vol.172
- VEXILLE 2
●「希望よ、ひらけ。」
──『ベクシル-2077日本鎖国-』その2

©2007「べクシル」製作委員会
全国ロードショー
□描いたのは、すごくパーソナルなこと‥‥。
曽利文彦監督、後編は、やはりセンタンの話。
『ベクシル』と高度情報化社会について、です。
*後半、多少ネタバレがありますので、
映画未見のかたには申しわけありませんが、
ご注意の上、お読み下さい。
ではさっそくどうぞ。
── 『ベクシル』は、
いまの国際情勢を反映しているんでしょうか。
グローバリズムが始まって、
民族の紛争があってみたいなところで、
日本ってなんだろうと、
アイデンティティを探しはじめている
というふうにも思うんです。
曽利 そう思いますね。
情報化時代なので、距離は遠くても、
情報は近くなっているので、そこですね。
僕が『ベクシル』を作ったひとつには
そこがあって、
情報というものに関して、
あれば安心するんですけど、無いと、
途端に恐怖になってしまうという、
そこがすごく恐いなと思っていて。
『ベクシル』に描かれているように、
完全にシャットダウンするというか、
孤立化するというのは、
物理的な孤立もあるんだけど、たぶん、
情報の孤立がいちばん恐いんだと思うんです。
情報を孤立させることは、
本人が恐いというよりも、周りからみると、
その人が得体の知れないものになっていく。
情報シャットダウンは“モンスター”を作っていく、
みたいなところがあって、
それが本当のモンスターだったらいいんですけど、
勝手に周りから作り上げるモンスターだったりする
可能性はありますよね。
── イリュージョンですね。
曽利 そう、イリュージョンですね、本当に。
たとえば隣人が何をやっているかわからないから
恐怖だけが上乗せされていく。
『ベクシル』は、国のことを描いていて、
わかりやすいから“鎖国”にしているんですけど、
じつはすごくパーソナルなことを描いている
つもりなんです。
人間と人間が初対面で話すことって、
ものすごく労力が要ると思うんですよ。
いろんなことを考えているし、
いろんなことが頭の中でバーって動くと
思うんだけど、
そういう人と人が直接コミュニケーションをとる
ということが大切なのに、大変だから、
パスできればしたいっていう方向へ
どうしても行きがちなんですよね。
それでいままではそれが出来なかったんですけど、
テクノロジーが発達していくと、
コミュニケーションをパスするというツールが
いっぱい出てきて、安易にそっちに流れてる
気がするんです。
── はい。
曽利 メールもそうですよね。
顔も見たこともない相手と、
コミュニケーションしているつもりでも、
じつはすごい落とし穴がそこにあったとか、
しゃべったら済むことが、
より複雑になったりとか、
そういうことがどんどん起きてくる。
ケータイ電話もそうだと思うんですよね。
コミュニケーションが増えたようで、
直接会って話すという機会が激減している
気がするんですね。そうすることによって、
だんだん個人がさらに個人化していく。
周りと直接コミュニケーションをとることを
止めてしまうというか、パスしてしまう、
それを助けているのが、じつは
テクノロジーの進歩だったりする。
そうすることによって個人がどんどん
“鎖国”してしまう。
それが何を生むかというと“恐怖”ですよね。
相手が何を考えているかわからないとか、
どんな人かわからないとか、
そういうことをどんどん生んでいく。
この映画の中でいちばん描きたかったのは、
人は、集団で生きる生き物で、
個人化したら絶対生きられない生物なのだから、
集団生活を前提に考えないといけないのに、
いまはそういう意味では、個人主義的に
個人が確立されすぎて閉じはじめているので、
危険ですね、っていうことですね。
便利になったと思ってるうちに、
すごいことになってるということに、
やっぱり気づかないと。
── 日本での情報ツールの使い方は、
個人化傾向は高いかもしれないですね。
じつはそういう便利なツールって
インターネットもそうですけど、
距離があって会えない状況のときに、
どうしようってはじまったツールのはずですけど、
おもしろいのは、隣のデスクの人と
メールでしか話さないとか、
アメリカでもそういうのはあるかもしれませんが、
わりと日本は閉鎖的な使い方に
偏りがちになるというのは、
シャイな民族なんだなあと思いますが(笑)、
やはり特殊な状況だなと思います。
元々壁を乗り越えようと思って作ったツールが、
壁を作ってしまっている、というのが、
不思議でおもしろい気がするんですね。
曽利 不思議ですよね。
『ベクシル』を考えたときに、
たとえば、独裁に走ったときに、
他国との情報をシャットアウトするのって
わりと楽だな、できなくは無いと思ったんです。
島国であるがゆえに、よけいそうなんですけど、
たとえば通信衛星とか電話のラインとかも
全部管理してしまえば、
インターネットはできなくなりますからね。
わりと技術的には簡単なことだと思うんです。
ものすごいパニックになりますよね。
── 実際、管理している国もありますものね。
曽利 国の外の情報は一切取れないというふうに、
技術的には仕掛けることはできるわけです。
日本の情報が外へ出ていかないということは、
『ベクシル』の映画ほど完璧じゃないにしても
できちゃうんですね。
そうすることによって他国が日本に対して
おぼえる恐怖というのは、ものすごいだろうな
と思うんですよね。
── いまも世界にはいろんな国がありますが、
近くにも1つありますけど、そこは、
電子的な仕掛けがないのに、
情報が取れないという政策が成り立っててスゴイ。
曽利 そうですよね。
ほんとに国家レベルでそうなんですから、
個人のレベルでそういうことが起きるのは、
簡単なことですね。

©2007「べクシル」製作委員会
**ここからネタバレ注意です**
── 『ベクシル』で驚いたのは、
フタを開けてみたら一人の人物がすべてを
コントロールしていたという、
ちょっと呆気なさというか、
アッというところもありましたが、
そこが、あれですね、
イリュージョンなわけですね。
曽利 『ベクシル』の中でいちばんその点がね‥‥。
普通は組織立ってみんながやってないと
そんなことは起きないわけじゃないですか、
と思いがちなんですけど、けっこうデキル。
そういう恐い時代に入ってきてるとは
思いますね。
よくマッドサイエンティストとか、SFとか、
さんざん出てくるんですけど、
けっこうリアルになってきてる気がして。
なんでも出来てしまうというのを、
テクノロジーが補完している気がするんですね。
── お話した先端情報技術研究所では、
技術的なところに加えて、
ネット社会が発達したその先の、未来の話、
社会がどんなふうに変容していくか、
人の気持ちとか心、
あるいは子供が変っていくだろうとか、
そういうところもカナリア的に、
危険な匂いを嗅ぎつつ、
興味を持って見ていたんですね。
危険を知って使うのと、
万能のツールと信じて疑わないのとでは
大きな違いで、
そこには必ず闇の部分があって、
使い方次第で、大変な世の中になると
危惧することは必要だというのは、
ものすごく感じていました。
曽利 『ベクシル』に街の風景とか出てくるんですけど、
結局、これは自分の中にとって、
コミュニケーションがあった時代なんです。
いまはモノを買うのも口をきかなくても
買えますよね。
でもちょっと前までは、野菜ひとつ買うのでも、
お店のおばちゃんと話したり、
近所の子供もおばちゃんもみんな知り合いで、
コミュニケーションがあった街だった
と思うんですよね。
いまはコンビニだろうがスーパーだろうが、
無言でモノが買えるし、
インターネットだと人との接触せずに、
いろんなものを買える時代になって、
生活そのものにコミュニケーションが
必要無くなってきている。
恋愛とかに関してもすごく閉じちゃってる人もいて、
メールだけで済ましている人とか、
なんかすごい時代だなと思うんですね。
ちょっと巻き戻して、どこまで行けば、
わりと人らしい生活に戻れるのかなと考えると、
案外、ちょっと前だったりするんですよね。
── かなり前の様子にも見えましたが‥‥。
曽利 僕が子供のころに見たみたいな、
たとえば街に人がいて、
モノを買うときはお店でしゃべってる感じ。
人類の歴史のなかでいくと、
ほんのちょっと前までの状況と、
何千年前の話はほぼ変わらないんです。
平安時代だろうが、中国の昔だろうが‥‥。
── 共通項は「人と人とが直接話をしていた」
という括りですか。
曽利 そうです、そうです。
集団で生きていたという感じがするんです。
でもここ、たぶん20年くらいで、
コミュニケーションツールが急速に発達して、
けっこう立ち消えになったものが
あるんじゃないかなと。
── 確かに急激な変化ですよね。
曽利 変化が早いので気づかないんですよね。
メールは便利だし、それがないと仕事もできない
何もできないという状況に陥りますから。
── 次の世代の人たちは、
生まれたときからネットがあり、ゲームをやり、
という世代ですが、そういう人たちにとっての
社会の温もりみたいなものって、
僅かながらも私たち世代が感じてきたものを
感じずに「温もりってなあに?」っていう
時代になってくるし、そこに何を残すべきか
ということは感じます。
曽利 すごく感じますね~。
『ベクシル』は2050年ごろから始まるんですけど、
僕があと残り60年くらい生きるとして、
60年後以降は自分にとってのSFなんですよね。
僕は息子がいるんですけど、
息子が生きる時代、息子が目撃する時代が
どうなっているか、というのは、
自分にとって、ものすごい身近なSF
だったりするんです。
おわり。
ひさびさのセンタン話に興奮しましたね~。
おもしろかったです。
曽利監督が話す、テクノロジーの発達によって、
「個人化が進み孤立してしまう恐怖」
というネガティブな面というのは、
じつはそうとう根が深くて、
社会問題になるころには、手遅れになっている、
恐らくそういう種類の「陰の部分」だと思います。
たとえばネット犯罪とか、誹謗中傷とか、
ネットの暗い部分はまだ見えやすいほうですが、
人の心の変化や、生活習慣の在り方、
あるいは人のコミュニケーションのとり方、
などのような、わりと知らず知らずに進行している
テクノロジーがもたらす人間への影響力というのは、
「だからなんなの?」と見過ごされがちで、
「もっとポジティブに考えようよ」なんて
無視されてしまうような問題のひとつかもしれません。
でも問題が表面化したころには、
もう取り返しのつかない領域に入ってしまっていて、
「昔はよかった」などと語れる人もいなくなっている
時代というのは、遅かれ早かれやってくるのでしょう。
そうなる前に『ベクシル』を見て、
いろいろ話し合うのもおもしろいと思います。
次回は遠い国に視線を延ばして、
イラン映画『オフサイド・ガールズ』です。
ジャファル・パナヒ監督に、
イランの興味深いお話を伺います。
この映画の“情報開示”はスゴイです!
お楽しみに。
★『ベクシル』
Special thanks to director Fumihiko Sori,
Shochiku and alcine terran. All rights reserved.
Written by (福嶋真砂代)
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