From: 渡辺 謙
To: 糸井 重里
Subject: しぶとく、梅の続き・・・。

「国境」についてお返事する前に、
もう少し言いたかったことがありました。いいですか?

即返信が来るので、
「こいつ、“メール好き”か?」
と思われそうですが
書ける時に書いておかないと、忘れてしまうので・・・。
気にせず、そちらはのんびりやってくださいね。

さて、「線」の話です。
今回の映画をやっていて、ふとまた自分自身の記憶の中から
引っ張り出されたものがありました。

一度目の病気を乗り越えて、仕事場に復帰した時のことです。
医者の了解も得て、
僕は他のキャストやスタッフに迷惑が掛からないよう
万全の態勢で戻ったつもりでした。体も、心も。
仕事が出来る喜びをかみ締めながら、
でもごく普通の今までの仕事と変わらぬように
自分ではやれたつもりでした。やれてたと思います・・・。
通常、我々は「お疲れ様でした」と言って現場を去ります。
僕がその言葉を発して帰ろうとした時、
ある俳優さんが優しく「お大事にネ・・」と
言ってくれました。勿論僕の体を気遣っての一言でした。
でも、何故か僕の心はいたく傷ついていました。
「ああ、やはり回りは僕を病人としてしか扱ってくれないのか?」

最近でもそうです。
「ラストサムライ」以降、順調に、
しかもかなりハードな仕事を
お見せしているにも関わらず、
「お体は大丈夫ですか?」と聞かれる。
その人にとって、いまだに僕は
線の向こう側にいる人だと思われているんだなあって、
少しがっかりするんです。
勿論、勝手な言い分だと承知の上で、お話ししています。
でも、こういう気持ってあるんですね。
きっと、僕自身も誰かに、
傷つける言葉を浴びせていることだってあるに違いないのです。

困っている人に何か力を貸したい。助けたい。
とても素敵なことだと思います。
そうやって僕も多くの人に支えられてきましたから。
でも、本当に必要な時に、
必要な分だけ助けていくって本当に難しい気がします。
人はたった一言で、救われたり、
どん底に突き落とされたりしません?
その違いが、「線」なのかなって思うんです。
線の向こう側から投げかけられる言葉って、
すごく距離を感じるんです。
線を引かれた向こう側に居ると・・・。

先日、この「明日の記憶」を認知症と向き合っている
(戦っているという言葉はもっとも嫌いです)
患者さん、ご家族の方々にお見せして、懇談会をしてきました。
随分と勇気のいる事でした。
でも、それをまず越えなければ、この映画を世に送り出せない。
そう強く感じながら撮影をしていました。
映画の中で、絶対に「線」を引くまいと・・・。

でも、試写が終わり、その50名の方々を前にした時、
僕は、何て不遜なことをしているんだろうって思いました。
たかが、映画一本作ったくらいで、
偉そうに何かを語れるのかって・・・。
でも、皆さんがこの映画を
どう受け止めてくれたかを話してくれた時、
自分がこの映画に関われたことは
間違いじゃなかったと思いました。
僕たちの間には「線」が無かったのです。
少なくとも僕たちは、彼らの近い所に居られたのです。
彼らのために何が出来るって程、僕に力はありません。
でも、近くに居られるってことだけはできた気がしたんです。

だから、取材とかでも
「実際にこの病気になったらどうしますか?」という質問が
今、一番嫌いです。
だって、その質問は、
ただ病気を恐ろしいものとしか捉えてないんですもの。
なりたくない、なったらおしまいだ・・・
そう思ってるだけなんですもの。
病気と向かい合っている人を、
遠くから「可哀想に」と眺めている感じがするんです。
見えない線がそこにはあるんです。

今回はちょっと過激な発言が多かったことをお許しください。

「そうは言ってもさあ、じゃあどうすりゃいいんだよ・・・」と
言われますよね、きっと。
僕もその先は分かりません。悩んでいます。
人と繋がることの難しさと、素敵さを
いっぺんに学ばせてもらってます。
また、長くなってしまいましたね。
この辺で・・・。

渡辺 謙

2006-04-08-SAT



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