まるで、NASAのようなメディアになりたい?

 第23回 言葉はみんなのものなのだ。

※八木さん、吉本さんとつづいた
 ほぼ日ブックス記念ゲストも3人目。
 今回からは、橋爪大三郎さんの登場です。
 『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)
 などを「ほぼ日」では強くプッシュしたのが、
 みなさんの記憶に、あたらしいかもしれません。
 ではさっそく、橋爪さんの講演をどうぞ・・・





「・・・橋爪です。
 今日は何の会なのか、あんまりよくわかってなくて、
 見ておりましたら、記者会見がはじまったりして、
 『あ、ちょっと間違えたとこに来たかな?』
 なんて、思っていました。
 いま、だんだんと、何だかわかってきましたけど。
 
 用意してきた原稿は、あるにはあるのですが、
 『この原稿、ちょっとハズしたかなあ?』
 と思ったりしています(笑)。
 
 そもそも、糸井さんとは、
 TBSの『イトイ式』という番組に
 出演させていただいたことで
 どういうわけか、お会いしました。
 
 そのときも、今日と同じように
 打ち合わせがまったくなくて・・・(笑)。
 そしたら「キムタク」とかいう人が来てた。
 わたしはそういうことに
 疎いものですから、そのキムタクさんを、
 ぜんぜん知らなかったんです。

 ちょうど大槻ケンヂさんもいらしていて。
 そのかたは、何か目に星が入っているので
 何とか、特殊な人だということは感じましたが。
 
 打ちあわせもほとんどないまま、
 まったくわけがわかんない状態で、
 光があたって、
 本番になった覚えがあります。

 番組がはじまったのはいいけども、
 知らない話題がずっと続くんですよ。
 1時間の番組のうち45分くらい、
 わたしは、ただじいっと座っていたんです。
 糸井さんはときどき心配して
 わたしに話題を振ってくれるんですけどね。

 ・・・それで、
 ちょっとしゃべって、ギャラもらって。
 どういうわけか「この次も来てください」と。

 そんなかんじで、何回かテレビで
 ご一緒させてもらったんです。
 その経験からも、
 糸井さん関連のものは
 いつも打ち合わせがなくて、突然はじまるんです。
 ですから、こっちが何かを
 想像しなくてはならないというやりかたですね。
 そんな経験から、わたしは糸井さんを
 打ち合わせのない人として認識しています。

 今日もそんな調子だから、
 ここに呼ばれたのも、
 何だかよくわからなかったんです。
 そこで私はまた想像して、
 原稿を作ってきたんですけれども・・・。
 
 イベントのタイトルは
 『言葉は誰のものなのか』ですね?
 そこで、これはわたしのクセなんですけれども、
 すぐに結論を出してしまうんです。
 イベントのタイトルの問いに対して、
 『言葉はみんなのものなのだ』と、結論を・・・。

 ・・・『なのだ』っていうのがついていますが、
 それは、今日のイベントの場所が新宿ですから
 「都の西北、早稲田の隣」のバカ田大学から
 近いということで
 『のだ』をつけたというわけです(笑)。

 どうして「みんなのものなのだ」と
 わたしが結論づけたのかを、お話しましょう。
 
 『言葉はわたしのものだ』
 と言える人が、もし、いたとすれば、
 それは『言葉をつくった人』なんです。
 
 糸井さんはときどき
 あたらしい言葉をお作りになりますが、
 そういう特種技能の人は別として、
 普通の人は、あんまり言葉をつくらないでしょ?
 
 何から何まで
 ぜんぶ言葉を作った人がいるかというと、
 そこまでいくと、そんな人はいないんです。

 つまり、言葉は『習うもの』であって、
 『作るもの』ではないんですね?
 
 ということは、
 『言葉はわたしのものじゃない』のです。
 一瞬『わたしのもの』になるような
 気がするんですけれどもね。

 そもそも人は、言葉を使わないことには、
 ものを考えることはできないのです。
 つまりそこでは、
 『わたしの思考は、わたしのもの』です。
 でも、その器となる『言葉』は
 わたしのものじゃあない、ということで、
 ちょっと微妙な感じになるんですね。

 わたしだけにしかわからないことを
 わたしのやり方で考えてるときには、
 言葉は一瞬だけ
 『わたしのもの』のような気がします。
 けれども、それでは、
 ほかの人にみえないでしょ?
 
 ですから『わたし』としては
 『ほんとはおなかがすいているんだよ』
 とか、外に話してみちゃうんですね。
 ・・・話すと、相手に聞こえちゃって、
 言葉がみえるようになっちゃいます。

 これは日本語の不思議なんですが、
 『話す』と『離す』は同じ発音ですよね。
 『話す』と『離す』は同じことだと思うんです。
 話すということは、
 頭のなかにあるグニャグニャの言葉を
 口から外へ出すこと・・・。
 
 そうすると、相手のところへ
 言葉がすーっと行っちゃって
 相手に聞こえちゃって、相手にわかられちゃう。

 相手にわかってもらえない言葉って、
 言葉ではないんですけれども、
 でも、相手にわかってもらったら、もう
 言葉は『わたし』の手を離れてしまうんですね。

 このような、人と人とのあいだを
 行ったり来たりしているという
 キャッチボールの状態が、言葉の本質であります。

 オギャーと生まれた人間は、
 『アンダンダンダンマー』とか何とか
 言っているうちに言葉を覚えて、
 いつのまにか言葉のキャッチボールの世界に入って、
 そのうち、モウロクして
 だんだん喋れなくなるわけです。
 すべての人間は赤ん坊として生まれてくるけれども
 どの人にとっても、もうすでに、
 『言葉はそこにあった』のです。

 言葉はいわば、公共財。
 つまり、みんなのものなんですね。

 これで、この講演のテーマ
 『言葉はみんなのものなのだ』
 の証明は、終わりです。
 
 ・・・わたしの予想では、
 この会は時間が『押す』にちがいないと(笑)。
 対談がふたつ、それからこの講演があって、
 うしろには『金魚人』という映画がある。

 映画は長さが決まっていますから、
 『巻けない』んです。
 それに、前のふたつの対談だって、
 何か、どうやっても、長引きそうで・・・。
 
 ということは、時間を巻くとしたら
 この講演しかないでしょう?(笑)

 そこでわたしは、今日にそなえて、
 5分バージョン、7分バージョン、
 10分バージョン、15分バージョンと、
 いろいろなバリエーションを考えていました。

 まあ、危機管理ですね?(笑)
 ・・・あ、そんなに
 時間を気にしなくていいんですか?
 では・・・続けさせていただきます。
 何分バージョンにしようかなぁ」
 

(橋爪さんの講演は、次回につづきます)  

2001-12-05-FRI


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