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南極に一緒に持っていった一冊のアルバムについて メールが届きました。 どうやら南極に行ってみたかったのは、 斎藤さんだけではなかったようです。
ここに一冊の古いアルバムがあります。 そこには1928年、アメリカのバード少尉が 南極で越冬したときの写真と記事がつづられています。 とじられたのは1965年ころのようですが、 写真の発行は昭和5年7月5日。 日本が南極観測に参加するまだまだ以前の話。 15年前、初冬のある日 「こんなものが出てきた‥‥」と 父が屋根裏から持ち出してきました。 我が祖父が新聞社から入手し、一冊にまとめたものです。 祖父は明治のころ秋田から北海道に渡り、 やがて田舎で呉服店を営みました。 田舎とは私の出身地、陸別町。 北海道東部に位置し、 太平洋からもオホーツク海からも離れた 山間の小さな町です。 日本一寒いと言われ、冬には−40度にもなる、 まるで南極のようなところ。 この寒さ厳しい土地の開拓に 関寛(セキユタカ)という一人の人物が大きく関わります。 関は勝海舟らと共に学び、蘭医となります。 そして齢70になるころ北海道に入植しました。 今でこそ冬も暖かく暮らせますが、 入植当時は南極観測隊のような防寒具もなく、 暮らしは厳しかったであろうと想像されます。 祖父は関寛の足跡を調べました。 何故にして北海道の山奥まで開拓に来たのか? 関も祖父も知らぬ土地で暮らし、 相通じるところがあるのかどうか、 素朴な疑問はおそらく好奇心を駆り立てたことと思います。 それはやがて南極にも思いが繋がります。 アルバムが出てきた15年前は 私が35次隊で南極行きが決まったときです。 不思議な縁です。 父曰く、そういえば写真をスクラップにしながら 南極に行ってみたいと言っていた記憶があるなあ、と。 アルバムはよく見ると呉服屋らしく生地見本の台帳、 ちょっとした生地のカタログです。 これを上手に裏返して写真を貼った手作りです。 物静かであった祖父は囲炉裏端でキセルを吹かしながら 一葉ごとに南極の思いをめぐらせていたことでしょう。 このアルバム、35次のときは持ってきませんでした。 なんとなくまた来るからその時に、 という心境だったと思います。 そして今回、第一便で「ほぼ日手帳」とともに ドームふじ基地にやってきました。 祖父が手にして以来70年を経ても、 そこにあることが当たり前のように本棚に収まりました。 私は今、ドーム基地から雪上車に揺られ、 昭和基地、そしてヘリに乗って「しらせ」へ乗艦し、 一路北上しています。 観測隊はシドニーで「しらせ」を降り、 空路で帰国しますが、荷物は船で運びます。 祖父のアルバムは荷物と一緒に海路にしました。 航路はレイテ沖を通過します。 そこはかつての大戦の激戦地域。 多くの若者が眠る海。 祖父の息子も眠る海。 アルバムがその場所を通るころ、どこか知らないところで、 祖父は息子に南極の話を伝えているかもしれません。 そんなことを思いつつ南極を離れます。 さあ、そろそろ帰ろうか。 祖父が思いを馳せた南極は 今も昔も変わらず白一面の世界。 その素晴らしさと研究の成果を こちらは現世で伝えようと思います。 2007年3月20日 第47次日本南極地域観測隊 斎藤 健 ************************* 何十年も前に作られた思いのこもったアルバムが 孫の手で南極に届いたのですね。 そしてひさびさにお見かけする斎藤さんご自身のお写真に、 南極に着いたころとは違う力強さを感じてしまいました。 そろそろ斎藤さんの乗っている、 「しらせ」もシドニーについている頃です。 斎藤さんへの質問や応援、激励、感想は 日本に帰国されたときにお渡ししますので 「南極観測隊斎藤さんへ」として postman@1101.comまでお寄せくださいね。 南極観測について、 さらに知りたいという方は こちらの「極地研究所」のホームページも ぜひご覧ください。 |
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