『ヨブ記』の投げかける問い(3月22日)

・「地震ちくしょう!」とか「地震はバカ!」とか、
 地震という相手に怒りをぶつけるような発言は、
 松尾スズキさん以外に、見かけなかったです。
 
 戦争だったら、敵国がある。
 あるいは、それをしようとする政府がある。
 それに対して怒ったり憎んだりもできますが、
 地震であるとか津波であるとかの自然災害については、
 怒ってもしょうがないものとして、
 近代の人間は怒ったりしないようになっています。

 その分だけ、恐怖も悲しみも憎しみも不安も、
 ぶつける相手を見つけて乱反射することにもなります。
 時には政府の策を、時にはメディアを、
 時には企業を、時には群衆を、時には隣人を、
 時には人類を、そして時にはじぶんを‥‥
 怒りの対象に選んで傷つけ合います。痛いです。

・(地震という「自然」は悪くない、
 これまでにいいものをたくさんくれた。
 人間が「自然」に勝手なことをしてきたから、
 こうして「自然」が時々警告してくれるのだ)
 ‥‥という、ずいぶん教育的な考え方もあります。

 いや、いやいや、いや、それはあんた、ちがう。
 人間っていうものは、たしかに長年に渡って、
 「自然」を変えたり「自然」に戦いを挑んできた。
 だって、それこそが人類ってものなんだもの。
 宇宙ロケットだって、冷暖房だってというより、
 家も、水道も、農作物も、衣服も、文字も、
 人間のやってきたことは、ほとんどすべてが、
 「自然」の目を盗んだり、「自然」を変形させたり、
 「自然」を乗越えようとしたり、「自然」と戦ったり、
 そんな歴史なんだと言える。
 木の実を採取して生きてるだけじゃなかったからね。

 だからといって、あんなふうに人を殺したり、
 人がつくってきたものをぶっ潰したりしていいのか?
 旧約聖書の『ヨブ記』の投げかける問いが、
 いま、あらためて浮き彫りになっています。
 旧約の世界の「神」とは「自然」の別名だと、
 阪神淡路大震災の後、吉本隆明さんは語っていました。
 ここで、こんなにリアルに考えるようになるとは‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
あの日までの日常でない日常に、ぼくらは帰っていきます。

「今日のダーリン」より