まるで、NASAのようなメディアになりたい?

 第20回 吉本さん、そうとう気にしてますね?

※前回にひきつづき、ほぼ日ブックス記念対談、
 吉本隆明さんと糸井重里の会話をお届けしますね。




糸井 ソシュールが、
大事なところを見たから
頭がおかしくなった、というのは、
おもしろいですね。
吉本 いや、でもほんとに
そうなんですよ。
えーっと・・・。
「正常だから狂った」と言いますか。
あ、それじゃ、言い方、おかしいですが。
糸井 (笑)いや、意味は伝わります。
吉本 文芸評論なんかをやっていた
ぼくらは、そこのところをごまかして、
言葉を文字で表すようになってからの
言葉のふるまいを見ていけば、
それでいいじゃないかと思ったわけですが、
それは、途中からの中途半端なもので。
糸井 ええ。横入りなわけですね。
吉本 そうです。
だから、もっと、
記号的なあらわしかたが何もない時の
音声だけを使ったような、
そういう時代を見るということが大事で・・・。
どうして「姉」のことを「姉」って言ったのか。
また、これになっちゃいますが・・・。
糸井 確かにもう、いま聞いてるだけで、
「姉って、何で姉なんだよう!」
って、ちょっとクラクラしてきますね(笑)。
吉本 いま言ったようなことを思って、ぼくは
「すごい言語学者っていうのは
 やっぱりすごいんだよなぁ」と思いました。

ソシュールはやはり大家で
言語学というものの主流を形成したわけで。
つまり、
「そこまで考えなきゃウソだよ」
っていうことを、やっているんですよ。
そこをもって考えますと、
ぼくのやっていることなんか、
割と、ほんの部分的なもんですねぇ。
糸井 言葉が記号として
定着してから以降のことで言うと、
「書籍」っていうかたちが、
一部の階級の人たちにだけ
流通されていた歴史もありましたよね。
吉本 ええ。
糸井 ちょうど、時計がめずらしい時代には、
時報として、「お昼の午砲」を鳴らしてた、
みたいな印象があります。

言葉というものも、
以前は、武器の流通のように、
特に書き言葉は、
「誰かのものだった」という時代が
意外に、長かったと思うんですけど。
吉本 そうでしょうね。
それがいまは割と変わってきたというか。

誰のものでもない時期に、
どうしてそうなっているかを考えると、
それこそ、また、
さっきのソシュールのように、
ほんとうに優れた言語学者がやったような
「なんで姉は姉なんだ」とかみたいなのを
言えないと、こりゃあ、
原因にたどりついたことには
ならねえぞ、っていうことになるでしょうけど。
糸井 (笑)うわあ、また姉に!
ただ、吉本さんは、
その言語学に、ご自分でも
まるで深海に潜水艦でもぐるようなことは
以前になさっていますよね?
吉本 ええ。
糸井 言語学から一貫して離れていなくて、
一度は近づいているわけで・・・。

どのへんから、
「もう、そういう『姉』的なものは、
 考えないほうがいいんだ」
って、決めたんですか?
吉本 ・・・うーん。

日本の文芸批評で言いますと、
ぼくや、亡くなった江藤淳さんが
言葉じたいのふるまいから、
文芸作品を批評するというやりかたを、
やってみようと考えていたわけです。
その場合は、文芸批評ということで、
文学に限定してやれば、いいはずだった・・・。

だけど、そう割り切って、
文学に限定してはいるものの、
だんだんと、だいじなところでの
言語学にも目を向けはじめて、
心は、やっぱり冷めていったと言いますか。
糸井 吉本さん、そんなにまで
「姉」について
執拗におっしゃるというのは、実は、
「そういうもんは、もう、いいんだ」
と言ってみたものの、頭の奥では、
そうとう気になってるでしょう?(笑)
吉本 いやあ・・・はい、そうです(笑)。
糸井 (笑)
吉本 ほんとうは、気になっていたんです。

ソシュールの言語学という、
ひとつの系があるわけですけど、
昔、ぼくはそれに対抗意識を燃やしてまして、
自分だけの分野というふうに
思ったりしたんですけども・・・。
やってみると、それは、とんでもない話でして。

向こうのほうが、もうギリギリで
頭がおかしくなるぐらいにやりつくしてて。
糸井 (笑)ワハハハ。
頭がおかしいということを、
これだけまじめに話しているのがいいですね。
吉本 (笑)まあ、そうですね。

だけど、向こうは向こうだから、
ぼくの考えるのは、この範囲でいいんじゃないか、
ということを限定して済ましてきちゃったんです。
糸井 ・・・そうとう、
気になってるんだなぁ(笑)。
吉本 いやぁ、気になってるんですよ。
糸井 フフフ。

(つづきます)   

2001-11-28-WED


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