糸井 |
ピーコさんの
心象風景のフォトアルバムを聞いてると、
どうも、ずうっと
「人物」を見ていた感じですね。 |
ピーコ |
やっぱり、人間が好きだったみたい。 |
糸井 |
ふーん。 |
ピーコ |
そりゃ、ダイヤモンドも好きよぉ? |
糸井 |
(笑)ふふふ。
・・・でもダイヤモンドの写真って、
ピーコさんの中では、
枚数が少ないかもしれないと思うなあ。
・・・あ、これちょっと、
会場にいらっしゃるかたがたも
うちに帰って
「何を見てきたのかしら」
って思い出したらおもしろいと思う。 |
ピーコ |
重里にたずねられて、
いま考えてみたら、
ほら、わたし、お金がない中で育ったじゃない?
だから、お金を見ることがなかったの。
おこづかいを持たされることがなかった。
見るものって言ったら、
はたらきに行っていた母親を、
からだの悪かった姉とおすぎと3人で、
むかえに行ったことよね。
横浜駅西口のところ、
あそこにまだ何もなかった時代に、
向こうのほうから、
母親が帰ってくる風景は、よく覚えてる。
日がかげってくると、
「母親が帰ってくる」と思うの。
その母親を、いつでも待っているような
気持ちを、覚えているわね。 |
糸井 |
うん。 |
ピーコ |
はたらきながらでも、
いつでもPTAには来てくれたし、
遠足には必ず余計に
お弁当を持たせてくれたし、
待たされていたわけじゃないけど、
でもわたしは、
「待っている」ということが好きなの。
だからほんとは
オカマのお嫁さんにでも
なればよかったのかもしれないけど、
「待っている」のが、いいの。 |
糸井 |
ということは、
ピーコさんのフォトアルバムには、
誰かのいない景色が、
たくさん、映っているんだね。 |
ピーコ |
そう言ったら、そうね。
・・・待っている人は、いつもいるのよ?
だけど、顔は映っていないかもね。
誰かがいる「はず」の場所を、
いつも、見ているのかもしれない。
いまも彼を待つのが好きだけど、
ただ、究極で言えば、「彼」ったって、
どこまで「彼」だか、わからないし・・・。
こっちの気持ちの
伝わっている人を待っているか、
伝わっていないまま待っているか、
それは、両方あるけど、だけど、
やっぱり、待っていることが好きですね。 |
糸井 |
さびしそうな人を見ちゃうのは、
なんでなんですか。 |
ピーコ |
そうねぇ。
相手がこちらを思っているかどうかは
別にして、何か足りなさそう、
何かをしてあげたくなっちゃいそう・・・。
そういう人の全身じゃなくて
手を見たり、うなじを見たりしているの。
そういう部分から出てくる
「少し、さびしい」とか「カゲがある」とか
そういうところを見ていたような気がするな。 |
糸井 |
この会場の中にも、
そういうさびしい気配はありますか? |
ピーコ |
でもわたし、このごろ
シャンソンをうたっているから
特にそう感じるのかもしれないけど、
女の人のなかには、
「男の人にいつもわかってもらえない」
というさびしさが、いつもあるように思うの。
・・・わたしはそれは欲だと思うの。
男にわかってもらえないなんていう気持ちは、
欲のなせる技だと思っているんですけど、
だけど、そのさびしさは、わかるよね。
わたしも、長いあいだ、
自分の心がどうなっていくのが
しあわせなのかが、よくわからなかった。
このごろはもう、ぜんぜん平気なんですけど。
そういう女の人たちが、わたしの
シャンソンを聞きにきてくれているんです。
わたしのうたっている歌で、
「どういうふうになったらうれしい」
ということが具体的にわかったりして、
涙を流したりしてくれる人がいたりするの。
わたしはヘタでも
ずっとシャンソンを歌ってきて、
ヘタでもいいから、聞きにきてくれた人の
何かになれば、いいなあと思っていますね。 |
糸井 |
なるほどなぁ。 |