『明日の記憶』とつきあう。 堤幸彦監督との対談。 「これはぼくのデビュー作です」




第2回 はだかの渡辺謙さん

糸井 堤さんは、渡辺謙さんと
以前から仕事をしていたんですか?
『池袋ウエストゲートパーク』
『溺れる魚』という作品で
ごいっしょしたことがあったんです。
そのときに、まあ、うまく言えないんですけど、
相通じるものがあったんですね。
糸井 なるほど。
なんていうんでしょう、
あんなに俳優魂にあふれている人は
見たことがない。
それでいて、決して視野が狭くない。
そういうところに、すごさを感じるんです。
糸井 そうですよねぇ。
だから、謙さんがハリウッドで評価されるのも
ぼくはぜんぜん不思議じゃないんですよね。
ほんとうによくできた、尊敬できる人ですから。
今回、謙さんから連絡いただいたとき、
すごく不安もあったんだけど、
「謙さんがいるから大丈夫」
っていう気持ちがあったんですよね。
糸井 なるほど。
あの、誤解されると困るんですけど、
謙さんのなかにも、
そういう気持ちはあったんじゃないですかね。
その、「監督の相棒としてオレがいるぞ」
っていうような。
あ、それはありますよね。
糸井 エグゼクティブ・プロデューサーとして、
うるさく言うということでもないでしょうけど。
うるさい、ということではないですね。
でも、あの、関わりかたとしては
‥‥すべてですね。
糸井 「すべて」。
はい。関わるものすべてに関して、
意見を出し合い、議論し、共感し、反発し、
みたいな感じでずーっと進んでいく。
それは非常に、気持ちよかったですね。
糸井 謙さんとメールのやり取りを
しているとわかるんですけど、
あの人は「はだかで突進してくる」
みたいなところがありますよね。
こう、真正面からぶつかってくる。
そういうメールを受け取ると、
感動するのと同時に、
返事を書くのにすごく心の準備がいるんですよ。
ああ。
糸井 たぶん、堤監督も、その
謙さんの「はだか」と
正面からつき合っていったわけで。
そうですね。いろんな意味で、
自分の検証をしなくちゃいけなかったというか。
糸井 うん。
まぁ、ちょうど自分も50歳だし、
主人公の役も50歳だし。
日本が経済的に高陽したあとダメになって、
ぼくらの年代の人間も
ゼロからいろんなことをはじめて、
バブルがあって、またダメになって、そんななかで、
「つぎ、どうすんだよ?」っていう気持ちもあって。
ぼくらの上の世代、いわゆる団塊の人たちに向けて、
何か作品を作るべきなのかって意識も
ずっとあったんですけど、
その端緒も簡単には見つからなかったし。
糸井 ああ。
そういう意味では、
この『明日の記憶』っていうのは
いろんなことがぜんぶ幸福なかたちで
合体したようなイメージなんです。
といっても、実際の作業は非常に複雑で、
自分のほんとのレベルを
毎日、試されるような感じでしたけど。
‥‥恐怖と快感。
どっちかと言うと、快感が増えてきて、
「もっといじめて!」みたいな(笑)。
糸井 や、わかります。それはちょっと。
たとえば通常だと、
撮影スタジオって9時に入るんです。
だいたいぼくは20分くらいまえ、
8時半くらいに行く。
でも、もういるんですよ、謙さんが。
「監督、今日、ここなんだけど、ちょっと読むね」
って言ってセリフを読み始めて、
「こうしましょう、こうしましょう」
って言ってるうちに撮影がはじまっちゃう。
で、つぎにぼくが8時に行って待ってると、
今度は謙さんが7時50分くらいにいらっしゃって、
だんだん早くなっていって、
誰もいないところに2人でずっといる
みたいなことが、しばらく後半続いて‥‥。
糸井 はーーー。
ただ、その、
本番がはじまるまえの1時間の、
脚本や、今日の意気込みみたいなものの確認、
そういうものに関する切磋琢磨が、
なにか、この作品の、
ちょっとした原動力になってると思うんです。
糸井 ああ、それはそうでしょうね。
その熱みたいなものが、スタッフや、
キャストのみなさんに伝播していって。
ほんっとに、得がたい経験でした。
撮影ってこういうことなんだって。
糸井 ないでしょう? そんなことって。
はい。ないです。
糸井 ねぇ?
(つづきます!)

2006-04-13-THU



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