相田さん、だいじょぶか? 「なんとかスタン方面」からの現場報告。 |
レポート#6 イキテカエッテコイヨ。 10/28 曇り タシケント、サマルカンド、ブハラといった ウズベクオアシス都市は、くねくねと曲がりくねった 迷宮のような裏通りが果てしなく広がる旧市街地と ロシア式に整備された新市街地とに分かれている。 新市街地とはいえ既に年月を経ており、 広く作られた道路に植えられた街路樹の根は どっしりと大地に根付き、その幹は抱えきれぬほど太い。 そしていま、夏に涼しい木陰をもたらしたであろうその葉は 黄色く色づき、町に彩りをもたらしている。 サマルカンド新市街地 昨夜の宿はそんな町並みの一角にあった。 二階建てで、付近の家並みから比べると豪勢な邸宅だが、 かといってロビーやフロントがある ちゃんとしたホテルではない。 玄関は一つで、上がったところが 家族と共用の居間になっており、 2階に5部屋のゲストルームがしつらえてある。 高級下宿といった態の宿だ。 とはいえ、往年のかまやつ氏の歌にあった ‘おばちゃんサケー持ってやってくる。’といった、 親密な関係は望むべくもない。 これは彼らにとってあくまでもビジネスなのだ。 とはいえキレイナ部屋と熱いシャワーと電話回線があれば とりあえずはハラショー。 足りないものは自分でなんとかする。 それが旅の醍醐味でもある。 とりあえず足りないもの、 それはコートかダウンジャケットか。 雪は降ってはいないが、その朝は非常にさむかった。 午前中はウジウジと背中を丸めてPCの鍵盤掃除に費やす。 昼に宿を出て、人に道を聞く。 この住宅街は町の中心からは少々離れた場所にあって、 自分のいる場所がどこかということすら わからなかったからだ。 ちょうど通りかかったのが ウズベクドテラを着た青年だった。 すると驚いたことに、 キレイナ英語で答えが返ってくるでははないか。 ’93には考えられなかった事態である。 前回は外人専用のホテルですら、 フロントパーソン以外はほとんど英語が話せなかった。 まして行きずりの町の人間に 英語の話せる者などいるはずが無い。 多分、それは旧ソ連の政策だったのだろう。 国営旅行会社のガイド以外には、 外国人と付き合ってもらいたくなかったに違いない。 彼の名前は、シェルホン。 近所に住む、サマルカンド外国語大学の学生さんだ。 独立後の政策転換の恩恵にあずかり、 昼食に誘ってくれた彼の家に向かう。 この街のごく平均的な家だ。 古びた白壁の平屋で、 窓の木枠はペンキがいたんではげている。 ベッドに椅子のロシアスタイルだが、靴は玄関で脱ぐ。 居間には質素なテーブルとソファー。白黒のテレビ。 そこで迎えてくれたのはシェルホン君ののお兄さんだった。 兄貴の名はファルック。 法律家でサマルカンド市のために働いているという。 この国で一番人気の「ネクサ」という 日本車で言うならばカローラクラスの イケテル車をもっていたぐらいだから、 収入のいい立派な仕事のようだ。 シェルホン兄弟との昼食 車を持っていたと、過去形になるのは、つい最近 事故に遭ってオシャカになってしまったからである。 さいわい兄貴の体は大事には至らなかったようだが、 額にはまるでプロレスラーのような稲妻型の傷があり、 なまなましい。 まだ自宅療養中なのだ。 お兄さんもいい奴で、男二人の手料理を振舞ってくれた。 兄貴は英語は駄目で、キルギスのワインを飲みながら、 「君がロシア語ができれば、 山ほど話したいことがあるのに。」という。 わかっちゃいたんだ。 何度NHKのロシア語講座の本を買ったことか。 まあこの場には通訳がいるからこまらないが。 「ところで日本ではアフガンの関係で ウズベクはどう報道されているのかい」 「そりゃあモチロンとても危険だと思われているさ。 タリバンに宣戦布告されてるんじゃあなあ。」 「でも実際はコンナに平和なのに。」 「そうだ、こんなに平和なのにだ。」 「しかも大量の炭疽菌が アラル海で発見されたらしいじゃないか。」 「ええっ、そんなの聞いたことも無いよ」 「いいかい、僕が日本を出るとき 友人になんて言われたか教えてやろうか。 『やめとけ』『危険すぎるぜ』 そして『生きて帰って来いよ』だ。」 イキテカエッテコイヨ。 このまちののんびりした雰囲気からは おおよそかけ離れたコトバだ。 シェルホン明日はどこか行くのか? 学校かそうかイキテカエッテコイヨ。 トシ、どこいくそうかトイレか、イキテカエッテコイヨ。 三人でしばらく笑い転げた。 のんびりしていると日が暮れてしまうので ファルックに礼を述べて、シェルホンと一緒に街に向かう。 ビビハ二モスクの近くでバスを降りる。 「さて、どこに行きますか。」 「そうだなあ、どこでもいいからとりあえず歩こうよ。」 「じゃあレギスタン広場にでも行きましょう」 道路が大幅に区画整理されていて、 道は広くなりおしゃれな街灯が並んでいる。 サマルカンドはこの8年間に大きく姿を変えていた。 タシケント以上の変わりようだ。 ビビハニムモスクからレギスタン広場まで 15分ほどの町並みが僕の記憶とはまったく違っていた。 モダンでお洒落なプロムナードが出現していたのである。 バザールからビビハにモスクへ ビビハにモスク 今までに出会ったウズベク人に 「’93に一度来ているんだ。」と話すと、 「おお、そりゃずいぶんムカシの話だなあ。」 という答えが返ってきていた。 日本では空白の十年といわれた年月が、 こちらでは濃密な激動時間であったのだ。 僕もこの8年間は空白をしていたので、 いささかあっけに取られた思いだ。 脇道をのぞいて見ると、 そこには細くてクネクネのでこぼこな 由緒正しき旧市街が見えてチョット安心するが、 寒さのせいか人影はない。 レギスタン広場。 天山山脈以西のシルクロードの象徴ともいえる、 まごうことなきサマルカンドの中心地である。 初めて見たときのインパクトは強烈だった。 3つの荘厳なマドラサ(イスラム神学校)が 広場を囲んでそそり立つ様は 異様ともいえる程の圧倒的存在感で 僕を時代のかなたへトリップさせた。 もっとも、そのときに僕の頭に浮かんだ言葉は 「これぞまさしくドラゴンボール、天下一武道会の会場。」 だったから、やはり文章家にはなれそうもない。 その時はまだ夏の香りが残る9月の中。 今回の寒風に震えながら見るレギスタン広場は、 こころなしかちぢこまって見えた。 レギスタン広場のマドラサ 広場の入り口でシェルホン君が誰かに手を振っていた。 女の子である。 「友達だ」というのでガールフレンドかと聞くと、 「そうだ」という。 外語大学の同級生の彼女は、 アルバイトでここのガイドをしているのである。 アフガン問題で観光客は絶滅状態だから暇なのだろう、 シェルホン君の友人ということで 只で案内してくれるという。 どうでも良かったのだが、 せっかくのご好意、むげに断るわけにも行くまい。 ところが説明する彼女の唇が、寒さで震えて 言葉がうまく出てこなかったりする。 シェルホン君が自分も寒いだろうに コートを脱いで彼女に着せてあげていた。 かわいいカップルだ。 シェルホン君とガールフレンド 以前との違いで気になったのが、 広場に作られた円形のステージである。 かなり広くて、広場をほぼ埋めているほどのものだ。 聞けば、独立記念日や国をあげての祭りの日には、 セレモニーや歌って踊っての華やかなショーが 催されるという。 それはイイのだが、 どうもこの場の壮麗さを損なっているように見える。 その分マドラサが低く見えてしまうからだ。 マドラサの一部はギャラリーや店になっていて、 その一つにコタツが展示されていた。 どう見ても日本と同じコタツである。 もぐりこんで雑煮でも食いたくなってしまう。 寒いからだ。 観光は早々に切り上げて宿に戻ることにした。 |
2001-11-16-FRI
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