「祈る」ということ。(4月9日)

・もうじき、あの日から一ヶ月になります。
 長丁場になるぞ、と覚悟はしたものの、
 この一ヶ月が短かったとは、なかなか言えません。
 ずいぶん長い一ヶ月です。

 よく、怖い夢をみているときに、
 これは目覚めたらぜんぶ消えちゃうんだ、と、
 夢のなかにいながら思うことがあります。
 そう思えたときには、悪夢から脱出できるのですが、
 この一ヶ月が夢だとは、どうも言えそうもありません。

 夢だと思いたいような、この現実を現実として、
 この後の未来をつくっていくことになります。
 逃げても、寝ていても、やっていくことは同じなら、
 えいとばかりに渦中に飛び込んでしまったほうが、
 つらくないように思えます。
 ぼくらも、親しい人たちの間では、
 そんな心持ちで行こうぜなどと言い合ってます。
 
・しかし、どこまでも前向きになれるはずもないのが、
 ぼくら、「たいしたことないもの」たちでもあります。
 具体的なひとつひとつのことを、
 しっかりやっていこうとは思うものの、
 それだけでは、失ったものと、
 失いつつあるものの空けた穴は埋められません。
 これほど大きな「虚無」と、
 ぼくらは向いあった経験がありませんから。
 
 できることが見えにくいときに、
 ふと、ぼくらのような信じる心のうすいものでも、
 「祈る」という方法を思い出します。
 「祈る」が変えてくれるものは少ないかもしれないし、
 もしかしたら「祈る」より先にすることはある、と、
 叱られてしまうのかもしれませんが、
 「祈る」ことはやっぱりするべきだと思うのです。

 それは力を持たないように見えても、
 実は「虚無」に対抗できる、
 とても実際的な方法だと思うからです。
 「祈る」ということは、奇跡を起こす力であります。
 坊さんでもないのに、そんなこと考えています。

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
こんな時期、好いた惚れたの歌も、けっこういいものです。

「今日のダーリン」より