが、高度な資本主義社会の中で文化・芸術が一様に当面している問題なんです。この勢いというのは止めることができないです。その問題じゃないでしょうか。
そういう説明の仕方をしたくないのは、それはバックグラウンドだということなんです。それだから奴の通路がついたという、こういう言い方をしちゃいたくないわけです。でも、非常に根本的な原因のところ、バックまでいえば、そこのバックがそれなんです。そのバックを個々の詩人・芸術家というのは無意識のうちにそれを感じているんです。その勢いと規模というのは止めることができないと僕は理解します。
ですから、いまだって個性的になら古典主義的な文学も、古典主義的な芸術も、それから古典主義的な音楽も成立しますし、そういう偉大な芸術家、音楽家、文学者も出てくるかもしれないけど、それは個性的にのみ出てきます。個人の主体の責任においてのみ出てきます。一般論としていえば、一般的な潮流としてば、もはや僕は解体期に瀕していると思います。そういう意味合いの古典的な芸術・文学というのは、解体せざるをえないところにきていると思います。だから個性としてのみ成立します。
だから、ぼくはそういう気持ちというのは、あなたのおっしゃる通路ができちゃって、中島みゆきが非常に高度になっちゃっている。現代詩とそんなに違わないよというふうになっちゃっているし、現代詩の人もかなり高度な表現でありながらも通路をちゃんとついちゃっている。そういうふうになっちゃっている根本にはそういう強固な市民社会みたいな枠組みが教養の枠組みとか、文化の体系の枠組み、価値の枠組み、それがとにかくたえず輪郭が曖昧な流行性に晒されているからじゃないでしょうか。そういうバックがあって、空気のようにそれを吸っているということが根本にあると思います。
こういう言い方をすると面白くないんです。おもしろくないから違う言い方をしたくてしょうがなくて、それ固有の問題として、その問題をはっきり言いたいのですけど、なかなか僕の力でそれが言えないものですから、わりあいにマルクスとか社会学的なあれをよく知っているから、そういう概念を使うと容易くそういうふうに言えちゃうんです。言えちゃうと、おもしろくないんです。つまらないことを言ったような気がして、微妙なことを言った気がしてしょうがないです。だから、もっと違うような言い方で、じぶんの概念だけでもって言いたくてしょうがないですけど、努力するけどいまのぼくの力ではなかなか言えないから、でも言っている本質のところはたぶん間違っていないと思うんです。
つまり、そういうことなんです、はっきり言っちゃえば。そのほうがわかりやすいから、そういいますと、そうするとわかりやすいでしょ。なんで通路がついちゃうか、個々の人が無意識にそういうふうにできちゃっているとか、できていることを必ずしもその人は意識しているわけじゃないよとか、その人は、俺はそんなこと知らないけど、勝手に作っているだけで、荒川さんとかよく言うけど、深読みしてもらっちゃ困ると俺はただ作っているだけだと言いますけど、そうおっしゃるのは自由なんだけど、しかし、それをまた意識化して読むのは自由ですから、読むのは自ずから別問題で、それは現代の問題なんで、現代の我々が世界として当面しているそういう構造の問題なので、これは違う別個の意味を持つものとして、根本的にいうとそうです。そこの問題です。
(質問者)
そうしますと、現代文学も現代音楽もそうだと思うんですけど、作った側がこれが芸術だと言えば、そのまま芸術になっちゃうみたいなのがすごくあると思うんですけど。そうすると、受け取る側としては困っちゃっているという、自由だとおっしゃいましたけど、自由には違いないんですけどやはりなにか拠り所がないみたいな。
(吉本さん)
そう思います。拠り所がないというのが現在の社会。現在の少なくとも高度な社会における問題です。拠り所がないということ自体が本格的な問題なんです。これはつまり、あなたが努力すれば拠り所があるとか、電通に就職すれば拠り所があるとか、それは絶対嘘だと思います。そんなことは絶対にないです。そういうことは電通に就職しちゃえばいいんです。就職しようがしまいが、やっぱりそれは付き纏います。
だから、現在の芸術はそれを提示できたらそれだけだということ、それを受け取れたら、ちょっと拠り所がないぜということが本当の意味で受け取れたら、そうしたら相当いいことだというふうに思えます。なんかの少なくとも出発点というか思想ではあると思います。それだから、それで終わりということではないです。それが始まりにしか過ぎないですけど、しかし、それは非常にいい始まりということだから、いいんじゃないでしょうか。つまり、拠り所がないということが与えられたら、たいへんいいことで、拠り所があるように言っている奴のほうがよほどいかさまでおかしいんです。そんなことはありえないんです。そんなことは分析しつくされているんです。そんなことはありえないんです。だから、少なくとも拠り所を構築しなければいけないと思う。構築するという課題を担っていると思う。
しかし、拠り所がないというのが前提というか、それは当然なのであって、それを芸術・文学が示唆できたら、それは相当いいというふうにしなければいけないみたいなことがあります。つまり、責任はその主体が負わなくちゃいけないみたいな。また、ポップアートみたいな、そういう瞬間的な表現で終始している芸術家はいますけど、それはその人がどうなっちゃうかということはその人の主体の問題であって、しかし、その人が提議しつづけるものというのはたいへん重要な意味を持つと思います。
ただその人がどうなっちゃうとか、しくっちゃったらあいつはどうなっちゃうかとか、山本かつらみたいにポップアートに無意識に塗りたくっている、そういうアンフォルムの絵を描いていたのが今はそうでないのになってきた。それはその人がなっちゃったことは悪いわけでもないし、ただなっちゃっただけで、結構いいわけで、つまり、そういうことは個々の芸術家にはあるわけでしょ、起承転結というのはあるわけでしょ。だから、提起し続けているものというのはいいんじゃないでしょうか。瞬間的なポップ的なものでも十分なんじゃないでしょうか、それは当たっているんじゃないでしょうか。本質的にいえば当たっていると思いますけどね。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター10~)