ポケットに『MOTHER』。
〜『MOTHER1+2』プレイ日記〜

7月11日 アメリカ


不良たちが路地をうろつく街にいる。
ぼくはこの街がとても好きである。
街の人たちは基本的に信用がおけない。
けれど、いったんわかり合うと
突然いい人に思えてきたりする。
街には初めて訪れた人がひっかかりそうな仕掛けが
いたるところにある。
けれど、いったんその仕組みを知ってしまうと
その街に自分が受け入れられたかのような
不思議な親しみを感じる。

街にはライブハウスがある。
ライブハウスには、
アルコールとロックミュージックがある。
まるで映画に出てくるようなスモールタウン。
僕はこの街がとても好きである。

『MOTHER』が
現代を舞台にしていることはよく知られている。
それは当時のロールプレイングゲームにしては
けっこう珍しいことで、
なぜなら『MOTHER』が出た1980年代の後半、
多くのゲームは『ドラゴンクエスト』を
基準にしていたからである。
それは、『ドラゴンクエスト』が大ヒットしていたから
それにならったということだけではなく、
(もちろん、そういったものも多かったと思うけど)
単純に、つくり手が、ゲームファンとして、
『ドラゴンクエスト』を好きだったからだと思う。

多くの人にとっての
「マイ・ファースト・ロールプレイングゲーム」
だった『ドラゴンクエスト』は、
テレビゲームの一ジャンルというよりも
純粋にひとつの新しい遊びとして人々に提示され、
熱狂的な支持を集めた。
ほとんどの人はその大元である
『ウイザードリィ』や『ウルティマ』を
知らなかったから(もちろん僕も)、
自然な流れとして『ドラゴンクエスト』は
ロールプレイングゲームの基準になってしまった。
おそらく、遊び手にとっても、つくり手にとっても。

『ドラゴンクエスト』に触発されて発売されたゲームは、
ほとんどが中世ヨーロッパ風の世界を舞台にしていた。
城と、森と、洞窟と。剣と、魔法と、伝説と。

『ドラゴンクエスト』に魅了された遊び手は
やはり『ドラゴンクエスト』のような
ロールプレイングゲームを欲していたから、
世の中にあるロールプレイングゲームの世界が
似通っていることは、まるで問題のないことだった。

そういう状況において、
『MOTHER』は異彩を放っていた。
中世ではなく現代を舞台にし、
剣ではなくバットを持ち、
魔法ではなく超能力を使うこのゲームは、
ロールプレイングゲームの異端としてとらえられた。
そして、2003年の現在も、『MOTHER』は
希有なロールプレイングゲームとしてある。

だが、ここで僕は少し不思議に思う。
たしかに『MOTHER』は現代を舞台にした
ちょっと変わったロールプレイングゲームで、
あの世界は『MOTHER』にしかないと
強く感じさせるのだけれど、現代を舞台にしたのは
『MOTHER』だけではなかったはずである。

僕はファミコンを熱心にプレイしていたわけではないので
当時の詳細な知識がないのだけれど、
資料をひもとけば、たとえば『女神転生』などの名作が
『MOTHER』よりも先に現代物として
リリースされていたことがわかる。

当時ですら、
現代物のロールプレイングゲームはリリースされていた。
近年のゲームにいたっては、
現代を舞台にしたゲームなど珍しくもなんともない。

ところが、久々に『MOTHER』をプレイしてみても
やはりその世界は希有である。
当時の思い入れだけではなく、
やっぱりこの手触りはほかにないように思う。
なぜこの世界はこれほど「オンリー」なのか。

それは、アメリカではないかと僕は思う。

いま『MOTHER』をプレイして強く感じることは、
このゲームがアメリカを舞台にしているということである。

しかも、そのアメリカは、本質的なものではない。
あくまでも、
日本という国から見た表層的なアメリカであり、
いわばアメリカという国のイメージである。
問題を抱える大国アメリカの病的な一面ではなく、
エンターテイメント輸出国としての「よいアメリカ」。
もちろん、個人的な意見だ。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『E.T.』、
『スタンド・バイ・ミー』といった例を挙げるまでもなく、
『MOTHER』の世界には、
さまざまな娯楽を生み出していた1980年代のアメリカが、
随所に色濃く反映されているように思う。

スモールタウン、科学と宇宙人、少年と冒険、
家族、ハンバーガーショップ、ロックンロール。
そういうアメリカを舞台にしたロールプレイングゲームを
僕はほかに知らない。

とても個人的な話をする。
僕はロサンゼルスオリンピックが大好きだった。
開会式で青空へ舞い上がるロケットマンや
ジョン・ウィリアムズによるテーマ曲や
星型の大会ロゴが大好きだった。
(ちなみに、大会のマスコットキャラクターである
 イーグルサムはあまり好きではなかった。)

ロサンゼルスオリンピックのTシャツを
古着屋で何枚か買って持っている。
なにしろ20年近く昔のことだから、
状態がよくて、サイズの合うものを探すのが難しい。
簡単な趣味のようにしてときどき古着屋を漁る。
3枚ほど、お気に入りがある。

今年に入ってから戦争が起こり、
僕はそのTシャツを着ることがためらわれた。
USAの文字が大きくプリントされているそのシャツを
まるで主張のように着ることが僕にはできなかった。

『MOTHER1+2』の発売日が近づくにつれ、
東京の気温は上がっていったが、
僕はロサンゼルスオリンピックのTシャツを着なかった。

ある日、『MOTHER』の音楽をつくった人たちが
当時を振り返って話す座談会があり、
僕もその取材に立ち会った。

『MOTHER』の制作者である糸井重里は
アメリカについてつぎのように言った。

「『MOTHER』の世界を描くために、
 アメリカのいいところを出したいなって思ってた。
 アメリカのイヤなところはいっぱいあるんだけど、
「おかげで助かったぜ!」っていうアメリカ、
 サンキューを言いたいアメリカっていうのも、
 いっぱいあるんだよ、俺たちのなかに」

それを受けて、鈴木慶一さんはこう言った。
間髪を入れず、という感じで。

「うん。アメリカはイヤな国だけど、
 音楽や、そのまわりはいい」

僕は現場でちょっと泣きそうになった。
以前にも書いたけど、僕の涙の腺はけっこう脆いので
そういったことは珍しいことではない。

うん。
アメリカがいい国かどうか知らないけど、
サンキューを言いたいことはたくさんあるし、
音楽や、そのまわりは、いい。

グッときてしまった僕は、翌日、張り切って
ロサンゼルスオリンピックのTシャツを着た。
元来、お調子者なのでしかたがない。

いま、三十代なかばである僕は、
1980年代の後半に十代の終わりを過ごした。
あのころキラキラしていたアメリカの娯楽は
好むと好まざるにかかわらず、
僕という人間のどこかにしっかりと食い込んでいる。

さまざまな文化が生まれた1960年代や
それらが成熟して広がった1970年代。
一方、僕らが過ごした1980年代は
「何もなかった時代」なんて言われかたをしたりした。
べつにほかの人がどう言おうと知ったこっちゃないけど、
1960年代や1970年代に青春を過ごした
僕らの上の世代の人が、
自分たちの時代を熱っぽく語ることに対して、
個人的に、僕は少しだけ、
後ろめたさのようなものを感じていたようにも思う。

けど、いまは違う。
少しずつ年齢を重ねた僕は、
「サンキューを言いたい1980年代」を
たくさん知っている。
いちいち挙げていくことだってできるけれど、
さすがにそれは場違いだ。

ひとつだけ挙げるとすると、
たとえばそれが『MOTHER』だということである。

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2003-07-12-SAT


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