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実際の開発についてうかがいますけど、
糸井さんにとって、ゲームをつくるということは
初めての経験だったわけですよね。
しかも作るのに手がかかるといわれるRPG。
当時、すんなりとは進まなかったと思いますが? |
糸井 |
それはやっぱりたいへんな作業でしたね。
RPGに限らず、ゲームって、
ものすごく多くの部分を記号化するから、
あれだけの大きな世界がつくれるわけですよね。
町という記号であるとか、
村人という記号であるとか、
乗り物という記号であるとか。
「これは、町というものです」という記号をつくって、
それで、プレイヤーも「これは町だ」と受け入れて、
そうやって成り立っているんですね。
ところが『MOTHER』では、
その記号にいちいち個性をつけたかった。
村人Aはこんな人で、村人Bはこんな人で、
この町はこんな町で、って。
それはやっぱりたいへんなことなんですよね。
でも、それをしないと、
ぼくがやる意味がないと思ったから、
テキストのところで苦心して変化させたり、
わがままもいっぱい言って、
チームに苦労してもらったり。
そういうことってやっぱり、
制作しているチームのみんなが「なるほど」と思って
腑に落ちている状態で仕事してくれないと
できないことなんですよ。
そういうセンスみたいなものを共有してくれるまで
ってのも、制作の重要なプロセスなんです。
イトイってやつは、
こういうことにこだわるのか、とか、
こういうおもしろさが好きなのか、とかね。
さいわい、つくる人たちみんなが、
それを、わかってやってくれたものですから
最初の『MOTHER』なんて
8ビットの時代ですけど
ああいう世界ができたと思うんです。 |
── |
そもそも、なぜ、RPGだったんでしょう。 |
糸井 |
それはもう、『ドラゴンクエスト』ですよ。
『ドラクエ』をやりながら、
「オレは明らかに感動しているぞ」って、
星飛雄馬みたいに気づいたんです。
で、「この感動ってなんだろう?」
って思ったんです。
夢中になって推理小説を読むことはあっても、
ゲームで、大の大人が、その、なんだろう、
ウチに帰るのが楽しみでしかたないっていうくらいに、
夢中になる時間を過ごしたわけですからね。
まずは、あり得ないことみたいでしたから。
あの、僕の仕事の原点っていうものには、
心地よい嫉妬というのがあるんですよ。
「オレにこんなことをさせたおまえ」に、
嫉妬するんですよ。で、そのとき、
つくった人間に対してヤキモチ妬くんじゃなくて、
できたものに対してヤキモチ妬くんです。
若いときには、そればっかりでしたよ。
その対象として、ビートルズが原点ですね。
その後、横尾忠則さんとか、唐十郎さんとか、
とにかく、すごいものをみると落ち込むんです。
嫉妬して落ち込むわけですよ。
彼我の差が無限に見えて、
地面に倒れ込んでいるくらい。
でもね、それで起き上がったときというのは、
燃えているわけで。
さぁ、どうしてやろう、と闘志が湧いてくるんです。
ぼーっとしてる人間にしては、そういうとこ熱い。
そして、つぎの仕事をやりたくなるんです。
それは、いまでもそういうところはあって。
歌を聞いてもそうだし、本を読んでもそうだし、
商品を買ってもそうだし、人に会ってもそうだし。
最近だと『ラストワルツ』のDVDを観ながら
さんざんヤキモチ妬いてるわけですよ。
もうたまんないんですよね、実は心地よいわけで。
マゾか、オレは(笑)。
で、はからずも『ドラクエ』というゲームをやって
ぼくはそれを味わっちゃったんで、
ロックファンがギターを買うように、
『MOTHER』の企画書をつくったんですよ。 |
── |
そのときに自分のつくるものの
ビジョンはどの程度見えていたんでしょう? |
糸井 |
まず、当時たくさん出ていたRPGには
足らないものがあると思ったんです。
それは、作者が「つくる動機」にあたるものを、
借り物にしているっていうことだったんです。
つまり、当時の日本のRPGは、
いわゆるRPGの歴史の流れに
忠実すぎるんじゃないか、と。
『ダンジョンズ&ドラゴンズ』という
テーブルトークゲームからはじまって、
コンピュータゲームでは
『ウルティマ』、『ウイザードリー』と続いている、
「剣と魔法で世界を救う」というような流れを、
あまりにもお約束にして、つくられていたんですね。
その世界には、ぼくがやりたい動機はなかった。
まず、描きたい世界、つくりたいものが先にあって、
それをあらわすために
RPGという仕組みを使うべきだろうと。
魔法だとか騎士だとか中世だとかいうものに
最初に道を譲ってしまったら
いろんなことを表現できないと思ったんです。
それで、まずは舞台を現代にした。
さっき言ったように、ぼくがつくる動機のひとつに
子どもとの関係というものがありましたから
ぜひ現代物でやりたかったんです。 |
── |
当時、現代物のRPGがまったく
出てなかったわけではありませんでしたよね。 |
糸井 |
うん。そういうことをやろうとしている
ゲームはあった。
かたっぱしから買って、やってみましたけど、
ぜんぶ失敗してるんですよ。というのは、やっぱり、
中世を現代に置き換えていくだけではだめなんです。
細かいところに、無数の矛盾や、
クリエイティブで調整すべき問題がでてくるんで。
ただの置き換えではできないんですね。 |
── |
なるほど。 |
糸井 |
そういう状態を、ずっと見ていたひとりが
田尻(智)くんだったりもするんですよね。
当時、田尻くんというのは、
たしかナムコから1本ゲームを出しただけのころで、
つくる力は十分に持っていたんだけど、
大作を任される予算やチームを
持っていなかったんです。
でも、ゲームボーイというハードでなら、
「自分の『MOTHER』」が
つくれると思ったらしい。 |
── |
それが、『ポケモン』だった。 |
糸井 |
そう。以前から田尻くんは
「『MOTHER』が作りたいんですよ」って
ぼくに言ってくれてたんです。
それは、
「『MOTHER』みたいなゲームをつくる」
という意味ではなくて、
ぼくが最初に『MOTHER』を絶対つくろうと
思ったときの動機が伝わったからだと思うんです。
それは、ぼくとしてはうれしいですよね。 |
── |
『MOTHER』のような志を
もったゲームということですね。
でも、『MOTHER』が出る前というのは
それこそまったく前例がなかったわけで、
そのあたり、たとえば任天堂の人にすら
伝えるのがたいへんだったんじゃないですか? |
糸井 |
ぼくとしては、そのたいへんを覚悟したうえで
企画をつくったつもりでしたけどね。
ただ、たしかに任天堂としては
そういうつもりで来たとは
思えなかったらしいですね。
当時、タレントゲームって
けっこうあったじゃないですか。
『さんまの名探偵』とか『たけしの挑戦状』とか。
まあ、ぼくがキャラクターに
なるわけじゃないんだけど、
任天堂がつくったものを、ぼくのほうで監修というか、
「もうちょっとこうして」って言うような、
そのくらいの関与のしかただろうというふうに
任天堂側の人たちは思っていたみたいですね。 |
── |
ふつうそう思いますよね。 |
糸井 |
うん。だから、制作チームの人たちも、
打ち合わせは
基本的に最初の一回がすべてだろうと
思ってたんです。
そのときに、ぜんぶ話しておいてください、と。
そういうミーティングがあったんです。
いま思うと、そのときのチームがよかったんですね。
遠慮がちにではあるけれど、
「どうしたいですか?」ということを
そこでたくさん質問されたわけです。
そのミーティングが終わったあとも、
「ここ、どうしますか?」という問いかけを
頻繁にこっちへ投げてくれた。
当時はメールなんてないんです。
だから、行く、会うしかない。
当時、『MOTHER』は
千葉県の市川ってところでつくられていたんですよ。
だから、ぼくは
だいたい8時とか9時に東京で仕事を終わらせて、
そこから高速に乗って市川に出かけていって、
『MOTHER』を見ていたわけです。
そういうふうにして、
できあがるプロセスをいっしょに見ながら
いろんなものをそのつどそのつど積み上げていく。
1本目からそれができたということが
よかったですね。 |
── |
まさに手づくりで進めていくことが
できたんですね。 |
糸井 |
そうですね。
だんだん、向こうもそれが当たり前になっていって、
つくる呼吸も合いはじめるんですよ。
そうやってつくっていくのは楽しかったですね。
当時、2階建てのアパートの
2階4部屋くらいを使って、
まるで住み込みみたいにしてつくっていたんですけど、
マップなんか実際に床に広げながらつくってましたよ。
かと思うと、隣の部屋では絵を描いていたり、
プロダクションのオーナーが地元の人で、
食べ物買って差し入れしてくれたり、
暖房器具とか布団とかを買ってきたりね。
零細企業の楽しさに満ちてましたね(笑)。
「ほぼ日」の初期の頃も、似たようなもんですけど。
つまり、ぼくの好きなタイプの仕事だったんですよ。
「それぞれが自分の得意な分野で力を発揮して、
みんなで無理なことをやっていく」っていう、ね。
最初の『MOTHER』はそうやってできたんです。
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