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青木さんのつくった
青森の美術館を見ていると、
「……彫刻ですねぇ」と
つい、言いたくなるんですよ。
いい詩でも、いい音楽でも、
心を動かされると、つい、
「彫刻」を連想してしまうんだけど、
こういうほめかたは、
もしかしたら、おかしいのかなぁ。 |
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その場合の彫刻って、
どういうことを言っているんですか? |
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「彫りだす」
という意味なのかもしれないなぁ。
もうちょっと、その感覚を、
自分のなかで育ててみますけど。 |
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ぼくの「彫刻」の印象は
「裏表がない」ということです。
絵画は、
裏から見たら成立しないけれども、
彫刻は、どこから見ても成立する……。 |
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いま、青木さんは、
彫刻という言葉に、そういう
「ルール」を与えてくれたんですね。
彫刻もそうですけど、
あらゆる表現というのは、
もちろん、
「ああじゃない」「こうじゃない」
と細部にいたるまで
検討しなおせるわけです。
ただし、実際にのこされるものは、
あらゆるほかの可能性を排除した結果だし、
「あれは、やめた」
「これは、やめた」
の集積でもあるわけでして……。
ぼくが「彫刻」と言いたくなるのは、
「これでしかないもの」を
生むおもしろさ、なのかもしれないですね。 |
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そういう意味では、
彫刻は、
「可能性を削っているもの」
とも言えるものですね。
じつは、
家をつくる過程でも
そういうことはあります。
どんなに
うまくいっている建築にも
かならず、
クライシスがあるんですよ。
クライアントのかたが、途中で、
イヤになってしまう時期なんですが、
そのいちばんの原因は、
「可能性が減った」ということです。 |
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つくりはじめる前は
どんな建築でも、可能性は無限です。
まだ、なにも決めていないですから。
だからこそ、
ものすごく気にいった案でも、
自分の家の可能性が
ひとつにしぼられるという
「決断」があると……イヤになるんです。 |
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あぁ、そういうときには、
クライアントには、
青木さんの嫌いな「儀式」が要りますね。 |
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そうなんですよ!
糸井さん、よくわかりますねぇ……。 |
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クライシスが
だいたい今日あたりだな、
というときは、わかります。
そのときは、抽象的にいえば、やはり
「元気づける」ということが必要ですね。 |
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しびれるなぁ……!
「元気づける」かぁ。たしかに重要ですよ。 |
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家の建築がむずかしいのは、
「なかに住む人の人生もかわっていく」
からだと思います。
人に影響しない建築は不可能ですし、
人に影響しすぎて、
その人をとじこめてしまうというのも、
イヤでしょう……そうなれば、
ミステリーみたいになってしまいます。
家が人を殺す、と言いますか。
そこで、どうすればいいのかを
建築家は、考えるわけですけど。 |
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無味無臭だと、こまりますよね。
なんらかの強制条件というのは
出てきますけど、
その強制がイヤでないというか……。 |
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結局のところは、
建築家のこれまで生きてきた
人生観みたいなものが開示されてしまう、
おそろしい仕事ですよね。
ミニマリズム(最小限度のかたちの連続)
に逃げてしまうというのは、
昔ならまだしも、今は認められませんし。
流行しているときには
それもいいとされていたけど、今なら
「それは、ずるいよ」
と、思われてしまいますもんね。 |
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ええ。
いちばんの問題からは
逃避していると言いますか。 |
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(次回に、つづきます)
2006-06-06-TUE |