ポケットに『MOTHER』。 〜『MOTHER1+2』プレイ日記〜 |
ゲーム中に登場する人物から なにかしらの問いかけを受けて、 「はい・いいえ」という選択肢が画面に現れた場合、 僕は三度それを選ぶのがふつうである。 すなわち、まずは、まっとうに選ぶ。 ここはこう答えたい、と自分が思うほうを選ぶ。 なぜなら、選択のチャンスは一度しかないかもしれない。 もしも違うほうを選んで話が先に進んでしまったら、 「ああ、あそこは違うほうを選んでしまったな」と かすかな後悔を抱えたまま進まなくてはならない。 したがって、僕はまず、まっとうに選ぶ。 つぎに、もしも、まだ選択のチャンスがある場合、 僕は逆のほうを選び直してみる。なぜなら、 反対側を選んだ場合のメッセージを知りたいからである。 ゲームのなかにあるすべての場面を目撃し、 ゲームのなかにあるすべての音楽を聴き、 ゲームのなかにあるすべての文字を読みたいというのは ゲームファンにとってごく自然な欲望である。 それが叶うか叶わないかはべつにして、 とりあえず、そのなかにあるすべてを僕は経験したい。 そのために、僕は二度目の選択をする。 選びたくないほうを選び、 選びたくないほうを選んだら どんなメッセージが現れるのかをたしかめる。 それで、その選択におけるすべてのメッセージを 読むことができるのだが、 なぜか僕はそこでやめずに三度目の選択をする。 というのは、意に反した選択をしたままで その場を去ってしまうことがいやだからだ。 もしもそのままそこを去ってしまうと、 それを問いかけた人にとって 僕という人物は「二度目の選択をした人」として 記憶されてしまう──ような気がする。 それで、僕は三度目の選択をする。 つまり、ほんとうは「はい」と答えたい場合、 最初に「はい」を選んで、 つぎに「いいえ」を選んで、 最後に「はい」を選ぶ。 そんなことをしているから、 ゲームをクリアーするまでにひどく時間がかかる。 けれど僕はそういうやり方を変えることができないので どんなに先に進みたくとも三度選択肢を選ぶ。 おそらく、10年前の僕もそうしたと思う。 よく言われるように、 『MOTHER』のなかにあるメッセージは ひとつひとつが恐ろしく意義深い。 どれひとつとして読み飛ばすことができない。 「はい」と選んだときのメッセージも、 「いいえ」と選んだときのメッセージも、 いろんな感情を呼び起こす。 うれしかったり、やさしかったり、 馬鹿にされた気分になったり、 ギョッとしたり、煙に巻かれた気持ちになったりする。 すべてのメッセージを読みたいと思っている僕にとって、 『MOTHER』は格別のゲームであるといえる。 靴下が印象的な女の子が序盤に登場する。 その子の選択肢に対するメッセージがすばらしかった。 どっちをどう選んでも、等しくよかった。 その女の子の前を通るたびに ついついまた話しかけてしまう。 どれだけハードが進化しようとも、 文字は依然として文字のままであり つづられたメッセージの意味や余韻は変わらない。 『MOTHER』が時を経て残っているのには そういうことも関係しているのだと思う。 |
このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「ポケットに『MOTHER』。」と書いて
postman@1101.comに送ってください。
2003-06-25-WED
戻る |