相田さん、だいじょぶか?
「なんとかスタン方面」からの現場報告。

レポート#9
ぼくは市場に行くと不思議に落ち着く。



10/30 曇りのち晴れ

アルモソフ家の朝は早い。
ウルマスは4時に起きて羊をどこやらに放しに行く。
お前はまだ寝てろよ、といわれ、
うとうとして目覚めると7時だ。
顔を洗いに中庭に出る。
水道が引かれていて蛇口をひねると
じゃあじゃあと澄んだ水がほとばしる。
庭の一隅に置かれた土製のかまどでは
ナンを焼き上げている最中だ。
朝食に供された焼きたてのナンのうまいこと。
皮はぱりっとしていて、中はほかほかのもちもち。
チョットぶどうのジャムをつけたり、
サワークリームをつけたり、
昨夜の残りのショルパ(スープ)に浸したりしていただく。
最高だ。
おいしくていくらでも食べられてしまう。
おなかいっぱいになったところで、ウルマスが言う。
「トシ、行くぞ、バザールだ。」


バザールへ向かう道

ウルマスの家からバザールへの道。
曲がり角の一つ一つを覚えてゆく。
意外と簡単である。
白壁の迷宮が途切れると、幹線道路の向こうはバス乗り場、
軽のワゴン車を改造したバスが並ぶ。
その先からがバザールだ。
うきうきするなあ、もう。
現在の中央アジアのバザールは、
ソ連時代にデザインされた構造を引き継いでいる。
主要な部分が屋根で覆われていて、
はみ出した小店舗がその外に店をひろげている、といった
どこも変わり映えのしない作りだ。
しかし、ここサマルカンドのシアムバザールは、
ビビハニムモスクのすぐ隣にあって、
見上げると「青の都」のゆえんたる
ブルーの大ドームがまじかに見られて雰囲気がある。
サイズも人出も手ごろでいい感じだ。

荒物屋の露天街から薄暗い青果売り場へ入り、
その先が漬物、スパイス。
その向こうには菓子屋が並ぶ。
うれしいなあ。
僕はどの国へ行っても市場に行くと不思議に落ち着く。
多分、子供の頃の体験のせいだろう。
母方の祖父が戦後、東京の私鉄駅前で闇市を営んでおり、
(テキヤの元帳を僕は形見に持っている。)
昭和の30年代後半にかろうじてまだ残っていたその市場を
僕はヨチヨチ歩きで闊歩していたのである。
大家の孫ということもあり、
のり屋のじいさんとか、たまご屋のおばあさんなど、
たいそうみんなに可愛がられていたのである。
僕の人生でもっとも人にちやほやされた時代といっても
過言ではない。
そうゆう思い出が、
メロン売りの少年やスパイス売りの青年、
タライにざくろを積んで売っているおじいさんなどの
バザールの売り子たちに親近感を持たせるのだと思う。


ビビハニモスクとナン売り場

菓子類売り場から通路をはさんで、
ナン売り場は独立した屋根の下にあった。
ビビハニムに一番近い側にだ。
ウルマスの売り場はその中でも良い場所にあり、
売れ行きもよさそうである。
「トシ、いいか一つ250ソムだ。」
どうやら僕に手伝えといっている。
面白いオヤジだ。
「ほら、トシ客だ。」といわれて
こっちもその気になって接客するが、
やっぱり日本語では売れないなあ。

しばらくナン売り場で売り子のおばさん達と遊んでいたが、
「ウルマス、せっかく日本から来てるんだから
 ずっとここにいさせたら可愛そうよ。
 ビビハニムでも見に行かせてあげなさいよ」
とみんなが言うので、
せっかくだから散歩に行ってみることにした。
ビビハニムモスク。
チムールが建設した、中央アジア最大のドームを持つ
中央寺院である。
アレキサンダー大王、アラブ、チンギス・ハン。
中央アジアの歴史には、さまざまな征服者が登場する。
チムールはサマルカンドの南
シャフリサーブス近郊で生まれて大帝国を築き上げた、
ウズベキスタンの民族団結のシンボルである。


ナンの売り子達

チムール帝国、と聞いても
日本人の僕にはいまいちぴんと来ないが、
アフガン、パキスタン、イラン、
アゼルバイジャンを始めとして、
東はインドのデリー、
西はトルコ、シリアの一部までを領土とする
大帝国であった。
なぜサマルカンドが青の都と呼ばれるのか?
それはチムールが青色が好きだったからだ。
彼は各地で破壊と略奪の限りを尽くし、その財宝を運んで
サマルカンドとシャフリサーブスを美しい都に築き上げた。

受付で見学料を払って中庭にはいる。
マドラサの前で、小学生くらいの子供が
先生に引率されて掃除をしている。
見学者は僕だけのようだった。
中庭を一回りしてから市場に戻った。


中庭にて

今度は市場の見学だ。
スパイス売り場ではしきりにサフランを勧められる。
観光客が買うのだろう。
果物売り場は、日本の国内で秋に取れるような果物は
大抵そろっている。
柿が今は盛りのようだ。
それとざくろも大量に売られていた。
こちらの宴会には付き物の果物だ。
全部回りきらないうちに昼近くになったので、
ウルマスのところへ顔を出し、
「約束があるから外語大学まで行ってくるよ。」と
言い残して、歩き始めた。
シェルホンと12時に待ち合わせていたのである。

ところがだ。やって来たのは宿屋の関係者2人と
見知らぬ男2人の4人組だ。
昨夜ホテルへ帰らなかったので、
心配して警察へ連絡したのだという。
2人は警察関係者だったのだ。
宿の奴が、
登録されていないところには泊まれないんだ、
罰金を取られるぞ、と脅かしやがった。
「金は払う。荷物も預けておく。
 だから他所に泊まってもいいだろう。」
と言ってみたが、
「それはできない、ウチへ泊まるか、
 それとも君の次の目的地へ移動するかだ。」
という。なんて頭の固い奴だ。
警察からはパスポートのチェックを受けただけで
すぐに開放された。

4人組が去ると、やっとシェルホンが現れた。
「オー、トシイ。ぶじだったのかあ。」
なんと、昨夜やどの奴が人を送ってきて、
彼の家で夜中の3時まで待っていたそうである。
サマルカンドで、昨夜の平穏を破る最大の事件は、
日本人カメラマン失踪未遂事件だったのかも。
迷惑をかけたな、シェルホン。ゴメンネ。
謝る僕に、
「よかった、ほっとしたよ。
 だってトシが無事だったんだからね。」
といってくれる。
そして、
外大には日本カルチャーセンターというものがあって
そこにも先ほどの4人組が押しかけていたそうなので、
お詫びをかねて見学に行く。

韓国コンピューターセンター、トルコ文化センター、
アラブ文化センター、と並び、
その先が日本文化センターだ。
覗いてみたところが、
女生徒が2人いるだけでがらんとしている。
彼女達は警察沙汰の話は知らないと言う。
一人はきちんとした日本語を話した。
よかったら明日来てくれればもっと沢山の生徒が来るし、
みんな喜ぶという。
時間があればぜひ寄らせてもらうといって、辞去した。

シェルホンとも分かれてバザールへ戻り
ウルマスに事情を説明するが、うまく伝わらない。
ホテルまでついてきてくれると言うので、
一緒に新市街地まで向かった。
結局のところ、滞在地の登録はその住所に移ってから
3日以内に行えばよいと言うことがわかって、
僕は荷物を旧市街地へ移すこととなった。

その夜、ウルマスにウズベク人の格好をさせられ、
地下でナンの下ごしらえをしているところへ
つれてゆかれた。
発酵し終えたナンダネを、計って切り分け、
一つ一つを丸めて置く。
という作業をしているところだった。


ナン作り

見ていると簡単そうにくるくる丸める作業だが、
やってみると難しい。
写真をとってくれるというので、
一生懸命に手伝っているフリをした。


ナン作りにいそしむ、アイダ氏。

2001-11-22-THU

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