自転車思想。
チャリンコは、未来そのものの顔をしている。

第50回 兒玉卓也くんのこと。

本当は、もう少し練りたいと思っていたんですが、
これを書いて、手直ししているたった今、
とてつもないことが、アメリカで起きてしまいました。

今回の、兒玉卓也くんのインタビューの中にも、
湾岸戦争の時のエピソードが出てきます。
(もちろん、これをインタビューして、
 まとめていたのは、もっと前です。)
どんな背景があるのか?
このことが、今後世界でどういう影響をもたらすのか?
今は、まだよくわからない。
ただ、平和を願います。

以下、インタビューです。

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コッパズカシイことを最初に書かせてもらえば、
兒玉卓也くんは、日本で最高の友人の1人だ。
この夏は一緒に四国へツーリングも行ったし。
サンフランシスコの自転車乗りが集まる、
とある家で、僕は彼の名前と電話番号を知った。
本当に、ただそれだけで僕は彼を京都に訪ねた。
’99年の秋のこと。
そんな卓也くんに、自転車との関わりを改めて聞いてみた。
お互い、寝不足とお酒でボロボロだったけど。
けっこうハードなことを語っているけど、
本人はとっても気さくで楽しい人ですよ。
↓の写真も、目腫れまくりですねぇ。


現在、33歳。
『ナチュラルサイクル』店員&メカニック、
そして、“KAZE”でメッセンジャーとしても走っている。
自転車屋さんは、勤めて5年目で、
メッセンジャー歴は9ヶ月というところだ。

出身は奈良県。
自転車に乗れるようになったのは、小学校高学年から。
意外と遅いね、と思わず僕は笑ってしまった。

「だからね、その時の感動が忘れられないんですよ。」

そうかもしれないなぁ…。
笑った僕が、逆に言葉を失った。

小学校の頃から、図工が大好きで、
実家であるお寺さんにあった、
中世から現代の、さまざまな画集を見て過ごした。
高校生の時には、現代美術に深い関心を寄せ、
自分の進路もその方向で考え出すようになっていた。

中学〜高校時代は、卓也くんにとって、
なかなか辛い時期だったらしい。
(ま、僕も辛かったですが…。)
学校生活・地域社会に、
“どことなく”馴染めない思いをしていた。
その頃の彼にとって、
自転車はそんな日常からの脱出の道具だった。
要するに、自転車に乗って家出を繰り返していたわけだ。

その頃から、自転車メカニックの素地があったようで、
捨てられた自転車を修理して、色を塗り替えていたらしい。
でも、10代の彼の興味は、次第に自転車から、
ダッジやシボレーなどの、
アメリカントラックに移っていった。

高校を卒業して、半ば日本から逃げ出すように、
卓也君はロスアンジェルスに渡る。
とりあえず、学費が安いのが取り柄という
語学学校に入学したものの、
入学してすぐに、ここでは上達しないな、と感じた。
ドロップアウト、スシレストラン等で働く。
お決まりのコース。
当然、その頃は自転車ではなく、
クルマに乗りまくっていた。

その頃、大好きだったバンドは、デッドケネディーズ。
ほぼ同時に、リサーチという雑誌に取り上げられていた、
SRL(Survival
Research Laboratories)、
というアートグループにも興味を持った。
(日本語で知りたい方はここをどうぞ。
 動画もありますよ。)
それは、80年代の半ばから末頃の話。

デッドケネディーズ、リサーチ、SRL、
実はこの3つとも、
サンフランシスコをそのベースにしている。
当然、彼も街そのものに興味を持った。
しばらくして、サンフランシスコに旅行をするのだが、
結局、そのまま居ついてしまった。

SRLのメンバーが教えている、との理由で、
サンフランシスコでも、学費が高いので有名な、
アートインスティテュートに入学。
同じような、センスとバッググラウンドを持つ、
多くの友人と知り合い、学生の楽しさを知る。
学校での授業も、とても刺激的だった。

「僕、初めてね、
 勉強することの楽しさを知ったんですよぉ。」

しかし、前述の通り学費が高く、
途中で学校をあきらめざるを得なかった。
そうして、サンフランシスコで、
アーティストの友人たちと生活する日々が始まった。

アメリカ滞在も終わろうとする年、1991年。
アメリカ・イラクの湾岸戦争が始まった。
この戦争は、卓也くんに大きな衝撃と、
さまざまなことを考えるきっかけを与えた。

彼の周囲は、政治的にリベラルな人が多かったから、
反戦を主張する人も、やはり多かった。
でも、彼らと一緒に声を上げよう、
という気にはなれなかった。
ある意味無邪気に政府を批判する彼らに、
どことなく不信感があったのだ。
(この気持ち、何だか僕にはよくわかる。
 以前書いたけど、
 これから起きるだろう『大波』
を前に、
 僕は、どういう態度をとったらいいのか、
 もう何年も考えつづけている。)
と、同時に石油≒自動車文明に対する抜きがたい嫌悪感が、
自分の中で湧いてくることも、意識していた。

悶々と考え、答えの出ない日々を過ごすうちに、
ほとんどヤケクソ、といった気分になってきた。
友達と、メスカリンドライブ。
ハイウェイを飛ばして、リノという街に行った。
目的は、ギャンブル。

「なんでか知らへんけど、
 その時大勝ちしちゃったんですよぉ。」

その余韻と熱狂の中、街中の公園に入り込んだ。

そこには、クリスマスツリーのように飾られた木々。
飾られていたのは、黄色いリボンで、
湾岸戦争に出征している、
兵士たちの無事を祈るものだった。
あるリボンには、子供の字で、

"Come home soon"
(早く帰ってきて)

と書かれていた。
おそらく、父の無事を願ってのものだろう。

「一般の人にとっては、
 別に戦争の勝敗なんか関係ないんちゃうか?」

卓也くんは、こう思ったそうだ。

それから、彼はさまざまな本を読み出した。
湾岸戦争に限らず、
20世紀に入ってからの戦争の多くが、
石油の利権や価格を巡る戦いだったことを知った。
政府がただ悪いわけでもない、
結局、安価な石油を大量に必要とする、
自分たちにも責任があるんじゃないか、と感じた。

翌’92年、日本に帰国する。
京都に腰を落ちつけたが、駐車場は高い。
必然的に、自転車の生活が復活した。
黒いMTBを購入して、
再び自転車の生活が始まった。

「なんや、ここに答えがあるやん。」

自転車と再び出会った卓也君は、そう思った。
シンプルな生活の第1歩は、自転車とともに始まった。

それから、京都を中心にしていろんな仕事をした。
通訳・照明・音楽関係、SMクラブで働いたことも…。
その頃、仲間と映画を製作して、
見事に失敗、全くの無一文になった。
仕方なく、という感じで当時から通っていた、
自転車屋さん、『ナチュラルサイクル』でバイトを始める。

つくづく思うんだけど、
『ナチュラルサイクル』は、素敵な自転車屋さんだ。
メインの商品は、低価格の街乗り用自転車だから、
普通の人、とくに女の子のお客さんが多いけど、
スタッフの技術が高いので、レース志向の人も集まる。
2階には、『さらさ』という喫茶店があって、
そこでも、さまざまな種類の自転車乗りが、
垣根を越えて話をしていたりする。
いわば、京都自転車文化の発信地だ。

そんな『ナチュラルサイクル』を、卓也くんはこう評した。

「自転車屋さんなんだけど、
 ただ自転車を売ってるわけではないんですよ。」

そこで、仕事をするうちに、
自転車という世界の魅力に、本気で虜になってしまった。
メカニズムそのものの魅力もそうだし、
そして何より、
自転車に乗る個性的な人たちとの語らいが楽しいのだ。
ただし、1つの仕事だけ、というのが性に合わないらしく、
常にもう1つ、何かの仕事を掛け持ちしている。
今は、最初に書いた通り、
メッセンジャー会社“KAZE”で走っている。

「何かね、最近は“KAZE”の方にも
 ハマッてきちゃってるんですよぉ。」

とのことだ。
それもいいんじゃない?
卓也くん。

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Ride safe

and

PEACE!!

2001-09-19-WED

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