『MOTHER』の気持ち。
いちばん近くで、
この不思議なゲームの話を聞く。

第4回
「僕の仕事の原点は心地よい嫉妬なんです。」


── 実際の開発についてうかがいますけど、
糸井さんにとって、ゲームをつくるということは
初めての経験だったわけですよね。
しかも作るのに手がかかるといわれるRPG。
当時、すんなりとは進まなかったと思いますが?
糸井 それはやっぱりたいへんな作業でしたね。
RPGに限らず、ゲームって、
ものすごく多くの部分を記号化するから、
あれだけの大きな世界がつくれるわけですよね。
町という記号であるとか、
村人という記号であるとか、
乗り物という記号であるとか。
「これは、町というものです」という記号をつくって、
それで、プレイヤーも「これは町だ」と受け入れて、
そうやって成り立っているんですね。
ところが『MOTHER』では、
その記号にいちいち個性をつけたかった。
村人Aはこんな人で、村人Bはこんな人で、
この町はこんな町で、って。
それはやっぱりたいへんなことなんですよね。
でも、それをしないと、
ぼくがやる意味がないと思ったから、
テキストのところで苦心して変化させたり、
わがままもいっぱい言って、
チームに苦労してもらったり。
そういうことってやっぱり、
制作しているチームのみんなが「なるほど」と思って
腑に落ちている状態で仕事してくれないと
できないことなんですよ。
そういうセンスみたいなものを共有してくれるまで
ってのも、制作の重要なプロセスなんです。
イトイってやつは、
こういうことにこだわるのか、とか、
こういうおもしろさが好きなのか、とかね。
さいわい、つくる人たちみんなが、
それを、わかってやってくれたものですから
最初の『MOTHER』なんて
8ビットの時代ですけど
ああいう世界ができたと思うんです。
── そもそも、なぜ、RPGだったんでしょう。
糸井 それはもう、『ドラゴンクエスト』ですよ。
『ドラクエ』をやりながら、
「オレは明らかに感動しているぞ」って、
星飛雄馬みたいに気づいたんです。
で、「この感動ってなんだろう?」
って思ったんです。
夢中になって推理小説を読むことはあっても、
ゲームで、大の大人が、その、なんだろう、
ウチに帰るのが楽しみでしかたないっていうくらいに、
夢中になる時間を過ごしたわけですからね。
まずは、あり得ないことみたいでしたから。
あの、僕の仕事の原点っていうものには、
心地よい嫉妬というのがあるんですよ。
「オレにこんなことをさせたおまえ」に、
嫉妬するんですよ。で、そのとき、
つくった人間に対してヤキモチ妬くんじゃなくて、
できたものに対してヤキモチ妬くんです。
若いときには、そればっかりでしたよ。
その対象として、ビートルズが原点ですね。
その後、横尾忠則さんとか、唐十郎さんとか、
とにかく、すごいものをみると落ち込むんです。
嫉妬して落ち込むわけですよ。
彼我の差が無限に見えて、
地面に倒れ込んでいるくらい。
でもね、それで起き上がったときというのは、
燃えているわけで。
さぁ、どうしてやろう、と闘志が湧いてくるんです。
ぼーっとしてる人間にしては、そういうとこ熱い。
そして、つぎの仕事をやりたくなるんです。
それは、いまでもそういうところはあって。
歌を聞いてもそうだし、本を読んでもそうだし、
商品を買ってもそうだし、人に会ってもそうだし。
最近だと『ラストワルツ』のDVDを観ながら
さんざんヤキモチ妬いてるわけですよ。
もうたまんないんですよね、実は心地よいわけで。
マゾか、オレは(笑)。
で、はからずも『ドラクエ』というゲームをやって
ぼくはそれを味わっちゃったんで、
ロックファンがギターを買うように、
『MOTHER』の企画書をつくったんですよ。
── そのときに自分のつくるものの
ビジョンはどの程度見えていたんでしょう?
糸井 まず、当時たくさん出ていたRPGには
足らないものがあると思ったんです。
それは、作者が「つくる動機」にあたるものを、
借り物にしているっていうことだったんです。
つまり、当時の日本のRPGは、
いわゆるRPGの歴史の流れに
忠実すぎるんじゃないか、と。
『ダンジョンズ&ドラゴンズ』という
テーブルトークゲームからはじまって、
コンピュータゲームでは
『ウルティマ』、『ウイザードリー』と続いている、
「剣と魔法で世界を救う」というような流れを、
あまりにもお約束にして、つくられていたんですね。
その世界には、ぼくがやりたい動機はなかった。
まず、描きたい世界、つくりたいものが先にあって、
それをあらわすために
RPGという仕組みを使うべきだろうと。
魔法だとか騎士だとか中世だとかいうものに
最初に道を譲ってしまったら
いろんなことを表現できないと思ったんです。
それで、まずは舞台を現代にした。
さっき言ったように、ぼくがつくる動機のひとつに
子どもとの関係というものがありましたから
ぜひ現代物でやりたかったんです。
── 当時、現代物のRPGがまったく
出てなかったわけではありませんでしたよね。
糸井 うん。そういうことをやろうとしている
ゲームはあった。
かたっぱしから買って、やってみましたけど、
ぜんぶ失敗してるんですよ。というのは、やっぱり、
中世を現代に置き換えていくだけではだめなんです。
細かいところに、無数の矛盾や、
クリエイティブで調整すべき問題がでてくるんで。
ただの置き換えではできないんですね。
── なるほど。
糸井 そういう状態を、ずっと見ていたひとりが
田尻(智)くんだったりもするんですよね。
当時、田尻くんというのは、
たしかナムコから1本ゲームを出しただけのころで、
つくる力は十分に持っていたんだけど、
大作を任される予算やチームを
持っていなかったんです。
でも、ゲームボーイというハードでなら、
「自分の『MOTHER』」が
つくれると思ったらしい。
── それが、『ポケモン』だった。
糸井 そう。以前から田尻くんは
「『MOTHER』が作りたいんですよ」って
ぼくに言ってくれてたんです。
それは、
「『MOTHER』みたいなゲームをつくる」
という意味ではなくて、
ぼくが最初に『MOTHER』を絶対つくろうと
思ったときの動機が伝わったからだと思うんです。
それは、ぼくとしてはうれしいですよね。
── 『MOTHER』のような志を
もったゲームということですね。
でも、『MOTHER』が出る前というのは
それこそまったく前例がなかったわけで、
そのあたり、たとえば任天堂の人にすら
伝えるのがたいへんだったんじゃないですか?
糸井 ぼくとしては、そのたいへんを覚悟したうえで
企画をつくったつもりでしたけどね。
ただ、たしかに任天堂としては
そういうつもりで来たとは
思えなかったらしいですね。
当時、タレントゲームって
けっこうあったじゃないですか。
『さんまの名探偵』とか『たけしの挑戦状』とか。
まあ、ぼくがキャラクターに
なるわけじゃないんだけど、
任天堂がつくったものを、ぼくのほうで監修というか、
「もうちょっとこうして」って言うような、
そのくらいの関与のしかただろうというふうに
任天堂側の人たちは思っていたみたいですね。
── ふつうそう思いますよね。
糸井 うん。だから、制作チームの人たちも、
打ち合わせは
基本的に最初の一回がすべてだろうと
思ってたんです。
そのときに、ぜんぶ話しておいてください、と。
そういうミーティングがあったんです。
いま思うと、そのときのチームがよかったんですね。
遠慮がちにではあるけれど、
「どうしたいですか?」ということを
そこでたくさん質問されたわけです。
そのミーティングが終わったあとも、
「ここ、どうしますか?」という問いかけを
頻繁にこっちへ投げてくれた。
当時はメールなんてないんです。
だから、行く、会うしかない。
当時、『MOTHER』は
千葉県の市川ってところでつくられていたんですよ。
だから、ぼくは
だいたい8時とか9時に東京で仕事を終わらせて、
そこから高速に乗って市川に出かけていって、
『MOTHER』を見ていたわけです。
そういうふうにして、
できあがるプロセスをいっしょに見ながら
いろんなものをそのつどそのつど積み上げていく。
1本目からそれができたということが
よかったですね。
── まさに手づくりで進めていくことが
できたんですね。
糸井 そうですね。
だんだん、向こうもそれが当たり前になっていって、
つくる呼吸も合いはじめるんですよ。
そうやってつくっていくのは楽しかったですね。
当時、2階建てのアパートの
2階4部屋くらいを使って、
まるで住み込みみたいにしてつくっていたんですけど、
マップなんか実際に床に広げながらつくってましたよ。
かと思うと、隣の部屋では絵を描いていたり、
プロダクションのオーナーが地元の人で、
食べ物買って差し入れしてくれたり、
暖房器具とか布団とかを買ってきたりね。
零細企業の楽しさに満ちてましたね(笑)。
「ほぼ日」の初期の頃も、似たようなもんですけど。
つまり、ぼくの好きなタイプの仕事だったんですよ。
「それぞれが自分の得意な分野で力を発揮して、
 みんなで無理なことをやっていく」っていう、ね。
最初の『MOTHER』はそうやってできたんです。

2003-04-21-MON

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