まるで、NASAのようなメディアになりたい?

 第9回 社会の主人公を探すための旅に。


本日、ほぼ日ブックスが創刊しましたっ!!
紀伊国屋書店をはじめとした
全国の本屋さんを、ぜひのぞいてみてくださいね。

今日から3日間ほどは、
ほぼ日ブックス創刊直前の10月31日に
糸井重里が考えていたことを、
談話としてお送りしようと思いますっ
では、さっそくどうぞ。

  ★     ★     ★

<糸井重里による談話>

ほぼ日ブックス第1弾の本がザッとそろって、
わかったこととまだわからないことが、両方あります。

わかったことっていうのは、今までは、
「本が、本であることというのを嫌々やってきた」
「本が、本でありたくて仕方なくやってきた」
の、どっちかの本しかなかったということです。

「本とは何か?」というものが
曖昧なままに、伝承されてきて、
本の何が好きかを漠然とさせたままで、
「俺はこいつを愛する」と決めていたような・・・
まあ、自己撞着していたと言うか。

本と送り手の関係や、
本と受け手の関係とが、
曖昧なままに定着していたと思うんですよ。
送り手や受け手の感触を、かきまぜる方法って
やまほどあったのでしょうけど、そっちは
主に、雑誌がやってきていたと思う。

雑誌と単行本って、
違うジャンルと思われていますよね?
・・・でも、何が違うの?

よく考えたら、
あんまり、違わないですよね。

紙に印刷するという点では
まったくおなじで、
おなじ出版社で出しておきながら
あれは雑誌であれは単行本だということを、
まるで、郵政事業や取次の都合に
あわせたかのように存在したと思うんです。

で、そこの垣根に疑いを持って、
送り手と受け手をかきまぜるように
作ることができたというのが、
まずひとつ、わかったことですね。

つまり、
「今やろうとしているのは、
 『雑誌』なのかもしれないぞ」と。
マガジンとブックとは、分類する必要があったのか?
とまで考えて本を作れたんです。

もうひとつの
「まだ、わからないこと」ですけど・・・。

社会の主人公が作り手になって
情報を公開しあうというのが
本とか媒体の役割だと思うんだけど、
もしかしたら、いままでの本は、
社会の主人公でない人たちが、
情報の交換の道具として
「俺たちは、こういう感じでやるのよ」
って、勝手に決めちゃった土台の上で
作られてきたような気がするんです。

だから、社会の主人公を
見つけられないまま、本という媒体が
つづいていたのかもしれないですよね?

でも、ぼくにとっては、
「社会の主人公って、誰なんだよ?」
というのは、いちばんおもしろいテーマでして、
そこはまだ、自分でもわからないです、正直。

でも、
「社会の主人公が作っていくのが社会」
というのは明らかで、社会の主人公こそが
受け入れられていくし必要とされている・・・。
ぼくたちは、このほぼ日ブックスというもので、
社会の主人公を探す旅に出たんだと思うんです。

・・・ちょっと前までは、ぼくは
サラリーマンが社会の主人公だと考えていました。
会社づとめをしていて、
中流の暮らしをしていて、ふつうに家族がいる。
それの予備軍と、リタイア組・・・そのブロックの中に
社会の主人公がいたと思っていんです。
だから、ビジネス書が売れてたんですよ。

でも、サラリーマンと言われる人たちの
基盤がゆるんだ時に、もっと個としての
自分に目覚めなければいけない・・・。

個に視点をあてた、
「個の集積としての社会」みたいなイメージが、
ほぼ日をやっていると、見えはじめるんですよ。
組織票を取りようがない人たちを集める場所
・・・組織票を取りようのないところに
投網をなげかけるようなマーケティングっていう、
わけのわからないものに、
「ほぼ日」がなってきちゃった、という。

これは、インターネットがあって
はじめてできたことなんだけど、
おんなじ方法で、次は、本という
「ブツ」を使ったことが、できるんじゃないかと。
そう思って、「ほぼ日ブックス」を
作るようなところがありましたね、今考えると。

そうやって作ったうえで、
本というリアルなものの流通について、
今になって、いくつか
ちょっと、思うことがあるんですけど・・・。


(このつづきは、次回にお届けします)

2001-11-01-THU


戻る