自転車思想。
チャリンコは、未来そのものの顔をしている。

第14回 ふたつの視点

こんにちは。

北海道在住の読者の方、何通かメールを頂きました。
「冬は自転車乗れません!」
という方もいれば、
「北海道では冬に自転車に乗っていても『危ないよ』より
 『元気だね』と言われるんです。」
という方もいらっしゃいました。
南の方はどうですか?
沖縄とか暑いんでしょうねぇ。

さて、自転車の走行に関して、
過去の連載で考えてきたことは、
インフラストラクチャーのことと、
交通法規というのはしっかりとあって、
それは重要でやはり参考になる、ということでした。
念のため、道路交通法
全文へもリンクしておきますね。

でも、どんなにインフラ整備が進もうと、
交通法規が周知徹底されようとも、
それらがどのように運用されていくかが問題ですね。
簡単に言ってしまえば、あなたや僕がどう乗るか?
ということです。

「自転車が快適かつ安全に走る空間が
 確保されてもないのに行政が一方的に、
 利用者にマナーを求めるのは筋違いだ。」

と書きましたが、逆の見方をすると、
今後、インフラが整備されればされるほど
マナーや、モラルの問題がよりいっそう
クローズアップされてくるはずです。

まず、僕の視点Aを紹介しましょう。

『道路というのは、“公”のものであり、
 公共の利益という点を考慮してルールが存在する。
 ルールが存在しているということは、
 道路における自由は、そのルールが定める範囲内、
 さらに明文化されないまでも、
 肉体的・精神的に、他人の迷惑にならない範囲内に
 当然のごとく、制限をうける。
 このルールを軽視したり、
 軽視の結果として事故を起こしたり、
 路上で危険な行動をしたりすると、
 その行為に応じたペナルティーが課せられる。』

むむぅ。
ちょっと息苦しいですねぇ。
でも、これはこれで正しいんです。
交通における自由と、例えば表現の自由。
同じ言葉だけど、その中身はかなり異なります。

さて、このような前提に立った上で、
よりいっそうのマナー・モラルの向上を求めるとします。
そうすると、方法としては、
「みんなに教える・知ってもらう。」
ということになりますね。
つまり、街でよく見かける看板や、標語です。
現状で、自転車利用者のマナーが悪いのであれば、
もっともっとたくさん看板を立て、ポスターをはり、
ネットなどの方法も使い、周知徹底させていく。

しかし、今までもこの方法は行われてきてますが、
交通事故は増え続けてますし、
交通マナーが改善してる…、とは思えませんよね?
つまり、今まで行われてきた、
マナーや、モラルに関する呼びかけは、
とてもじゃないけど、
成功したとは言い難いんじゃないか、ということです。

誰だって、街中のいたるところに、
「〜しましょう。」
的なメッセージが溢れてたら、
あまりいい気分はしませんよね。
少なくとも僕はそうです。
メッセージを呼びかける『社会』に対して、
信頼というか、信任というか、
何らかのポジティブなものがなければ、
そういう一方的な伝達はうまくいかない気がします。
でも…、ちょっとそれは難しくないですか、今?

この問題を無視して、
よりいっそうの呼びかけを行えば、
無関心な態度を取る人や、
反感を持つ人たちが増えるでしょう。
そりゃぁ、マナーも向上しないはずです。

かといって、
『社会』がドンドン強くなって欲しいかと聞かれると、
「?」と言うしかありません。
それはそれで安全かもしれないけど、
息苦しい世の中ですからね。

そういう中で、マナーやモラルを求めるとしたら、
可能性があるのは、そのメッセージの内容よりも、
メッセージを伝える表現のクオリティだと思います。
伝えるTPO、内容、表現の方法に
もっともっと頭を使う必要があるでしょう。
(実は、僕が今書いてることも、
 ある意味この努力のひとつなのかもしれません。)
少なくとも、今までのやり方では、
息苦しさは増える一方で、
その効果はあまり期待できないと思います。

さてと、次にもう一つの視点Bです。

僕はいろんな人を尊敬する方なんですが、
その中に“不良なオトナ”系の人たちがいます。
(知らなかったらゴメンナサイ!)
グルーチョ・マルクス、
小説家の石川淳、
かまやつひろし、などです。
その中の1人に、死神博士の俳優天本英世氏がいます。

スペインを愛する彼が、
あるインタビューでこんなことを言ってました。

「スペインの小学校では、道の渡りかた子供に教える時、
 『信号ではなく、自分の目を信じて渡れ』
 と教えるんだ。」

その話の一環として、日本人は赤信号の時に
クルマが通ってなくてもボンヤリ待っている、
なんてことを怒りを交えて語っていました。

かつて、アメリカの友人にも同じこと言われました。
そうですよねぇ、外人ってサッサと渡っちゃいます。

これは、視点Aと全く違いますね。
どう違うのかっていうと、
自分と『社会』の位置関係なんじゃないか、
と、かなり長いこと考えてわかってきたんです。

視点Aでは、まず社会があって、ルールがある。
それに参加する自分は、
その社会のルールや慣習に制限される存在である。

視点Bでは、まず自分がある。
当然、社会もあるんだけど、
その社会を信頼なんかしていないし、
さらにその社会の外側にも、いろいろな人がいて、
共通のルールなんかに従ってくれるはずもない。
そういうハードな世界観に立った上で、
天本翁は、自分の判断力が一番なんだ、
と言っているのではないかと思います。

たぶん、視点Aよりも、視点Bの方が
射程に捉えている世界は広いのでしょう。
言葉が通じない、習慣も、ルール観も違う国や
社会の中で生きぬくための考えかただと思います。

ただし、これが危なっかしい考えであることは、
間違いないでしょう。

「自分で責任取れるなら、何やってもいい。」

と解釈される危険性がすごく高い。
いや、たぶん天本翁はホントに、
そう考えているんじゃないかと思います。

こう考えてみまましょうか?
視点Bからでは、公共の安全という考えは見出しにくい。
だから、視点Aも決して不必要ではない。
でも、視点Aがちゃんと成立する状況って、
案外限定されていて世界的に考えても特殊かもしれない。
視点Aが破綻してしまう可能性だって、
実際にあり得るわけで、
あらかじめ視点Bも持っていた方がいい。
最終的に自分の安全を考えるのであれば、
ルールも重要ですが、自分の判断力を失う方が危険です。

そしてもう一つ。
視点Aは、どんなに正しそうなことだったとしても、
それを一方的に伝えられるわけですから、
どうしても説教がましかったり、
押しつけがましくなってしまう可能性があります。
すると、やっぱり息苦しくなるし、
ニヒリスティックになって、
「どうでもいいやー。」
という気分になるのも、別に不思議ではない。
もしかしたら、
必然的にそうなる、のかもしれません。
だから、自分の中に視点Aと視点Bを確保しておいて
うまく使い分ける方法を獲得できれば、
もう少し風通しよく、
かつ安全な自転車生活ができるのではないでしょうか?

最後に。
もしかしたら、
天本翁には怒られるかもしれませんが、僕は思うんです。
クルマが来なくても赤信号で待ってる日本人の中には、
決して判断力がないとか、
自分の目を信じられないくらいに
社会に適応させられてるんじゃなくって、
そこまで急ぐ理由がない時は、
単に無理しない、それだけなんじゃないかと…。
だったら、それはそれでとってもピースだし、
ある意味、上品さの現れなんじゃないでしょうか?

Ride safe!

2000-11-30-THU

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